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たとえ喧騒の中であれ、小さな声で、話してみること

(まず、先月のHanakoに寄稿した短いエッセイをここに転載させてもらいます。そのあとに、最近のアートシーンに思うことを書いていこうかな……と思いますので、よろしくどうぞ。)



 この社会の中で息苦しさを作り出している要因、なんてものを数えだしたらキリがない。コンプレックスを掻き立ててくるような電車の中吊りや、会社や顧客から求められる過剰なサービスの水準、選択の余地もないままに押し付けられてしまうジェンダーロール……そうした大きなものによる圧力は、私たちの日常に絶えず立ち現れてくる。

そこをどうにか足掻いて、ようやっと一つ乗り越えられたとしても、またすぐに次が現れてしまう。というのも日常的な息苦しさの多くは、「合理的な資本主義社会」という大きな社会の仕組みと密接な関係にあるのだから、終わりなきモグラ叩きを前に暮らしているようなもんだ。

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 そうした社会の息苦しさに疲れたとき、淡い期待を抱いて美術館に行くことがある。とはいえ、美術館の中は聖域、といった訳でもないのだけれど。

美術の世界にだって権力構造、そして審査基準があり、そこに認められた作品群がずらりと並んでいるんだから、合理的な資本主義に包まれた社会全体と大差ない。現代美術の展示空間であれば、革新的であったり、前例を覆すような作品が審査基準を通過して、人類の個性と言論の見本市ですという顔をしてずらりと並ぶ。

けれども、そうした主張、主張、主張のプレゼンテーションが鳴り響く現代美術群の中で、まれに空気がふわりと変わる場所がある。ニューヨークのMoMAでも、東京の森美術館でも、遠く中東にあるルーブル・アブダビでも、それは李禹煥の作品の前だった。

 韓国で生まれ、日本で活動をしてきた86歳の美術家、李禹煥。彼の作品からは、自己主張的な声はほんの少しも聴こえてこない。その代わりに、美術館の壁、その壁にかけられたカンヴァス、カンヴァスに乗る絵具、絵の具を引いた絵筆、絵筆を持った画家の手、手から腕を下へと落とす重力……そうした外界との関係性が連なり、小さな宇宙が確かにそこにある。作家の持つ他者(それはものであり、空気であり、自然法則でもある)への目線が、作品の前にやわらかな空間を作っているのだ。そのやわらかさに触れられたとき、私は不思議と「あぁ助かった……」と、社会の中の希望に触れられたような安堵感に包まれるのである。


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 「喧騒の中で、人に注目してもらうにはどうしたら良いと思う?」

子どもの頃に通っていた劇団の演出家が、そんな質問を投げかけてきたことがある。劇団員たちが、踊ってみるだとか、旗を振ってみるだとか、様々な回答をする中で、その演出家はこう続けた。

「小さな声で話すこと。そうすれば周りの人は音量を下げ、耳を傾けて、あなたの声を聴いてくれますよ」

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 主張が渦巻く中でも、李禹煥の作品は確かな存在感を放つ。それは彼が、そこにある人間以外の小さな声を汲み取っているからなのだろう。

この夏、国立新美術館にて李禹煥による大規模個展が開催される。意外にも、首都・東京では初の試みだそう。これは、疫病や自然災害が相次ぎ、人間側のエゴで物事を動かすことの脆さを痛感させられた社会が、「そろそろ小さき声に耳を傾けましょうよ」と、向かう先を変えた兆しのようにも感じる。美術から見える社会の変化に、心がほの明るくなるのだ。


初出・Hanako1210号「私と、SDGs」



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……というのを寄稿させていただいたんですけれども。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。