それ、背表紙に書いといてよ


大阪にある実家のそこかしこには、私が生まれる随分前から母の本が所狭しと積み上がっていた。背表紙がずらりと並ぶさまは、大人の世界を、というか母の思考を垣間見るようでドキドキするものだが、とはいえ概ねタイトルの漢字で挫折する。しかし七歳の頃である。そうした難読文字列の群れの中に、断固として気に入らない新入りがやってきた。


『ふつうがえらい』


ふ・つ・う・が・え・ら・い。その七文字が目に入ると、私はいつも「んなことあるか!」と舌打ちをした。小学校低学年でもやさしく読めるその背表紙には「アンタ、ふつうに育つんやで、ふつう以外は認めへんからな!」と夢や希望をへし折ってくるような圧がある。

高学年になれば、母の本の中から退屈しなさそうな一冊を選んで読みふける夜もあったが、『ふつうがえらい』だけは避けていた。中を開けばきっと「集団生活を送る上で困らない、社会に馴染む子どもの育て方」とかいうつまらん教育理論が書いてあるのだろうし、そうした本を選ぶ親だという事実を直視したくなかったし。

とはいえ実際のところ、私は非行にも走らず、親に歯向かうこともない、比較的迷惑の少ない少女であった。が、頭の中だけはいつも無言の反抗期であったのだ。「お母さん、これってどんな本?」と素直に尋ねもしないから、ひとりで邪推ばかりを積み上げていく。対人コミュニケーションよりも脳内コミュニケーションに重きを置く人間というのは、上っ面は平凡でも、性根は偏屈なのだ。


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でも社会というのはよく出来ていて、そういう偏屈人間にも受け皿があるらしい。私は十代の頃からインターネットに勝手な持論を垂れ流していたのだが、歯に衣着せぬ物言いが良いですねとか言われつつ、気づけばエッセイストと呼ばれる職業になっていた。

数年前のことである。私の文章に「佐野洋子的散文」だなんて感想がついていたので、はぁ、『100万回生きたねこ』の……と思って同氏が晩年に書いたエッセイ本を読み始めてみたところ、ぶったまげた。絵本作家というパブリックイメージとはまるで程遠い、とんでもなく偏屈で口の悪いバアさんである。これはオモロい。というか、悔しいほどに羨ましい。だって、今の時代は佐野洋子的毒舌をちっとも歓迎しないんだから。

 「不適切」「配慮が足りない」「人権意識の欠如」

ツイッターを開けば毎日、誰かの何かが袋叩きにされている。踊る阿呆に見る阿呆とはもう過去の話で、インターネットの中で踊る阿呆になればすぐさま、叩く阿呆が寄ってくる。人権意識が向上するのは結構なことだし、中には叩く賢人もいるかもしれないが、全体としては地獄である。

そうした息苦しい現代インターネットカルチャーに揉まれ、牙を抜かれつつある私にとって、佐野さんのエッセイは蜜の味であった。たちまち中毒になり、他のエッセイを手に取ったところ、あの七文字が出てきたのだ。『ふつうがえらい』。

それは、1995年に新潮社から出た佐野洋子さんのエッセイ集の表題だった。七歳の頃に我が家の本棚に登場した、あの忌々しい七文字である。二十数年の時を経て、私はようやくその本を開いた訳だが、どれだけ目を皿にして探したって「平均的な子どもの育て方」なんて類の教育論は見つからない。そりゃ、見つかる訳がないよなあ。佐野さんだもの。

ときに猫を蹴飛ばし、ときにオープンカーに老婆を乗せて甲州街道を突っ走り、友人宅に突然「自分が寝るから」とふとんを二組持っていく破天荒おばさんの日常が、切れ味の良い文体で綴られている一冊である。つまり我が母は、根も葉もない理由で娘に反抗されていたのだ。

母さんごめんネと思いながらも読み進めていると「思春期の症状の一つに、親を嫌悪する事が、まっとうな少年少女なら必ずあるものである。私など激しく嫌悪したから、激しくまっとうだったはずである。」だなんて書かれているのです。ほんなら私、まっとうなのか。つまり、ふつうで、えらいってことか。それ、背表紙に書いといてよ!


まあしかし、だいたいの怒りや苛立ちなんてものは、自らの脳の中ででっち上げた虚構から育っていくのだ。ネットニュースのタイトルだけを見て「最低だ!」と騒いでみたり、恋人とのLINEの会話で誤解してキレたり。世の中はそうした、本質とずれた怒りや苛立ちで満ちている。

だから本を読むということは、脳内ででっちあげた誤解を解いていくことでもあるんだろう。一生のうちに解ける誤解の数なんてたかが知れているが、少なくとも私は、親に対する誤解は解けたらしい。


「お母さん、うちに『ふつうがえらい』って本あったよね?」
「あったあった、全然ふつうやない佐野洋子が書きはった本」
「せやな、全然ふつうやなかったわ」





初出誌『オール讀物』(2021年7月号より)







 
 
 
 
 

 


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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。