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ふくよかな対話をするために


私たちはだいたいいつも、誰かと話している。


お茶を飲みながらのおしゃべりであれ、食事中の団らんであれ、打ち合わせであれ、日々の会話があって「その人らしさ」が、より輪郭をあらわしてくる。



同じような話題を起点としても、そこから対話がふくよかで豊かなものになる人がいると思えば、テンポの良い予定調和で終わってしまう人、もしくは手持ちの「知識カード」の見せあいに終始してしまう人もいる。



その、知識カードの見せあいというのが、私はどうも好きじゃない。


私は「あなた」と話をしているのに、相手はまるでWikipediaかのように、この文脈だとこう、この分野で有名なのはこれとこれ……と、事実を羅列して高速再生してくる。私は対話しようと思っていても、いつのまにかそこは「知識カードが多いほうが勝ち」というルールの試合会場になっている。しかも、ゴングも鳴らさずに始まる試合なのでたちが悪い。少なくとも私の好む対話は、勝ち負けのある試合ではないのだ。



一方で、全てを「わかる!」の相槌ひとつで済ませてしまうことも悲しい。


共感というのは、「私はあなたの理解者である」という姿勢の提示だけれども、私たちは、この世界が理解者ばかりじゃないことを既に知っている。

あなたと私は異なる。だから語り合うと世界が広がるのに、相手の思想、相手の哲学、相手の偏愛そのすべてに「わかります!」と共感を示すことはすなわち、見せかけの服従なのだ。


「わかります!」を連呼する裏には『……と言っておけば相手の機嫌を損ねないだろう』という本音が潜んでいるような気がしてしまう。私の持論ではあるけれど、精神をすり減らしている人が一人でもいる空間は、贅沢じゃない……と、常々思っている。服従されてしまうと、こっちまで息苦しくなってしまうのだ。それであれば、「さっぱりわからん!」と言われたほうが、ずっと心地よい。

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