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"意識高い系" おんなともだち

「友達」に関する暗黙の校則というものは、12歳の春に突然設けられるらしい。

 中学に入学すれば、女子はプリーツの入った紺色のスカートに、男子はカラーのついた黒い学ランに身を包む。そんなのは当たり前のことで、もちろん頭では知っていた。中学生は制服を着るものだ。けれどもその瞬間から世界が真っ二つに分かれ、暗黙の校則が生活を縛ることになるなんて、当時の私はちっとも知らなかった。

 小学校時代は平和なものだった。大小さまざまな問題はあったけれど、運動会や音楽会となれば男女関係なく仲間たちと一所懸命に取り組んだ。運動が大の苦手だった私を見かねた優しい友人は、特別ルールをつくって一緒に球技ができるよう工夫してくれることもあった。一方、演劇や合奏となれば、私は台本を書いたり編曲を担当したりして腕をふるった。勉強だって、わからないところは教え合った。そうした毎日がこれからも続くと思っていたのだけれど、「うち、私立受験するねん」と一番親しくしていた女友達に言われて雲行きが怪しくなった。

 そして彼女だけではなく、同学年の女友達のほとんどが私立中学や、他学区の中学への進学を控えていたのだ。「あそこの中学はかなり荒れるから」という評判を聞いて、なんとか避けようとした保護者も多かったらしい。卒業式では友人と離れるのが不安でわんわん泣いたが、その不安は想像以上にキッい現実として翌月には現れた。

「あいつ、男子と喋ってんで」

 
入学式の後、同じ小学校出身の男子と話していたことで早速私は目をつけられた。黒い学ランの群れの中、紺色のプリーツスカートは目立つのだ。

一、女子は女子同士、男子は男友達同士で輪をつくること。


 そんな校則、生徒手帳のどこを探しても書かれちゃいない。でもどうやらそうした暗黙の校則があるようで、従わなけりゃ居場所はなくなる。
 もちろん、暗黙の校則はそれだけではない。短い靴下はダサいからいじめの対象に選ばれること。でも紺色のハイソックスは上級生の特権で、1年は白いハイソックスをはくこと。眉毛を細く整えていないと馬鹿にされること。音楽の授業でちゃんと歌うと白い目で見られること。でも流行りの歌は歌えるようにしておくこと。そうした暗黙の校則を破ると、やっぱりいじめの対象になるということ。

「この輪郭から出たら、仲間はずれな」

 想像もつかない場所に引かれた輪郭線の中で暮らす日々は、息苦しくて恐ろしかった。同じ小学校出身の男子たちは団結して平穏を守っていたけれど、そこに加わることもできない。紺色のプリーツスカートに身を包んだこち側の子たちはそれぞれが自治警察のような顔をして、出る杭がいないかを監視し合って過ごしている。彼女ら曰く私は真面目で生意気な存在だったらしく、上履きや筆箱は何度でもなくなった。

 中学3年の12月。学級崩壊して先生の声が聞き取れない状況に私は我慢の限界を迎え、「自分らうるさいねん、もう黙ってや!」と女の子たち相手に大きな声で怒鳴ってしまい、卒業までの3ヶ月間は自ら招いた地獄を味わった。担任には「アホやなぁ。あと3ヶ月我慢したら良かったのに」と苦言を呈された。

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 中学時代の失敗をもう繰り返したくなかったので、高校ではこちら側、つまりプリーツスカートの女の子たちの中に居場所を確保することに徹した。

 ちなみに私が高校に入学したのは2004年。当時の大阪の公立高校で「いじめられないような立ち位置を獲得する」というのは、大人しく目立たないように過ごすことではない。派手で下品で騒がしい女子高生になるということである。そこで入学してすぐ髪を染め、スカートは床につくほどの長さに着崩して、耳がちぎれるほどのピアスをぷら下げ、アイプチの上から極太アイラインを引いて目を巨大化。授業中には大声で笑い、休み時間はゴリラのように手を叩く。

 そうした努力が功を奏したのか、高校3年間は無傷で過ごせた。いや、私は無傷で過ごせたかもしれないけれど、騒音を巻き散きらかす側としての心苦しさは常にあった。

 そうした思春期を過ごしていたからか、青春ドラマや少女漫画に必ず出てくる主人公の親友という存在は、理解の範疇を超えていた。全力でぶつかり、時に喧嘩し、けれどもお互いの頑張りを讃えあうような"親友"⋯⋯そんなのフィクションの中の存在でしょう、と。

 そもそも親友とは、一体どうやって成立するのか。距離が近づいたところで「親友になってください!」と告白し、二人で誓いを結ぶのだろうか。そんな大胆なことをして、断られたらどうするのか。いや、もっと自然に「私たち、親友だよね!」と認識し合うものなのか。

 派手な字体でBest friendsと書かれた友人たちのプリクラを眺めながら、その未知なる定義を前に頭を抱えた。輪郭線を越えちゃいけない⋯⋯というルールがある中で、どう一線を越えていくのかがわからない。

 そんな私にだって、比較的親しい女友達はいた。とくに吹奏楽部の仲間たちとは切磋琢磨して過ごしたし、二人でプリクラを撮りにいく同級生もいた。けれどもその子には、私よりもずっと深い仲の親友がいる。私はプリクラに「なかよし」と書くのが関の山だった。


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 そうして騒がしく過ごした高校生活の中でも、3年時の美術の授業中だけは静かに過ごせた。選択制で少人数になっていたので、お喋りをする必要もなく、自分の作品に熱中できる時間が心地よかった。そしてちょっと休憩しようと隣に目を向けたとき、驚いた。

 黙々と絵を描く男子のスケッチブックには、いまにも踊りださんばかりの躍動的な人々の姿。こんなに魅力的な心像風景を持つ人が同じ学校にいたのに、私は居場所の確保に執着するあまりにその才能に気づかなかったのか⋯⋯と後悔した。

 そして静かに生み出されている芸術に寄り添い、それを広めていく道を模索していこうと、京都市立芸術大学の総合芸術学科へ進学したのだった。


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 しかし大学では、私が高校3年間で培ったゴリラ的話術が悪目立ちした。京都生まれの同級生は、都度大きな声でッッコミを入れる私を見て「わぁ⋯⋯めっちゃ大阪っぽいなぁ」とはんなり笑う。黙々と制作に集中する同級生が多い中で、座学がメインの学科に在籍していた私はやることもなく行き詰まり、もはやこのコミュニケーションスキルを武器にできないだろうか? と試行錯誤した末にアート系フリーマガジンを創刊することにした。デザインや写真などは他美大の仲間にも頼りながら、私は企画や取材や執筆を担当。
 中でも一番得意なのは営業だった。さまざまな営業先に突撃して媒体概要を熱弁して広告を獲得。大人たちは「こんな美大生見たことない!」と面白がってくれたのだけれど、匿名掲示板には「あいつは何も創れないくせに目立ってる」「意識高い系」という言葉が並び、確かにそうかもしれないな⋯⋯と落ち込んだ。

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 そうした「意識高い系大学生」が社会の一員になると、たちまち意識の高さと身分の低さの高低差により無力感に包まれるのが鉄板であり、私も例に洩れなかった。会社では希望していたアート分野の編集者、というポジションに就けなかったこともあり、未知の仕事に四苦八苦しながら謝り続ける日々。残された自分らしさは、スープストックでスープを掬うことくらいだった。

 そんな中で、私は同志とも呼べる友人に出会った。彼女の名前は田中伶。

 当時東京に友達がほとんどいなかった私は、Twitterで「女友達が欲しい⋯⋯」とつぶやいていたのだけれど、それがきっかけで20代の女性が集まる食事会への参加権を得た。当日になると、シャンデリアの煌めく恵比寿のレストランに、続々と同世代の女性たちが集まってきて、みんな自分の仕事についてしっかり自分の言葉で語っていた。まだ「これが自分の仕事」と胸を張れるようなものは何もなかった私は、出身地と大学くらいしか言えることがない。
 でもそれを聞いて「大阪?私も!」と嬉しそうに声を掛けてくれた子がいて、あぁ助かった! と安堵したのだった。

 けれども最初抱いた親近感は、身の程知らずなものだったと後日知ることになる。彼女は大学在学中に起業し、Eテレの『新世代が解く!ニッポンのジレンマ』に出演したり、BLOGOSで公式ブロガーになっていたりと既に華々しく活動していたのだ。ただ上京したばかりで大阪出身の友達が欲しかったのと、芸術大学出身者という珍しさから興味を持ったらしく、その後私を食事に誘ってくれた。

「めっちゃええやん、頑張ろうや!」

 伶ちゃんは、いつだって私にそう言った。彼女は「なんかやりたいことある!? 教えて!」と私が心の奥にしまい込んでいた夢を聞き出し、それを力いっぱい肯定してくれた。そして私も鏡のように、彼女の話を全肯定した。

 天真爛漫で勇敢な彼女を見ていると、自分はなんて臆病者なのだと思い知らされるばかりだった。伶ちゃんは新規事業を立ち上げながらも、毎朝ブログの更新を欠かさない。よく大失敗にもぶち当たっていたけれど、そんなときはカラオケで大好きな台湾歌手の曲を熱唱して復活しているようだった。趣味も性格も私とは大きく違ったが、だからこそ相性が良かったのだろう。

 インテリアにからきし興味のない彼女の誕生日が来ると、私は花瓶や皿をプレゼントした。「うちにあるお皿、ほとんどしおたんに貰ったやつ!」と大喜びして使い続けてくれるのだから、こちらも嬉しい。

 私たちに共通していたのは、意識だけはお天道様よりも高かったことだろう。自分たちが何者かになるということを信じて疑わず、いつも互いにけしかけ合った。そんな未熟な私たちは、周囲からはもちろん意識高い系だと揶撤されていた。でも、その言葉はもうあまり気にならなかった。慣れない東京で、何が待っているのかもわからない未来に向けて、手をつなぎながら石橋を叩かずに駆けていく相手がいることが本当に嬉しかったのだ。

彼女はその途中で石橋が崩れ落ちて会社を畳み、企業に就職。それでもやっぱり、私たちは互いの存在を認め続けた。そして数年間の会社勤務で筋力をつけたあと、彼女も私もはそれぞれ独立し、前だけを見てえいや! と走った。

 2016年、伶ちゃんは大好きな台湾を紹介するウェブメディアを立ち上げ、
その熱量の高さからたちまち読者を増やした。出産後には子連れでの台湾旅行をテーマにしたガイドブックを出版し、航空会社や旅行代理店と次々にコラボレーション企画を実現。けれどもコロナがやって来て観光ビジネスは絶望的に⋯⋯と思いきや、自宅で台湾気分を楽しむ『おうち台湾』をすぐさま出版。その後、日本国内の台湾レストランなどをまとめた『おでかけ台湾』まで出していた。

 どんな状況でも前向きに走り続けていく様は、伶ちゃんらしいとしか言いようがない。そんな彼女のことを意識高い系だと揶揄する人は、もう誰もいなかった。

 私は海外に拠点を移し、彼女はその後第二子を出産。もう昔のように頻繁に会うことはできなくなったのだけれど、久しぶりに近況報告をすると変わらず「めっちゃええやん!」と返してくれるのだから、私は彼女がたまらなく好きなのだ。

 こうした友人を"親友"と呼んで良いのかは未だによくわからない。だって、滅多に連絡も取らないのだし、その誓いを結んだ記憶もないし。しいて言うなればシスターフッド、という表現のほうが近いだろうか。流されないよう、挑けないよう連帯してきた女友達なのだから。

3月上旬の暖かい春の日。珍しく二人とも東京にいるということで、久しぶりに会う約束をした。この日はちょうど国際女性デー、街はミモザの花で溢れていた。すっかり遅くなってしまった出産祝いも兼ねて、黄色がよく似合う彼女にミモザの花束を買って行こう。9年前に私がプレゼントした、小さな花瓶がまだあるはずだ。





【追記】2024年4月9日、新刊『小さな声の向こうに』を上梓します。この「"意識高い系" おんなともだち」ほか、旅先で、SNSで、芸術を通して出会ったさまざまな友人とのお話を収録しています。


この記事はフェレロロシェさんによる「ミモザの日」を広げる活動「 #ミモザの日だから伝えたいこと 」に賛同し、企画の一環として文章を寄せています。ミモザの日について、詳しくは特設サイトをご覧ください。




新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。