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美大コンプレックス、なるものはどうして生まれるのか

美大コンプレックス、という言葉について考えている。

画家やイラストレーター、デザイナーなどの仕事をしているけれど専門教育を受けたことがなくて……という立場の人が使うことが多いこの言葉。まず、こうした言葉は他の分野でもあるのだろうか?

たとえばこれが、「医者をしているけれど専門教育を受けたことがなくて、医大コンプレックスなんだよね」であれば即刻通報案件である。医師法は医師免許を持たない無資格者による医療行為を禁じており、 違反すれば3年以下の懲役か100万円以下の罰金、その両方が科される。

「バレリーナをしているけれど、専門教育を受けたことなくて……」というのは通報案件ではないけれど、バレエ団を経由していないバレリーナというのは聞いたことがない。知っている人がいたら教えていただきたい。

「ピアニストをしているけれど、専門教育を……」というのは、かなり稀ではあるけれど聞くこともある。ただそれは「音大には行っていない」という話で、恩師と呼べるような相手は必ずいる。そういえば、映画『海の上のピアニスト』では船から出たことがないのに、誰に習うでもなく、何を手本にする訳でもなく突発的にピアノが弾けるようになる天才ピアニストが現れるけれど、あの設定には無理がありすぎませんか。

「役者をやっているけれど、専門教育を受けたことなくて……」というのは、逆にあまり聞かない。もちろんパフォーミングアーツを専攻できる大学はあるけれど、その前に子役としてキャリアを始めている人もいれば、演技未経験のモデルやアイドルが大抜擢されることもある。どこからが専門教育の始まりか……という線引が難しそうな世界だな、と思う。

一方で建築士、学芸員などは、医者と同じく専門教育を受けた人が就業する分野である。総合大学の工学部や文学部を経てそうした職に就く人もいれば、美大の建築学科や芸術学科を経ている人もいる。


……と、浅い知識でぐるりと考えてみたけれど、

・専門知を学ぶための大学のような機関が存在し
・そうした機関で学んだ人が多く活躍する分野でありながらも
・そこを経ずとも独学で技術を身につけられる人もいる

という条件が当てはまる分野は、かなり限られているのかもしれない。

そしてコンプレックスというのは、それが直接的か間接的か、意図的か無意識的か……に関わらず、社会や他者からの圧を受けて生まれるものでもある。そういう意味では、美大を経た側が出している「圧」のようなものが存在するのだろうな……と、いち美大卒業生※として思うこともある。

(※正しくは京都市立芸術大学の美術学部。でもそれを略して芸大って書くと東京藝大を想起させてややこしいので、美大と書くことが多いのです。歴史は藝大よりも、京都芸大のほうが古いのですが…。歴史は……)


その「圧」なるものの正体は何なのか。

もちろん、美大といってもそれぞれ校風が異なるし、その中にも様々な専攻があり、さらにはそこの色に染めようにも染まらないような個々の学生たちがいるのだから、それを一括りにして「圧」だなんて言葉を使うのはあまりにも暴力的な話の進め方ではある。

だからこうして語ることで取りこぼすものが沢山あるだろうし、時代や立場によってはまったく違う景色が見えることもあるだろうけれど……でも一旦、今の私が思う「美大コンプレックス」の生まれる所以について、その「圧」を生む正体について書き留めておきたいのである。

──


美術大学で行われていること……というと、絵を描いたり、彫刻をつくったり……といったイメージが浮かぶかもしれない。けれども美大にも座学の授業はそれなりに存在していて、西洋・東洋の美術史や語学をはじめとして、哲学、自然科学などを学ぶ機会がある。

もちろん時間は限られているので、専門知……と呼ぶには至らない段階で卒業してしまう(私のような)学生のほうが多いとは思うのだけれど、こうした座学で学んだ知識が案外、美大生を美大生たらしめているんじゃないかしら、とも思う。

というのも、なにかを独学で作ろうとするときに「まずは美術史、デザイン史を体系的に学ぼう」と教科書を求めて図書館や書店へ……という人もいるだろうが、少数派だろう。それよりも画材の使い方を検索したり、著名な作品を参考にしたり、世に普及している商品を観察することのほうがよほど多いとは思う(私がデザインの真似事をする際もそうしている)。

ただ実践者としてあたらしいものを創るとき、過去の歴史の流れを知っていることは役に立つ。美術史にせよ、デザイン史にせよ、「最初は批判を受けたがその後の主流になったエポックメイキングな衝撃作や活動」を学ぶことが多く、それはつまり革命者としての視点を手に入れるきっかけにもなるからだ。

さらに、「過去の歴史をある程度さらっている」という前提知識を集団として持っていることによって、仲間たちが新しく作ったものの評価軸に「時代性」というものが濃く出てくる。

──

それが如実に現れるのは、実技の合評。これは学科にもよるだろうけれど、私が立ち会った合評の現場では、「よく出来てはいるけど、既にやり尽くされた手法だよね」というような評価に度々出会った。どれだけ技術力が高くても、既に誰かが作ったもの、確立された様式美であれば、「それは既出」と言われてしまうのだ。

なぜ今の時代に? なぜこの素材で? なぜあなたが? どういった文脈の上で? ということをひたすら問われていく。既に世間で評価を得た作品と似たものを創る、ということに対して、非常に冷ややかな空気がそこにあるのだ。入学するまでは、デッサンを中心とした技術力を磨く訓練をしてきたのに、いざ入学すると評価軸が突然変わる。たとえば「ダリの作品に衝撃を受けて、画家を志した」という人はいるだろうけれど、だからといってダリの時代に評価されたようなものを今描いても、それは過去の様式美だからと言われてしまう。

私自身、美大に入る前は現代美術というものをほとんど知らなかったので、最初はそうした空気に怯えてしまった。同じように怯えている学生も少なからずいた。でも、数年すると馴染んだり、打ち破ったり、強い意志を持って逸脱したり、むしろ真似ることをコンセプトに道を模索したり……と、私も周囲も、様々な形で適応していくことになる。

ただ、そうした価値基準の中で、逆に今の時代の空気をまとった作品は、「既出!」という面からの指摘はされにくい。

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