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歳の離れた友人に向けて。 #ここじゃない世界に行きたかった を紙の本にした理由。


世界がたった一つのことに強い関心を持ち始めてから、季節が一周し、そして二度目の春が来ようとしています。これまでは、興味の矛先なんててんでばらばらだったすべての人類が、まさか疫病というたった一つの厄介事に、頭を悩ませることになるなんて。


私たちの世代は、一方的に "ゆとり世代" と名付けられて「のんびりしている」と呆れられたと思えば、今度は "ミレニアル世代" と呼ばれて「新しい消費行動だ!」と持て囃されたりもしました。

無論「○○世代」という一方的な総称をすることは、あまり好きにはなれません。こぼれ落ちるものが多すぎるからです。けれども一つ断言できることがあるとすれば、好きな時間に、好きなものを、好きなだけ摂取する。それが思春期以降の私が過ごしてきた人生であり、そして多くの同世代の常識でもあるということ。掌サイズのデバイスの中で、好きな人をフォローして、嫌いな人はそっとミュートする。自分が見える世界は、自分で取捨選択が出来るようになりました。それはとても快適で、楽しく、何不自由ないように思えていました。


けれども、少し寂しいこともありす。

親や祖父母たちが体験したような、五輪や万博に全国民が熱気する……といった「世代を超えた熱狂の渦」には、きっと死ぬまで縁がないのだろう。誰もが知るスーパースターよりも、人の数だけ存在する「推し」を支えに、私たちは生きていくんだろうなぁと、ぼんやりとそう思っていました。家族がお茶の間に集まる時間は減り、みんなが小宇宙の中に閉じこもり、「好き」という気持ちから穏やかな分断が加速していく。そして芸術も文化も細分化されて………と、思っていたのに。大疫病という未曾有の出来事を前に、私の安直な未来予想図は簡単に崩れ落ちたのでした。


私は、32年生きてきたこの人生で初めて、「老若男女みんなが一つのことに熱中している」という世界を目の当たりにしました。もちろん、ポジティブな熱狂ではありません。けれども間違いなく、世界中の関心事が、一つになったんです。

そうしたときに、如実にあらわれてきたのが、世代間の違いでした。


接しているメディアが異なることで、政治的見解も、疫病への危機感も、まるで違う。ネットニュースでは「是」と言われていることが、ワイドショーでは「非」だと言われていて、逆もまた然り。その差はみるみるうちに大きくなっていき、年長者の多いFacebookを開くことも、家族とLINEをすることも、恐ろしくなっていきました。これまでなんとなく「価値観が合わないな。世代が違うからだろうか……」と思っていた人たちとの違いが、どんどん浮き彫りになっていく。そっとミュートをして、関係性を断ってしまおうか──。何度もそう思いました。


アメリカに身を置いていると、そうした「分断」はより顕著に現れました。支持政党による分断。人種による分断。都市と地方の分断……。政治から生活まで、多岐にわたる分野で意見が食い違うのだから、SNSを開くことも億劫になります。「居心地の良い世界」を守るためには、分断された向こう側の声は、どうしても不快なものに聞こえてしまうから。


けれどもしばらくすると、「居心地が良い」と思っていたこちらの世界が、今度はおっかなくなってくる。必要以上に上の世代を攻め、思想を批判し、相手より自分が正しいと信じて疑わない。ニューヨークのようなトレンドに敏感な大都市では、そうしたムードがうねりを作り、より大きな勢力になっていく。みんなが同じ色に染まっていくのです。もうこうなると、誰かと話をすることすら恐ろしくなりました。相手と自分の主張が少し異なるという、そうした当たり前の事実を確認することが怖かった。とくに「謙虚でいなさい」「空気を読んで」「調和こそが大切です」という空気の中で育てられてきた日本人女性である私にとって、視点の異なる友人と接することの難易度はあまりにも高かった。訓練不足だったのです。従来の平和な生き方のままでは、息もできないような日々が長く続きました。


そうした混沌の中で、一体何を信じればいいのだろう。これまでは経済的成長や、人との出会いが心の支えになっていたけれども、今はそのどちらも崩れ落ちてしまった中で、心に空洞が出来てしまう。お手本にしてきたビジネス書にも、疫病時のライフハックなんて書いている訳がない。心の置き場所がなくなってしまったのです。


そこで私は、自分の心を落ち着けるためにも、いくつかの文章を書きました。ちぐはぐとした家庭内のこと、アメリカ社会の分断のこと、世代間で異なるさまざまな価値観のこと──…。そうした一つひとつのテーマについて、自分の考えを掬い上げ、祈るような気持ちで書きました。書くという行為を挟むことによって、自分の悩みはある程度明快になり、少しずつ気持ちが楽になっていきました。自分で自分に、教本を書いてやるような日々。まさか自分が、疫病時に、宗教や芸術に傾倒してきた人々の気持ちを、こうして追体験することになろうとは。


そうした文章をインターネットに放つことで、志の近い同士を見つけることも出来ました。あぁ、自分は一人ではなかったのだと、もう少し息がしやすくなりました。

けれども、分断の本質的な問題は、「分断の先にいる人は、同じメディアには触れていない」ということです。インターネットに書いた文章がどれだけバズっても、届かない世界には届かない。私の得意分野はソーシャルメディアですが、そんな得意分野、分断を前にすればちっとも役に立たないのです。そう悩んでいた頃に、「文藝春秋の山本と申します」というタイトルのメールが届きました。

「塩谷さんの言葉を、本というかたちでより広く多くの方に届けられないかと考えております。」

とても丁寧に私の記事の感想が綴られたメールの最後は、そう結ばれていました。文藝春秋。誰もが知っている、大きな、古い会社です。あぁ、それなら届けられるかもしれない。希望を感じながらも、私は大きな組織に対して警戒心を持っていること、言論の自由を守りたいこと、そして誰かの利益にあやかって意見を主張をするのは好まないことを伝えました。それでも編集者の山本さんは、根気強く、一緒に本を作ることの可能性を示し続けてくれました。

そして、一緒に本を作ることになりました。『ここじゃない世界に行きたかった』というエッセイ本です。

これまで私は、インターネットだけで書くことに、誇りを持って生きていました。無駄な紙の印刷もしないし、届けたい人に素早く届く。居心地が良く、読んでくれる方々との価値観も近く、その多くが同世代。そこだけで食べていける仕組みだってある。けれども今回、紙の本にしたいと思ったのは、「ここにいない人」にこそ、伝えたいことがあったからです。

本に収録している23編では、私は、私の視点をひたすらに綴り続けています。自らの価値観を育んだ文化的背景や、生まれてきてから今まで触れてきたメディアの形、そして「こうした時代を作っていきたい」という意思。長い長い自己紹介のような一冊には、"世界の諸問題への視点と生活への美意識が胸を打つ、〈多様性の時代を象徴する〉新世代エッセイ集!" という帯が付けられて、全国の書店で販売されることになりました。


私は、「私の意見が正しいから届けたい」とは思っていません。私にとっては自分で自分のために書いた教本のような一冊だけれども、読者にとっては、ただの本です。ただ、「あなたと私の意見は違う。それは、こうした背景があるから」ということを伝えたい。私の60代の大切な友人に、どうやって言葉を届ければいいのか。そうしたことを、悩みに悩んで、書いた本でもあるからです。


ありがたいことに、発売後、「両親へのプレゼントに」と2冊目を買ってくださる方がいました。「中学生の娘と一緒に読みます」と言ってくださる、40代の親御さんもいらっしゃいました。世代を超えて読んでもらいたいと書いた本が、そうした形で広まっていくのは、本当に嬉しいことです。

そして何よりも嬉しかったことが、私のことを「いつまでも幼い、末っ子の娘」だと思っていた両親に、この本を届けられたことです(私は三姉妹の末っ子です)。私はもう両親の頭の中にいる「末娘の舞」とは異なるということを、ようやく理解してもらえたようで、対話の機会がうんと増えるようになりました。


第一章にある『私はそのパレードには参加出来ない』では、女性の生理にまつわる活動と、それを批判された経験、そして自らが60代になったときの想像を綴っています。

第二章『競争社会で闘わない──私のルールで生きる』では、体力勝負である男性社会の中でこぼれ落ちてしまった経験と、そこから新しく作った自分のはたらき方について、希望を持って書いています。

第三章『五感の拡張こそがラグジュアリー』では、これまでの「贅沢」には、提供側の忍耐や我慢があったのでは? という問題提起をしながら、これからの時代のフラットな贅沢について、私からの提案をしています。

第四章『私の小さなレジスタンス』では、環境問題にまつわる、私なりの社会へのレジスタンスを。そして『50歳の私へ』では、移り変わるメディアのトレンドと、そこにもう追いつけなくなったであろう、50歳の私に向けた約束事を書いています。

どれも、個人的な視点ばかりです。けれども、混沌とした現代から痛いほどの刺激を受けて書いたエッセイなのだから、私個人ではなく、時代が産んだものだとも思っています。32歳の私が見ている景色が、年の離れた友人にとって、どうか「視点の異なる友人」となりますように。そう願って書いた本です。一番読んで欲しいと願った人に、どうか届きますように。






※便宜上ここから有料記事という風になっていますが、この先には文章はありませんので、ご了承ください。(『視点』購読者の方にメールでお届けしたかったために、このような形となっております)

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。