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『これぞ我が銃、我が愛銃』第10話「フュリアスネイビー」

 美しいものが見たかった。それは高校二年のある時期の毎晩と毎朝、目にしていたものでは断じてない。

 彼女は必死の形相で息も絶え絶えに走っていた。右手には松葉杖。よろめきながらも倒れまいと一心不乱で駆け続ける。死の恐怖から逃れるために。
 またあの音だ。銃声だ。弾丸は足のすぐそばのアスファルトに着弾する。驚いた拍子によろめき、倒れてしまう。すりむいた。痛い。すごく痛い。文字どおりかすり傷なのに、それでもすごく痛い。

 撃った男が近づいてくる。逃げなければ。彼女は目の前にある松葉杖をつかんで何とか地面に立て、自身の体重をかけて踏ん張る。直後、急に体が軽くなり、顎から地面に叩きつけられた。男に松葉杖を蹴り飛ばされたのだ。痛い、痛い。髪の毛をつかまれ、頭を持ち上げられる。本当に痛い。目の前に銀のきらめきが迫った。ギザギザの付いたサバイバルナイフ。銀の表面に映り込んだ自分の顔が見える。他人だ。大人の女だ。刃は目元から下がり、視界から消えた。そして、首筋に冷たい感触が走る。嫌だ! 恐いよ!

 そこで目が覚める。殺されかける他人の夢。二か月ほどの間、毎晩見た。朝、起きたときに鏡を見ると、そこには馴染みの顔があった。うんざりした顔をしていた。初めてその夢を見た日から同じ表情だった。夢と起きたときの顔、どちらも不快なものだった。

 美しいものが見たかった。美しいものだけを見て育ちたかった。

・・・
 
 二千円。二十四時間でたったの二千円とは。家賃もそうだが、首都圏で住むことの出費の高さを痛感する。が、レンタカーの窓から見えたハンバーガー店のアルバイト募集広告に書かれた時給の低さに驚き、どっちがマシなのかと逡巡する。

 玲子の命日からはだいぶ過ぎてしまったものの、まとまった休みを取ることのできた京香は、玲子の骨が眠る墓地を目指し、石垣島の国道を車で緩やかに走っていた。
 沖縄を訪れた経験のない京香は昨日、まずは本島に降り立ち、その日は観光に費やした。特に以前から興味のあった〈平和記念公園〉と〈ひめゆりの塔〉は外すことができなかった。バスとタクシーを使って移動した際、日差し除けなのか、運転手にサングラス姿が多かったことには、奇妙な仲間意識を感じてしまった。公園内には、〈健児の塔〉や〈韓国人慰霊塔〉などもあることを初めて知り、他にもどれだけの慰霊塔、つまり無残に亡くなった人々を祀る、記録と追憶の石碑があるのだろうと思いを巡らした。
 
「ほんのちょっとでもいいから、寄ってもらえないかな?」
「そう……ですね。では、ご迷惑でなければ、伺わせていただきます」
 石垣島の空港ロビーから玲子の母親に電話をした際、やはりではあるが、家に招かれた。玲子が両親と住んでいたあの家は彼女の死後に引き払われ、残された家族は母方の実家がある石垣島に居を移していた。昨年の秋、転居を伝える手紙が届いた。玲子の遺品にあったアドレス張に載っている連絡先に送られたものだった。そこに書かれた電話番号へ、今年の命日を前に初めて電話をかけ、墓地の場所を聞いたのだ。
 
 関東で見る海岸とは明らかに色の明度が違う。旅行者ゆえにそう映るのかもしれないが、そういった補正だけでは決してない、沖縄特有の海と砂浜の色合いは確実にある。ダビングを繰り返したビデオテープのぼやけた映像とレーザーディスクの解像度の違いとでもいえようか。事実、石垣島で撮影をしたという映画『ソナチネ』をレンタルビデオで見たことがあるが、いま砂浜に足を埋め、眺めている海岸はブラウン管に映し出されたビデオ画質とはまったく異なる、鮮明な白と青だった。
 ふと、そういえば、Letterの作品はVHSだけの展開だったなと思った。すでに衰退しているレーザーディスクはないにしても、新しく登場したDVDでのリリースも今後あるのだろうか。年が変わったこともあり、時代の変化を感じる。手首に何かが巻きつくことを嫌う京香は、PHSを手に入れた以後はそれを時計代わりにし、腕時計からおさらばした。テクノロジーの発展も時代の流れを実感させた。だが、ここ沖縄では、まどろむような、ゆったりした流れがあり、これが〈ウチナータイム〉なのかと京香は不可思議な気分で波音に耳を預けていた。

・・・
 
「隣、大丈夫ですか?」
「あ、はい。どうぞ、どうぞ」
「篠塚さん、ですよね?」
「はい。えっと、照屋さん?」
「そうです、そうです。さっきは研修のとき、フォローありがとうございます」
 玲子は微笑みながら、京香の顔を見つめている。
「いえいえ、たいしたことは」
「研修ペアが篠塚さんで助かりました」

 サングラス越しとはいえ視線はなるべく合わせたくない。京香は顔の向きを変えないまま、視線だけを相手の目元から外す。慣れた動作だ。目は自然と玲子の髪に着地する。軽やかな印象を与える栗色のシャギーカット。

「篠塚さんの髪、きれいですよね。どこかのいいお店でやってもらってるんですか?」
「え? いや、特に」
 相手のヘアスタイルに気を取られていた京香は、向こうからも髪のことを聞かれ、虚をつかれた。
「いつも適当なところです」
「そうなんですね。その黒いつやも特別なシャンプーとかトリートメントを使ってるわけじゃないんですか?」
「ええ、髪にはそんなに手をかけてないから」
「自然でそれなんだ。いいですね。私は何もしないと野暮ったくて、自然なストレートの黒に憧れちゃう」
「研修の最初にスーパーバイザーから説明があったとおり、私はこれをかけてないといけなくて。だから染めちゃうと、パンクみたいだし、ヘアスタイルに冒険はできないんですよ。服装もレザーは避けてます」
 玲子はふふっと笑う。
「ごめんなさい。篠塚さんがパンクバンドやってるところを想像しちゃって。なんか似合いそう」
「いやいや。照屋さんのほうこそキマッてますよ、その髪。紺のブラウスに合わせた緑のリボンタイもおしゃれ。見た目に気を使える人はいいなって思います」
「嬉しい。私たち、いいお友達になれそう。研修中、また迷惑かけちゃうかもしれないけど、どうか見捨てずに助けてください!」玲子は手を合わせて拝むように頭を下げる。「私はこのお仕事、ずっと頑張っていきたいんです!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」京香も軽く頭を下げた。
「じゃあ、あらためて。照屋玲子です」
「篠塚京香です」

 玲子は満面の笑みを浮かべる。かけがえのない宝物を手に入れたといっても不思議ではない明るさに満ちていた。だが、京香の視線は玲子の顔から外れ、緑のリボンタイに落とされていた。

「もう休憩時間終わりだから一緒に戻ろうか、京香さん」
「え?」
「あ、ごめんなさい……いきなり、下の名前で呼んじゃって」
 玲子は急に悲しげな顔をした。何か取り返しのつかないことをしでかしたかのような悔恨の表情だった。
「いや、そうじゃなくて……」

 名前のことではない。『一緒に』。京香が反応したのはそこだった。しかし、それを説明することはできなかった。

「大丈夫ですよ、玲子さん。気にしないで」
「うん、ありがとう。私って、人と仲良くなるのが苦手で。空気を読まずに馴れ馴れしく接して、ウザがられることも多いんです。それに、篠塚さんは目にちょっと問題があるからサングラスをかけてるんですよね。なのに、さっきはじっと見ちゃってたし……」
「目のことも、あんまり気を使わないでいいから。気にされるとこっちもつらいし。とりあえず、私のことは『京香』でいいし、タメ口でオッケーだよ」
「ありがとう! 京香!」
 過ぎ去りし日。玲子の追憶。彼女はもういない。

・・・
 
「元々は沖縄市に住んでたんだけどね、基地のこととかでいろいろ嫌なこともあったから、私が中学生の頃、こっちに引っ越したの。それから本土の人と結婚するのを機に、あなたの街に住みだして、そこで玲子が生まれたのよ」
「じゃあ、玲子さんは沖縄に住んだことはないんですか?」
「ええ、お婆ちゃんをすごい好きだった子で、よく家族で会いに行ってはいたけどね。私は沖縄文化を特に教え込むようなことはしなかったから、あの子は沖縄を自分のルーツと思っていたのかはわからない。親戚の方言も外国語みたいってよくからかってたし」
「職場の近くに沖縄料理店があるんですが、そこに一緒に行こうって誘われたことがあります。結局、一緒には行けずじまいでしたけど……」

 墓参りを終えた京香は、玲子の母が住む大きな木造家屋を訪れた。ここに寄ることの最大の躊躇はサングラスの存在だった。通夜の晩もそれが理由となり、家の前で踵を返したのだ。その結果、春奈と出会うことになったのだが。

「確か、あなたは玲子と同期だったんですってね」
「はい。頻繁に人が出入りする職場なんですけど、数か月後には同期で残ってたのは私と玲子さんだけだったんです。それもあって、わりと打ち解けて話をしてました」
 一月だがカーペットなど要らず、畳の上が心地よかった。京香は玲子の母と互いに正座で向かい合っている。黒眼鏡はかけたままだ。
「あなたのことをかけがえのない仲間だと思っていたんでしょう。あの子は人見知りが激しくてね。子供の頃は本当に地味で。大学生デビュー? そういう感じで、高校卒業してから急におしゃれに目覚めて、それまで避けてた接客のアルバイトも始めたり、ボーイフレンドなんかもできるようになったの」
「あの、実は玲子さん、つき合ってる人との関係に悩んでたみたいで……」
「うん、知ってる。本人とも話したよ。別に彼は何も悪くないと思う。私は誰かを恨んだりはしない」

 頬は以前からそうではなく、ここ一年をかけてみるみる痩せていったと思わせるこけ具合だった。中途半端に白髪染めされている頭髪も対面する者を不安にさせた。だが、目は生気を失わず、逞しくすらあった。その目は玲子に似ていたが、どことなく、春奈とも重なった。

「正直に言います。実はそんなに玲子さんとは親しいわけではありませんでした。職場の同僚として社内で会話する程度で、互いの家に行ったこともなかったですし。だから……ごめんなさい」
 さんぴん茶を一口飲んだ玲子の母は、喉に流し込む間のわずかばかり何かを考え、それから口を開く。
「石垣までわざわざ会いに来てくれたことが嬉しいし、きっと、あの子も喜ぶ。それにね、アドレス張にはあの子が特に大事にしていた人の名前は緑の蛍光ペンで書かれてたの。玲子は緑色が好きだったから。でね、あなたの名前も緑色」

 それを聞いた京香は、体を玲子の母から背け、サングラスを外した。正面から見られるのは無理だが、側面ならなんとか耐えられる。まぶたを固く閉じ、玲子の顔を思い浮かべた。
「どうかしたの? 大丈夫?」
「い、いえ。平気です」京香は玲子の母の顔を見ずに言う。
「玲子がああいう決断をした理由はいまもわからない。私が本土で産まなければこうはならなかったかも。そんな風に考えることもある。夫はこっちに住んでもいいと言ってくれたのにね。でも、やっぱり、あの子は向こうで生まれ育ってよかったんじゃないかと思う。こんなにも泣いてくれる友達が持てたんだから」

 京香は涙がこぼれ落ちるジーンズに広がる点描画と濡れる感触を忘れまいとした。
 畳は涼しく気持ちいい。時はゆらゆら流れていく。

・・・
 
「ええ、はい。宣材の監修については、版元さんに確認を取らないといけないので私からはなんとも。前にOKが出てる写真をそのまま使うなら再監修は不要だと思いますが、トリミングとか加工するとなると、あらためてのチェックが必要かと。いま出先ですので、戻りましたら資料を確認いたします。はい、こちらから折り返しで。引き続きよろしくお願いいたします。それでは」

 持田が携帯電話を切り、ふっとため息をつく。「私は最後まで抵抗したんですけどね、これ持つの。でも、室長が『お前が持たないでどうする?』なんて言うもんだから。便利は便利だけど、こんなのなくても別に――」と途中で言葉を切る。「ああ、ごめんなさい。小野里さんにはすごい助けになりますよね」持田は苦笑いする。春奈は、気にしないでほしい、と手振りで伝えた。
 第三弾となるビデオのレコーディングと撮影が終わり、あとは編集などのポストプロダクションが待っている。Letterとしては待機状態の春奈は持田のアシスタント活動期に入った。

「あっち、人通りが少ないから、そこを曲がりましょう」
 持田は春奈と一緒のときはなるべく人目につかない道を選ぶ。これから向かうスタジオは駅から遠く、周囲にはあまり使われない倉庫やら閉鎖された配送センターが間隔を空けてポツポツと点在するのみで、どこを通ったところでそう違わないのだが。

「わ! 危ない!」
「ああ!」

 後輪が迫り、持田は咄嗟に自分の左隣にいた春奈を左手でうしろに押し退け、右手で手押しハンドルのグリップをつかむ。廃ビルの角を曲がろうとした際、視界の外からうしろ向きの車椅子が現れ、あわや衝突しそうになったのだ。
「すいません! 僕の不注意です! 意外に急な坂道でうしろに戻ってしまって」
 車椅子に乗った青年が立ち上がり、二人に頭を下げる。彼女たちは狐につままれたような顔をした。持田の目が青年の足と車輪を行き来するのに気づき、彼は取り乱す。
「えっと、これは、どう説明すれば……」
「坂崎さんですよね?」
 状況を把握した持田が得意の仕切りのよさで場を納めにいこうとした。
「あ、はい。わかります?」
「ニット帽にサングラス姿ですけど、声でもう。それに車椅子」
 青年はドラマ『回り続ける僕の足』に主演する、俳優の坂崎一朗太だった。
「あなたは確か、どこかのマネージャーさん?」
「平たく言えばそうですね。毎回、坂崎さんに心ない台詞をぶつける先輩役の金森淳、彼はうちの事務所なんですよ。マネージャーは別のスタッフが担当してますけど。坂崎さん、今日も撮影でしたっけ?」
「いえ、違うんですが、ちょっと練習を。外のほうが実感持ちやすいし、この辺は人が少ないから」
「大変ですね、ご苦労さまです」
「全然。ドラマはおかげさまで評判がよくて、金森さんも物語の中では悪い先輩役ですけど、僕なんかよりずっと人気があるキャラクターなんです」
「金森はあれが持ち味ですからね。たまには清い心を持った無垢な役がやりたいってよく言ってますよ。いまのところ、そんなオファーはないんですが」
「僕だけが足を引っ張っちゃって。この役をやるにあたって、ある程度の批判は覚悟してたんですが……」坂崎は車椅子に目を落とす。
「私は違和感ありませんでしたよ。評論めいたことは何も言えないですけど」
「『イメージアップを図ってる』とか『健常者丸出しの演技』とか投書で届くんです。『歩ける人の目線』だとか。それはまだいいんです。第一話を撮ったとき、僕がスタジオで体をのびのび動かして、はしゃいでたことを目にしたエキストラの方が、その様子を雑誌で語ってて」

 春奈も覚えている。坂崎が車椅子に座る前、スタッフに対して自慢げにハイキックのポーズを決めていたことを。彼女自身、あまりいい印象はなかった。
「あのとき話してたスタッフさんたちとは、前に格闘技番組で一緒にロケした仲なんです。久しぶりにお会いできたから、つい調子に乗って……」
「私も読みました。悪意ある誹謗記事だったから、そこまで気にされなくても」
「不快に思った人がいたのは事実です」
 坂崎の言葉に春奈はいたたまれない気持ちになった。持田と話している彼の視線がこちらに向かないことを願う。
「作品に泥を塗る形になってしまい、金森さんやそちらの事務所の方々にもご迷惑をおかけして申し訳ありません。初めての主演だったのになんか空回りしちゃってます。幸い、と言ったらよくないかもしれませんが、これは連続ドラマで、まだ撮影も残ってます。現場でのしくじりは現場で取り返さないと」
 坂崎は車椅子のティッピングレバーやハンドリムを点検し壊れている箇所がないか、くまなくチェックする。
「僕は演技するしか能がないんで。いや、能もないな。とにかく頑張るしかないです。それじゃあ、さっきはすいませんでした。そちらの方も」

 坂崎は持田と春奈にそれぞれ向きを変え、別々に頭を下げる。Uターンさせた車椅子に乗り、持田たちの向かう先とは反対方向にこぎ出した。
「『歩ける人の目線』か。彼は必死になって違う目線に立とうとしてるんですね。こういう言い方、間違ってたら突っ込んでください」
 存在感ある坂崎が縮んでいく様を二人は見えなくなるまで見送る。その間、春奈はずっと喉のつかえを感じていた。

・・・
 
 鳴り続けるコール音。規定の時間が過ぎ、留守番電話のテンプレートメッセージが応答する。
「リハビリテーションセンターの磯谷です。小野里さんの声のことでお話したいことがあります。お電話、もしくは難しければ、直接お越しいただけないでしょうか。お待ちしています」

 春奈は久しく受話器を取り上げることのない電話機から発せられた、責めを感じさせる淡々とした口調のメッセージを聞いて、胸が苦しくなった。録音データを消去し、聞かなかったことにしようかとも思ったが、意を決して、バスの時間を調べ始めた。テレビではちょうど『回り続ける僕の足』のCMが流れていた。

(第11話へ続く)

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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