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『これぞ我が銃、我が愛銃』第11話「デストラクティブゴールド」

 待合室の椅子に座る間、春奈は貧乏ゆすりが止まらなかった。このまま帰りたい、そう心の中でつぶやく。呼ばれる前に帰ってしまえ。
「小野里さん、小野里春奈さん。どうぞ、お入りください」
 もう帰れない。行くしかない。春奈は立ち上がった。まだ足は震えている。
 
「訓練に来なくなってから、もう何か月経つかな――」
 胸のネームプレートに〈磯谷〉と書かれている男はクリアファイルから書類を取り出し、ペラペラとめくった。診察室には磯谷と春奈しかいない。
「どこから話しましょうか。まず先に言っておきますが、小野里さんを叱責するつもりはありません。怖がらなくていいですよ。ただ、今後を考えれば、いい話でもないですね」
 磯谷は袖机からビデオを取り出す。第三弾のタイトル『リミテッドタイム』のロゴが大きく映えるデザインのパッケージだ。
「このビデオに出てるのは小野里さんですよね?」
 磯谷は単刀直入に質問し、春奈はうなずく。
「それと、歌ってるのは他の人ですね?」

 春奈は最初の質問に対してうなずいたままうつむく顔を軽く上げ、また首を振る。そのまま、またもうつむいた状態を維持し、磯谷と目を合わせない。その様子は悪事が露呈し、観念した愉快犯のようだった。
「顔を上げてください。別にあなたが何をしようと自由です。というより、すごいと思います。どういう経緯か知りませんが、たいした行動力ですよ」

 ゆっくりと顔を上げた春奈は、磯谷がさっきまでの固さがない柔和な表情でこちらを見ていることに気づき、安堵した。よく見れば磯谷の頭髪には白いものが目立つ。三十代後半くらいだろうから、増えていても不思議はないが、この数か月で急に白の領域が広がった気がする、春奈はそう感じた。そして、清掃会社の課長の白髪頭がふと思い出された。

「確認させてください。いまの声の状態は? 発声訓練は続けてますか?」
 春奈は京香との出会いなどの細かいところは省略しつつ、失声症の診断を受けてからこれまでのことを筆談で伝えた。磯谷は春奈の手馴れた筆談ぶりから、彼女がまったく声を出さないで生活してきたことを裏付けとして理解した。
「わかりました。その活動で小野里さんの心が救われたり、日々の糧が得られるならば、私からどうこうは言えません。心配なのは声のこと。はっきり言います。いまみたいに意識して声を出さない口パクを続けるようなら、重度の失声症になりかねない。そうなったら、歌手活動をやめたとしても、声を取り戻すのは相当に難しくなります」

 春奈は一言、『すみません』と書いた。それを見た磯谷が口寂しいように口元に手をやったりとそわそわする。
「こういうとき、吸いたくなっちゃうな。小野里さんと会ってない間も禁煙は続いてますよ。でも、ガムばっか噛んで顎の調子が変な感じに」
 彼は手を当てた下顎をわざとらしく左右に動かした。春奈は今日の彼との面談における初めての笑顔を見せた。その表情から、安心して続きを話してもいいと判断する磯谷。
「小野里さんは肉体的な損傷や脳の問題による失語症ではない。心因性の失声症です。これは訓練で治すことができます。そのためには時間が必要ですし、いまの活動は克服から遠ざかることにしかならない」

 自分でもわかっていたことだが、プロの専門家から突きつけられることで、引導を渡された悪党の気分はいよいよ極まった。もやはこれまで。と、うしろからカチャリと音がする。

「失礼します。先生、原田君のご両親がお見えです」
「お、もうそんな時間か。キッズルームの前でお待ちいただくように伝えてください」
 机にむき出しで置かれていたビデオはいつの間にか、カルテの下に隠されていた。
「まあ、いますぐ決断しなければ取り返しがつかないというわけではないですが、なるべく早めに今後のことを相談しましょう」
『ありがとうございます。禁煙、頑張ってください。今度、歯につきにくいガムを買ってきます』春奈からの精一杯のユーモアを込めた文章だった。
「小野里さん」
 出ていこうとする春奈の背中越しに磯谷が声をかけた。
「ビデオのことはね、ある人から教えてもらったんです。その人は、歌もさることながら歌ってるときの佇まいと表情に強く惹かれた、そう言ってました。私も同じ感想です」

・・・
 
 裁判所は初めてだ。テレビのニュースで見る開廷前の様子と当然同じで、ドラマのセットともそう変わらない。モニターを通して見慣れた場所。だが、法廷内以外の設備や内観のことはほとんど知らなかった。入り口もサングラスをかけたまま通過しようとしたら止められた。長谷川に指示された春奈は、ある男の判決を傍聴するために地方裁判所へ来ている。その男は海賊版のCDやビデオで荒稼ぎした末に捕まり、著作権法違反の罪で起訴されていた。
 春奈は男のことを知らない。長谷川から、判決を傍聴し、男の様子を見てきてくれと頼まれのだ。男がどういう人物なのかも教えてくれなかった。代わりに見届けてくれ、ただそれだけだった。現在、三十歳になる坊主頭の男は終始うつむいており、裁判長との受け答えは弱々しいものだった。判決は執行猶予なしの懲役一年。再犯であることが重く見られた。春奈は人が裁かれる瞬間を初めて肉眼で目にした。男は最後に発言の機会を与えられ、こう述べた。

「好きな歌や映画をたくさんの人に共有したかったんです」
 男の苗字は長谷川だった。

・・・
 
「はい、カレーお待ちどう! トッピングのコロッケが余っちゃって、もう終わりだからおまけするよ」
 愛想のいい食堂スタッフの中年男から盆にのったカレーライスを受け取ったあと、席を探してうろつく。食券の販売時間は終了し、食堂内はがらんとしている。というより春奈一人だ。どの席だろうと選び放題だったが、奥まったところにある席に決めた。裁判所の地下に食堂があることが新鮮に思えた。大勢の人間が長時間働く施設なのだから不思議なことは何もないのだが、このどうということのない平凡な食堂に心なしか異国感を抱いた。
 
「Letterさん。ここ、いいかな?」
 心臓が飛び出るほど驚くとはまさにこのこと。春奈は咀嚼中のカレーを吹き出してしまい、恥ずかしさで取り乱す。
「わ、大丈夫? ちょっと水飲んで。ビックリさせちゃってごめんね」
 驚愕の理由は三つある。一つ、他に客がいないと思っていた食堂内で話しかけられたこと。二つ、Letterの名で呼ばれたこと。そして最後は、目の前にいるのが札野紗佐恵だったこと。

 春奈は水で濡れた口を拭こうともせず、メモ張に書きつけた。『どうしてここに?』と。その直後、しまったと後悔する。焦りからか、それともカレーのスパイスのせいか、汗がたらたら滴り落ちる。水と汗で彼女の顔はみっともなくびしょ濡れだ。

「大丈夫。あなたの言葉を読ませて」
 春奈は震える手で『知ってるんですか?』と書く。
「なんのことかな? 私が知ってるのは、Letterさんがアーティストで、強い人で、おしゃべりしてて楽しい人で、それに字が上手なこと。これはいまさっきの新たな発見」

 動揺は収まらない。ノック式ボールペンをカチカチ、カチカチと忙しなく連打する春奈。百回か千回か、規定の回数に達すれば、この場から逃げられるとでもいうように。
「私がここにいる理由だったよね。撮影はまだ先なんだけど、法廷ドラマで主演することになったんだ。私が弁護士役だよ! それで事務所が紹介してくれた先生方とお話させてもらってね。でも、やっぱりリアルな現場も見ておかないと。そういうわけ」
 連打がやむ。しばしの静寂。
『ぼう聴ですか?』
 焦りで頭が回らない春奈は『傍』の字が思い浮かばず、平仮名を交えて書いた。
「そうです、そうです」
 笑顔の札野。密接した隣のテーブルに盆をよけようとする春奈を手で制する。
「いいから食べて。私も何かお腹に入れたかったけど残念無念、販売時間はもう終了してしまいましたとさ。ガクッ」
 札野はテーブルに突っ伏した。それを見た春奈の脳裏には一瞬、学生時代のことがよみがえる。なぜ、こんなことをいま思い出すのだろう。
「ふう。ああ、肩凝った。なんか疲れたね。そのコロッケもらっていい?」
 春奈は盆ごと前に押し出す。札野は箸立てからくじ引きのような勢いで引き抜いた割り箸で、手つかずのコロッケをつかみ上げた。
「おっいしい! 最高の裁判所コロッケ! 裁判所でコロッケ食べるの初めてだけど」
 大きめサイズのコロッケだったが、札野はわずか三口で平らげる。おたふくさながらのぷっくり頬で目をつむって笑うその顔は、七福神の仲間に迎え入れられてもおかしくない輝きだった。

「Letterさん、お仕事楽しい?」
 こくり。春奈は肯定の返事をする。
「そう。ならいいんだ」
 札野は納得したあと、急に押し黙る。笑顔はなく、涙ぐんでいるようにも見えた。

「……この前、夢を見たんだ。なぜか空港にいてね。お手洗いにすごい行きたくなって、探し回っても見つからない。人に聞いても教えてくれないし。で、ようやく見つけたら清掃中。我慢できなかった私は入り口の立て札を乗り越えて入ったよ。そしたら、中で掃除してるお婆さんがとても悲しい顔でこっちを見ててさ。『まだ掃除してるのに』って嘆くんだ。そこで気づくんだけど、私の靴は泥だらけ。ピカピカに磨かれた床に足跡がついちゃって。お婆さんが『どうしてこんなことするの』ってまた。なんか嫌な気分になったけど、個室に入って用を済ませたよ。それから、いつの間にか搭乗ゲートの前にいた。チケットを見せようとしたら持ってない。たぶん、さっきのお手洗いで落としたんだろうって。ただね、戻る勇気がなかった。お婆さんをまた悲しませるんじゃないかと。そのまま乗れずに、私を置いて飛び去っていく飛行機を窓から見送った――これで終わりじゃないよ、夢はまだ続くの。目的地は覚えてない。でも、どうしてもそこを目指さなきゃ。それだけはわかってた。私はバスで行くことに決めた。バス停には、私が望む場所に連れてってくれる最終便がちょうど出るところだった。車体の電光掲示板には『残りあと一席』。私は走った。死に物狂いで走ったよ。実際には……夢なのに実際というのも変か。とにかく距離は数メートルくらいのはずなのに、何百メートルも全力疾走したみたいな果てしなさを感じた。でね、体力を使い切った末、乗車口に足をかけることができたの。そのとき、同時に他の人も乗ろうとしてたんだ。私は我先にとその人を手で抑えて乗り込んだ。振り向くと子供がいた。少年だったよ。その子が言うんだ。『どうしてこんなことするの』って。泣いてたよ。でも、今度は罪悪感がなかった。私は意に介さず、その子に背を向け、残った窓際の席のほうへ歩いていった。予定どおりにバスは出発するんだけど、窓越しに見える風景は空港じゃなくて田んぼ。そこにはいろんな年代の男女、でも若い女の人だけはいなかったな。その人たちが皆、悲しい顔で私を見てる。そして、頭の中で誰かの声がしたんだ。『卑怯なやつめ』って」

 ライスの上に蝿が一匹、鎮座している。春奈は蝿ごとスプーンですくって口に入れてしまいたい衝動にかられるも、結局しなかった。
「以上、私が見た夢。なんなんだろうね。特に最後、語りかけてきたのは誰の声だったんだろう」
 札野の横顔からはやりきれなさが漂っていた。春奈は何も書くことができなかった。

・・・
 
 体が動かない。全身の皮膚という皮膚に鉛を塗り込められたような重量感。だが、息はできる。心臓の鼓動も感じる。私は生身の人間だ。ブロンズ像でもブリキ人形でもない。目を開くと視界が暗い。電灯をつけたいが、肉体はピクリとも動かず、スイッチに手を伸ばせなかった。無性に脇腹が痒くなる。痒くてしかたがない。爪でもヤスリでもいい、ボリボリ、ガリガリと痒みを削り取りたい。意識を右手に集中させてみる。ダメだ、言うことを聞いてくれない。
 今度は背中に、足の裏に、両膝に痒みが押し寄せた。痛みはない、ただ痒いのだ。けれど、苦しくてたまらない。痒いところをかけない、そのつらさに涙が出てくる。ドアが開き、白衣を着た若い女が近づいてきた。笑顔の女は何事か口にするが、私には聴き取れない。突如、女が目の前から消え、私は押し出される。ステディカム・カメラを思わせる滑らかな移動。部屋を出て、廊下を進む。通り過ぎる皆を見上げる。そうか、自分は座っているのか。

 到着した。そこにはさっきの女と同じく白衣姿の男女が集まっていた。誰かが回り込んでくるのがわかった。あの女だった。私をここまで運んできたのだろう。女はまたも何事か私に言葉をかけると、私の向きを変えた。テーブルが見える。
 その上には白い大きなケーキがあった。斜めに突き刺さっている、ひび割れたチョコレートの板はまるで墓標だ。板の表面には赤いソースか何かで書かれた『9』の数字が二つ並ぶ。周囲には、線香と誤解してもおかしくない貧弱な細さのローソクが規則性なく雑に何本も突き立てられていた。
 突如、誰かの手が視界に入る。その手には鏡が。私は見た。黒眼鏡をかけた、皺とひびだらけの老婆を。皆が私を祝福する。たくさんの笑顔。でも、彼も彼女も私の素顔を知らない。私は死ぬまでサングラスをかけ続ける。

「最悪だ。でも、よかった……」
 寝汗で前髪が額に張り付いて気持ち悪い。なんて嫌な夢なんだ。同時に夢だったことを喜んだ。最近、夜勤のあとはきまって寝つきが悪く、いよいよ悪夢まで見るようになったのか。なるべく日勤のシフトを組んでもらおう。
 ベッドから起き上がった京香は、おぼつかない足取りで洗面所へ向かう。目の前にはひびの入った顔。ぎょっとして顔に手を当てるも、肌は傷も裂け目もなく滑らかだ。傷があるのは鏡のほうだけだった。京香の頬から頬にかけ、鼻の下を経由して一筋の亀裂が真一文字に走っていた。

・・・
 
 印刷機やベルトコンベアーが稼動する際のメカニカルな音に似ている。ガシャコン、ガシャコン。ルーチンワークの工程に乗せられた何かが流れていく音。さらに、歯科医院で使う、歯を削る機械が発するシューという音にも、夏場の虫が自らの存在をアピールするときのジージーいう鳴き声にも聞こえる音が重なっていく。風力と聞いて、もっと穏やかなものだとイメージしていたが、タービンを回し発電する機械である以上、こういうものなんだろう。機械音に埋もれる中でわずかに聴き取れる、空を切る音だけが自然の力を感じさせた。巨大な三つの剣が回り続ける様を見ていた京香は、心に不安なものが湧き上がってきたため、目を逸らした。

「風車って近くで見ると圧倒されるね。特にいくつも並んでると、ちょっと怖いくらい」
「だからこそ、映えるんだよ」
「はい、これ」
「お、これが電話で言ってた土産か」
「うん、口に合うかな」
 次郎は受け取った紙袋の中身をあらため、ふっと笑みを浮かべた。
「あれ? 煎餅嫌いだった?」
「そうじゃなくて、包装のイラストがキングシーサーそっくりだったから」
「何シーサー?」
「篠塚はオタク臭い話好きじゃないだろうけど、『ゴジラ対メカゴジラ』って映画に巨大なシーサーの怪獣が出てくるんだ。それがキングシーサー」

 京香が帰りの飛行機に搭乗する直前、空港で次郎への土産として買った物は煎餅の詰め合わせだった。箱の包装紙には、獅子の風貌をした沖縄の守護聖獣シーサーが二足で立ち上がり、熊のように両手を掲げる力強いポージングのイラストが描かれていた。

「シーマークも入ってないし、無許可のバッタもんだな」
「よくわかんないんだけど、変なの買ってきちゃった?」
「いやいや! むしろ、こういうのを待ってた! 僕の好みに合わせて選んでくれたみたいで。偶然だろうけど」
「まあ、喜んでくれたならよかったよ」
「しかし、この時期に沖縄か。何しに行ったの?」
「それは……ちょっとね」
「ああ、そう。わかった」
 次郎がカメラのシャッターを切る。当然、被写体は京香ではない。口ごもる京香の様子を見て、会話を打ち切った次郎はさっきの質問などそもそもしておらず、最初からこれを続けていたと言わんばかりに、風景を一眼レフカメラに収め続けた。
「ロケハンって一人で集中してやったほうがよかったりする? 邪魔してるかも」
「そんなことないよ。人と話してる中でいろいろアイデアも浮かぶし。土産渡すためにわざわざ来てくれて、ロケハンにまでつき合ってもらって。ありがとな」

 二人はプロペラ型の巨大風車が並ぶ風力発電所を見渡せる埠頭に立ち、自然エネルギーが電力に変貌していく最初の過程を眺めた。

「お土産のこともあるんだけどさ、あらためてお礼を言いたかったのもあるんだ。音楽活動のこと。元をたどれば、君のビデオのおかげだなって」
「僕は依頼されて編集しただけだよ。本当はプライベートビデオだったのに、僕のせいでこんなガチャガチャした状況に巻き込んで申し訳ないって思ってる」
「でも、その結果、春奈さんは元気になって仕事もできるようになったよ。私にとっても、忙しくも楽しい日々を送らせてもらってるし。コールセンターとボイストレーニング、さらに収録の平行は正直、大変だけど」
「無理はするなよ」
「大丈夫。とにかく、ありがとね」
「礼を言うならUFOに言ってくれよ。僕があの夜、目撃しなかったら、トニーさんにビデオを見られることもなかったわけだし。すべては未確認飛行物体の思し召し」
「はあ。じゃあ、そういうことで」京香は適当に返した。
「僕は篠塚のレコーディングに立ち会ったことがないから、葛野を通してしか聞いてないけど、かなりアグレッシブなんだってな、収録のとき」
「え? ああ、うん。そうなのかな。まあでも、本気で歌ったらそうなるもんなんじゃない?」
「収録した音源は何回も聴いてるよ。けど、この篠塚がああいう歌声で熱唱してるのが信じられない」
 『何回も』。京香はその言葉を聞いて気恥ずかしくなる。こんなとき、サングラスは役に立つ。
「一度くらいはレコーディングを見学したいんだけどな」
「いや! それはNGで!」京香は両手でエックスを形作る。
「そこまで嫌がらなくてもいいだろうに。そういえば葛野、あいつどうだ? うちのスタッフで音楽の専門家はあいつだけだから任してるけどさ、結構だらしないんだよ、女性関係が。篠塚……ちょっかい出されてないか?」次郎は平静を装うが、その表情は不自然で、口調はあきらかにぎこちなかった。
「平気だよ。淡々としたプロって感じでつき合ってくれてる。だいたいが私なんか興味ないでしょ」

 京香の答えの後半部分に対し、次郎は何か言おうとしたが、最適な言葉が見つからず、前半部分へのリアクションだけに留めることにして口を開いた。

「そうか。ならいいんだが。あいつは普段、撮影現場には来ないのに、小野里さん目当てでしょっちゅう来るんだ。もちろん、近づけないようにしてる。篠塚もなんかあったら言ってくれ」
「心配してくれてありがと。君に人が集まる理由がわかるよ」
「え?」
「その気配り。心配りと言ってもいいのかな。低予算の現場だと変な精神論を振りかざして人をタダ同然でこき使ったり、手を上げることすらあるって君や持田さんも言ってたけど。だからこそ、君となら安心して頑張れるって気になるんじゃない? 春奈さんのビデオ制作も最初は正直心配してた。でも、撮影現場を見学したり、それに春奈さんからも話を聞いて、これなら大丈夫だ、そう思えた」
 次郎は冗談めかして返そうとしたが思い直す。ひょうきん顔を作ろうとした脳からの指令を取り消し、真面目な顔つきになった。
「僕は当然やるべきことをやってるだけだよ。すべては作品のため。ただ、誰かの犠牲の上に成り立つ作品は許せない。それはやっちゃいけないんだ。一人で勝手に暴走して本人だけがくたばるならいいけど、人を巻き込むなら話は違う。だが悲しいかな、ひどい撮影現場で作られた映画で傑作はあるんだよ。異常な状況が生む狂気の産物が放つ魅力ってのはある。罪なものだよ……」

 風が強まる。風力タービンはより一層大きなうなりを上げ、まるで巨人の咆哮だった。その威圧感は、かつて京香が春奈と一緒に耳にした、あのワニの雄たけびに近かった。

「あのさ篠塚、そのサングラス」
「え? 何?」京香は実は外れているのかと思い、急いで目元に手をやる。が、つるは耳に固定され、鼻パッドもずれることなく、彼女の瞳をがっちりと覆い隠し、守っていた。ああ、よかった。
「いや、なんでもない。似合ってるって言いたかっただけだ。格好よくサングラスをかけられる日本人は少ないよ。ドラマでかけてる俳優もたいていダサい。本当に似合うやつってのは、たぶんずっとかけ続けて、体の一部と化してるってことだろうな」
 風で埃がレンズにかかる。拭きたいが外すわけにはいかず、京香は我慢した。鋭い刃を回転させ続ける風車は振り子式のギロチンに見え、手を差し込んだらどうなるのだろうかと京香の脳内には真っ赤に染まる妄想が広がった。

・・・
 
 高速でビルや民家が流れていく様子を春奈はぼおっと眺める。そう、ぼおっと。

「うわ、まじで」
「冗談だろ。東スポじゃないの?」
「違うよ、これは真面目なスポーツ新聞」
「なんだそりゃ。『真面目なスポーツ新聞』ってなんだよ」
「お前が聞いたんだろう。東スポなのかって」

 男たちの会話が耳に入る。電車内で周囲の迷惑も顧みずに広げられた新聞が春奈の視界にまで侵食する。昔からゴシップ記事は好きじゃない。ワイドショーを見るのも避けていた。メジャーではなくとも歌手として活動しているいまでは尚更だ。
「まさかなあ。おれ好きだったんだぜ。『限りなき愛情の果て』も見に行ったよ。最近、なんかの賞で主演女優賞もらってたろ」
 紙面を視界から排除しようと、より窓のほうに顔を寄せていた春奈はしかし、聞き覚えのあるタイトルを耳にしたことで向きを変えた。一面を占拠する見慣れた名前と写真。そこに紐付けられた言葉は、その人物から最も遠いところにあるはずの二文字だった。
 
『なぜ? 札野紗佐恵が自殺』
 
「汚ねえ!」
「なんだこの女」
 ベシャリと床に散らばる緑色の粘液。春奈は記事を目にした直後、本能で吐いた。悲しみや疑問より先に条件反射で吐き出した。それが最初の反応だった。
「ゲロ吐いたぞ」
「なんかあっちのほう、臭くない?」
「誰か車掌呼べよ」

 幸い満員ではなくまばらだったが、春奈の嘔吐は車両内を混乱させるに十分だった。口を抑える手を突き破った吐瀉物は床の上でどこかの大陸の地図を描くように広がっている。春奈は気持ち悪さと羞恥心で目を滲ませ、いまは車内で嘔吐してしまった事実だけに対峙していた。その原因となったもう一つの事実に向き合うことは到底できなかった。

(第12話へ続く)

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