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『これぞ我が銃、我が愛銃』第13話「ハーフデッドシルバー」

 重苦しい空気が充満している。皆、重力が異なる惑星に急に連れてこられたかのような圧を感じていた。

「まずは状況を整理しましょう。各々、認識が違っていると齟齬が生じてしまいますし。飲み物やお菓子もありますから、食べながらでも。ゆっくり落ち着いていきましょう」
「落ち着けるわけないですよ! なんで持田さんは冷静なんですか!」次郎が食ってかかる。
「それはね、次郎さん。私はこういうことがいつか起きるだろうと思っていたからですよ。ここにはいませんが、室長も同じ考えです。想定内ということ。あなたたちがどれだけ想定していたのかはわかりませんが」
「あの子のことも想定してたっていうんですか!」
「私は――」と持田は一度言葉を止め、ほんの一瞬だけ寂しげな目をしたあと、先ほどと同じ鋭い目つきに戻り、続きを話す。「そうですね。ありえるとは思ってました。室長はそこまでは考えなかったかもしれませんが。冷たい女だと思っていただいて構いません」

 次郎は鎮まった。京香と春奈は下を向いたままだ。春奈は『あの子のこと』が何なのかわからなかったが、いまは聞く気になれない。
「進行は私が務めさせていただきます」
 持田はホワイトボードへ近づき、慣れた手つきでマーカーを手に取ろうとするが空をつかんだ。
「あれ、マーカーここにないんですね。いつもと違うビルの会議室を借りたので勝手が。ああ、こんなところに」

 現在、生じている問題が箇条書きで書かれていく。が、赤のマーカーを使っていたことに気づいた持田は一度すべてを消したあと、青のマーカーで書き直しはじめた。

「『一、Letterさんは二人であることが世間にバレました』。小野里さんは口パクで、実際の歌は他の人によるものだと。小野里さんが失声症であることも」
「『二、うちの事務所がすべて仕組んだこともバレました』。次郎組も最初から全部わかっていたことも」
「『三、篠塚さんのことはまだ知られていません』。これはなんとかなりそうです」

 持田はボードの下に四つ目を書くスペースを確保しているが、書こうかどうか迷う。
「小野里さん。お聞きしたいんですが、今日の午後以降にテレビやラジオを見たり聴いたりしましたか?」
 蒼白の顔面を張り付けた頭が左右に揺れるのを見て、持田は続ける。「では、誰かとLetterに関して何か話を?」
 同じリアクション。
「ショートメールで送ってくれたとおり、『バレた』ことしか知らないんですね?」
 春奈はまだ何かあるのかと、ゾンビフェイスをさらに青白くした。
「Letterの活動はインディーズにすぎないですし、口パクだったからというだけで一般にまで注目を集めることは考えづらかったです。ただ――」
「私が話します」京香が遮る。
「わかりました。お願いします」
「春奈さん、いい? よく聞いて。嫌かもしれないけど、聞かなきゃならない話なの。Letterのビデオを出すたびに手紙をくれた子、覚えてるよね。中学生だと思うんだけど。先週リリースされた第四弾のあとにも届いてた。まだ春奈さんには見せてなかったね。それで、その子がね……その、自分の首を、刃物で突いて、救急車で運ばれたんだ」

 春奈は手を口に当てて目を見開く。両目の端から現れた水玉が膨らむ。
「ごめん、これ先に言うべきだったね。幸い、命に別条はなくて、意識もはっきりしてるみたい。それで、その子の部屋の机に置かれたメモ用紙に『Letterに裏切られた』とか『もうどうでもいい』とかって書いたあったそうなの。正確な言葉はわからないけど」

 少女の命は無事だったと聞いたところでショックが和らぐものでないことは、その場にいる誰もがわかっていた。事実、春奈は水玉を雫に変えて、とめどなく流していた。

「警察から事務所に連絡がありました。室長が対応してるはず。彼は事務所に残って、マスコミや関係者からの対応にも当たっています。いまの彼には荷が重いですが、しかたありません。室長が矢面に立ってくれている間、私たちは今後を話し合いましょう」
「その、そもそも、どうしてバレたんでしょうか?」
 京香はそれが問題でないことはわかっているものの、純粋に知りたかった。彼女の質問に体で大きく反応したのが次郎だった。彼はビクビクと怯えている。
「どうしたの? 様子が変だよ」
 手を伸ばしてくる隣の京香から逃れようと体を仰け反らせる次郎。
「僕のせいなんだ。もちろん、僕は言ってないよ。うちのスタッフの一人で、助監督やってるやつが、ある記者にリークしたんだ。載った記事はスポーツ新聞で、しかも小さな扱いだったんだけど、ファンの子の父親が購読してたらしくて、読んでしまったんだ。本当に申し訳ない」
「君は悪くないよ」
「違う! 僕のせいだ。あいつはカネに困ってた。ギャラは払ってたよ。タダ働きはさせてない。それでも、十分な額とはいえなかったし、労働時間や仕事の過酷さからしたら、搾取みたいに感じてたのかもしれない。あいつも悪気があったわけじゃなかった。この騒動になって、すぐ僕のところへ告白しに来た。あいつのことも僕自身も含めて、責任は取る」
「やめて。必要ない」京香が言う。
「いや、でもこれは僕の問題だから。小野里さんにも篠塚にもこんな迷惑をかけて」
「少なくとも私のためを思うなら、君が責任を取るとかそんなことはしないで。取る必要があるなら、それは私たち全員だよ。私たちの罪」
「篠塚……わかった」

 携帯電話が鳴る。春奈も京香も次郎も、身の縮む思いがした。持田は冷静な顔で連絡主を確認する。「室長です。ちょっと話してきます」そう言い、会議室を出ていった。
 残された三人は誰も言葉を発せず、書かず、沈黙の中で重苦しい空気をより一層、淀ませていた。と、胃袋がエネルギーを欲する合図が鳴る。春奈だった。彼女の自己嫌悪はさらに加速しているのだろうと案じた京香はテーブル上のビニール袋を覗き、中から煎餅を何枚か取り出して、春奈の前に置く。こういうことを考え、反感覚悟で用意してきたのかと、持田の気遣いを京香はありがたく思う。

「お腹は誰だって、いつだって減るんだから。さ、食べて。私も食べる」
 京香は春奈に渡した中から一枚取ってかじる。その煎餅は、かつて長谷川の事務所で音楽活動のオファーがあった際に出されたものと同じ銘柄だった。
「僕も食べるよ」と次郎。最後に春奈もかじり始めた。三人の奥歯が固い煎餅をバリボリと嚙み砕く音だけが響いていた。
 
「ええ、手配はしてあります。そちらも何かありましたら、また連絡ください。はい、では」
 持田が電話しながら戻ってくる。三人が煎餅やチョコレートを食べる様を見て、少し安心する表情を浮かべた。
「こういうとき、甘いものとかジャンクフードは効果あるんですよ。私は飲み物だけ頂きますね」
 持田は桃の味付けがされた透明な清涼飲料水のペットボトルを開けて飲む。
「室長と話してきました。懇意のマスコミ関係者から聞いたところでは、その子は元々、情緒不安定で、以前にも自傷をしたことがあったらしいです。だから今回の発覚が直接の原因とは言えないんじゃないかって」
「でも……騙し続けた結果、ショックを与えたことは事実だと思います」京香は力ない声で言う。
「こうなった以上、Letterとしての活動は無期限休止になります。おそらくビデオもすべて回収になるでしょう。京香さんはいつもどおりの生活を続けてください。コールセンターのお仕事も変わらず行ったほうがいいですね。次郎さんのところは申し訳ありませんでした。本当は次郎組には迷惑がかからないよう、筋書きを用意してたんですが、もう役に立ちません。ただ、企画はすべてうちの事務所で、次郎さんたちは現場仕事として請け負っていただけということにします。言いたいことはあるでしょうが、これは従ってください。そして、小野里さん。自宅も時間の問題で特定されるでしょう。もしかしたら、もうマスコミが張り込んでいるかもしれない。ホテルを用意してます。質がいいとは言えないビジネスホテルですけど。しばらくはそこに避難しましょう。お金やコネがあれば、どこかの病院に入院させたりもできたんですが。あと、小野里さん。これだけはお願いします。自分から世間に向けて何か発表したりはしないでください。あなたの人生はあなたが決めることですが、私の仕事に関わりがある以上、口を出します。特に手紙の子や、その子のご家族に連絡を取ろうなどとは絶対に思わないでください」

 飲み物だけと言った持田だったが、菓子の入った袋に手を伸ばす。棒状に加工された何本ものジャガイモを油で揚げた菓子をポリポリ食べ始めた。それから、昨年にミスト系飲料として売り出されて流行となった微炭酸飲料の缶をつかんだ。

「それと、室長から次郎さん宛に質問を預かってます。知ってたら教えてほしいと。ただ、言いたくなければ、それでいいとも」
「なんですか?」
「リークした助監督、彼は情報をいくらで売ったのかと」
 次郎はしおれるようにうつむく。唇に付着した煎餅のかすが落下する。京香は彼を気遣おうとするが、できることは何もないと悟り、口内の煎餅をなるべく音を立てずに奥歯ですり潰していた。
「二万円」
 彼以外の三人は何も顔に出さなかった。いや、正確には思うところは各々あったが、出さないように努めていた。
「たったの二万だよ。セガサターンすら買えやしない。僕たちのつながり、二万円の価値だってさ」
 次郎はわざとらしく歯を覗かせながら自嘲気味に言葉を吐く。

 ボールペンをノックする音。微かに紙がこすれる音。またノック音。春奈が『大金です。その人には必要なお金だったんだと思います』と書く音だった。

・・・
 
「お前は大丈夫なのか? 電話の仕事は変わらず続けてるみたいだけど、その、気持ちのほうとか」
「大丈夫、ではないよ」
「そうだよな、ごめん」
「前に、すべてはUFOの導きだとか、そんなことを言ってたよね」
「あれは冗談だよ。いまとなっては、ふざけすぎてたと思う」
「できることなら、私もいっそ全部を異星人? 未来人? のせいにしたいな」

 京香は空を見上げる。真っ青な冬の空。信じてはいないが、未確認物体が飛来してくることを望み、ブルースクリーンを見つめ続ける。が、何もやってこない。墓場の見える丘公園の展望台には二人しかいない。

「小野里さんはどうしてる?」
「二日経つけど、まだホテルに籠ってるみたい。私もなかなかショートメールを送る余裕がなくて、うまく連絡を取り合えてないんだ」
「そうか。ワイドショーでも大々的に取り上げられてるよな。ついこないだまでは札野さんの話題でもちきりだったのに」
「食いつくネタが多かったからだと思う。春奈さんが美人だってことも注目された理由だし、同時にバッシングされてる原因の一つ。それに失声症ってことも十分おいしいネタなんだろうね。擁護する声や批判の意見もあったりで、テレビではトークショーが展開されてるよ。あと、私のこと。『あいつが最初から顔を出してれば済む話だったじゃないか』とか『なんで出てこないんだ、名前くらい発表しろよ』とか言われ放題。そのとおりなんだけど」
「気にするなよ。トニーさんの事務所も発表してたろ。事務所主導の企画で、二人はそれに従っただけだって。実際、向こうからの提案だったわけだし」

 京香は大きく息を吸う。春の訪れを予感させない冷気が肺を満たし、体の内側から冷えが広がる。

「オファーに応じたのは私たちの決断。自殺未遂まではともかく、いろんな人を傷つけて、迷惑をかけることはわかりきってたのに。考えが及ばなかった。世間から矢で射られる覚悟はあるかって言ってた長谷川さんが集中砲火を浴びてる。春奈さんも外を出歩けない。それに比べたら、私なんてたいしたことないよ。だいたい、そのオファーもね、あのビデオがなければ、されなかったし。春奈さんにも欲があったみたいだけど、元はといえば私の欲がはじまり。人前で歌えない私の代わりに、誰かに前に立ってほしかった。覆面歌手なんて珍しくもないのに、そういう方法も取らず、コンプレックスと幼稚なこだわりのせいで、あんなバカげたビデオを。あ、ごめんね。せっかく君が編集してくれたのに、ひどいこと言って」
「いいよ。僕もバカな映画ばっかり撮ってきた。それがいまのこの騒動につながってると思えば、まったくバカなやつだよ僕は」
「次郎は……えっと、君はどうなの? 今後のこと」
「僕は平気だよ。スタッフたちも。はなから大手の仕事はやってないし、低予算の現場では騒動なんてお構いなしに、とにかく撮っていかないとって感じで仕事の依頼は来るからさ。僕はいまの状況が落ち着くまで鳴りを潜めるつもりだけど、スタッフはもう他の現場で仕事してるよ。例の助監督も。大丈夫、お前に言われたとおり、何もしてない。そもそも別に僕の部下でも弟子でもないんだから、処分なんてできる立場にいないし。いたとしてもやってない」
「準備してた、なんだっけ、グルメライターが全国を食べ歩きながら殺人事件の謎を解く映画はどうなったの?」
「Letterのビデオ制作と同時に準備も進めてたけど、それも一旦はペンディング」
「私が巻き込まなかったら、もっと進んでたのかもね」
「気にしないでくれ。ミュージックビデオは身入りよかったし、経験にもなった。むしろ礼を言いたいよ」

 二人は手すりに腕を乗せ、墓地を越えた向こう、蜃気楼のようにおぼろげに映る住宅街を眺めていた。

「私もいい経験させてもらった。実は高校生くらいの頃からデモテープを作ってレコード会社に何回か送ってたんだ。大学の頃にも。踏ん切りがつかなくて、働き出してからも送ったことあるよ。会ってみたいって返事をもらったこともあったけど行けなかった。写真付きの履歴書を送らないといけない時点で断念したこともある。もう諦めて、楽器や機材も処分したあとに春奈さんと出会ったんだ」京香はまたも顎を上げる。しかし、空にUFOは現れない。
「篠塚」
「なに?」
「そのグラサン、本当にいつもかけてるんだよな?」
「うん、仕事のときも特別に許されてるよ。わけを言ってね。あの職場には恩があるから、絶対あそこに迷惑だけはかけられない。でも、この眼鏡が外せない限り、契約社員のままだし、いちオペレーターから上にも行けないけど」
「大変だな。大学のときも一部のやつらが変人とか言って、からかってたのを聞いたことがある。女が多かった」
「知ってるよ。『女ターミネーター』とかね。別に『ターミネーター』だけでいいのに」
「そいつらにいま会ったら怒鳴ってやる」次郎は手すりを拳で叩く。振動が波紋となって京香の腕に伝わる。
「はは、ありがと。いっ!」

 突風が吹く。舞った砂ぼこりが黒いレンズの隙間から入り込み、京香の目を狙った。彼女は咄嗟に黒の覆いを外し、指を目元にやる。ほこりを払い、目が開けられるようになると、またも空のほうを向く。サングラスはかけていない。次郎は初めて素顔を見る。横からだったが。

「ごめんね。どうしても、正面からだけはいまも無理なんだ。横顔しか見せられない。それでも耐える必要があるんだけど」
「ああ、悪い」次郎は前を向く。
「いま、目を逸らした? いいよ、見てても。見るだけの価値はない横顔だけど」
 次郎はチラ見程度のつもりだったが、気づけばじっと見入っていた。
「僕は小野里さんの顔をずっと撮ってきたよ。たくさんのいい顔を収めた。でも彼女には悪いけど、いまの篠塚のほうが、収めたい顔してる」
「あ、撮影はNGだからね!」京香は片手を上げ、自身の横顔を隠した。はにかんだ口元も。
「わかってるよ。他のやつに見せたくないしな」

 次郎も空を見上げる。二人は一面ブルーの奥のそのまた深奥に、何かの出現を見た気がした。

・・・
 
 缶詰。まさに缶詰状態だ。このまま外に出さず、中身を腐らせてしまえばいい。ベッドとクローゼットに小さな机、ユニットバスがあるだけの簡素なシングルルームに籠ってから三日目。食料は持田が調達してきた保存の効く物が十分に蓄えられている。いまはツナ缶を開け、ぼそぼそと食べている。まったくおいしくない。

「次の映画はジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』です。突如、よみがえった生ける死者の群れ。四人の男女は街からの脱出を図りますが、安住の地はなく、至るところに死霊が蠢く。それだけではない。理性を失い、暴徒と化した醜い生存者も牙を向いて襲いかかる! 果たして、主人公たちはこの地獄から逃れられるのか? 頭部が弾け、肉体はズタズタに引き裂かれる。人肉を貪り食う、かつての我々。女子供も容赦はしない残酷絵巻。さらに、大量消費社会を風刺した、ロメロ監督の冷徹な眼差しが本作を格調高いものに押し上げている。『ゾンビ』このあとすぐ!」

 もうこれで何本目だろう。テレビは好きだし、他にすることもないから、ずっと流している。だが、地上波はダメだ。NHKであっても、ニュースで取り上げられていたからだ。NHK教育だけはセーフゾーンだったが、愚かな自分が教育番組を見ることに耐えられず、ケーブルテレビの専門チャンネルに頼った。音楽チャンネルは絶対に避けねばならない。自然と映画チャンネルに固定された。しかも洋画専門の。邦画は自分の呪いのビデオを思い出させるから。
 どの作品を見ても頭に入らず、感動や興奮などない。不朽の名作も、最新の話題作も、新進気鋭の作家によるアヴァンギャルドな怪作も、アニメも実写も、ドキュメンタリーだろうと。差別、戦争などの社会問題をテーマにしようと、この世の憂さを晴らすしゃれたコメディであっても、何も頭に入ってくることはなく、あとに残るものもない。いつまで続ければいいのか。罪と向き合うこともできず、世の中がどうなっているのかもわからず、ただ過ぎゆく時の流れがより早く流れるようにと、映画を見ていた。
 この映画、『ゾンビ』は違っていた。死んだ人間が起き上がって彷徨い歩き、生者を襲うホラー映画。死者に思考能力はなく、『食う』という本能と、生前の習慣による単純な動作だけを繰り返す、魂のない腐った人形だった。ふらふらと徘徊する青白い顔の躯たちを見て、春奈は同調するものを感じた。これは自分じゃないのか。実際、私はここで『食っている』だけなのだ。何も考えずに。生気を失った顔で。

 ふと、清掃会社で働いていた頃を思い出す。人々が営む場所をきれいにする仕事。ピカピカの床。楽しかった。同僚たちも皆いい人たちだった。涙が出てくる。能力のない無職の自分を拾ってくれたあの人。感謝しかない。それなのに、私はひどい迷惑をかけてしまった。あの人は、佐伯さんは、世界を救うために仕事をしていると言った。そのために私を犠牲にすることを後悔していたが、あの人の選択は正しい。私に救う価値などない。世間を騒がし、一人の女の子を深く悲しませてしまった。
 きっと、他にも傷つけた人たちはたくさんいるだろう。信じてくれた人を騙して傷つける。一昨年、地下鉄で毒ガスを撒いたカルト教団と同じだ。最低だ。玲子さんのことを考える。もしかしたら、助けられたかもしれないじゃないか。私は見ていただけだった。札野さんも死んでしまった。あのとき、彼女はおかしかった。どうして、何か言葉をかけることができなかったのか。
 そして、あの子、詩織ちゃん。手紙には私への憧れの思いと共に、両親や友達との関係に悩む様子も伺えた。返事を書くのは止められていたとはいえ、あんなことになる前に何かできたんじゃないのか。何やってるんだ、お前!

 頬に平手を食らわせてみる。痛くない。もっと強く叩いてみた。ピリッとした痛み。少しだけ自分を戒めた気になった。これはいい。さらに力を込め、何度も頬を打つ。鏡に映る顔は真っ赤だ。それは打撃のせいだけではなく、冷蔵庫にあったビールをしこたま流し込んだせいもある。酔いが回り、平手打ちの速度も増す。もっと叩け。罰しろ。間抜けで愚かな小野里春奈を罰し続けろ!

 叩き疲れた春奈はベッドに横になる。両頬はおたふくを思わせる腫れ上がりようだった。映画はまだ続いていた。ショッピングモールに立て籠った主人公たちは仲間の一人が死にかけているのを為す術もなく、ただ見ていることしかできずにいた。どうやら社会はもはや機能を維持できなくなっており、法も倫理も消え失せつつあるらしい。唯一、文明を感じさせるテレビには科学者らしき傲慢な男が映っており、何事かがなり立てていた。次いで、生き残ったのはバカばかりだとか、そんなことを捨て台詞のように吐く。男の台詞に春奈は同意する。バカな私だけが生き残っている!

 その瞬間、決壊した。涙が文字どおり滝のように流れた。歯を食いしばり、ギリギリと音を立てる。ろくにシャワーも浴びていない、フケが散らばった頭髪をかきむしる。そして吠える。だが、ホテルから苦情は来ない。無言の叫び。まったくもって醜い形相。映画の中でゾンビが起き上がろうとする。死者の顔。それは自分だ。私は生ける屍だ。春奈はまぶたをぎゅっと閉じる。闇が広がる。このまま永遠に眠ってしまいたい……と、突然に辺りが真空状態になった気がした。息が吸えないのだ。春奈の呼吸中枢に不具合が生じた。部屋に充満するのは淀んだ空気だが、それでも生きるために取り入れようと必死に呼吸を試みるが、肺が満ちることはない。目をカッと見開き、手足をバタつかせる。死んでしまう。助けて。死にたくない。まだ私は生きている!

 なんとか受話器を取り上げるも声は出ず、相手にSOSは届かない。突き出た舌が宙を舐める。振り回した手がサイドテーブル上のコップを倒し、中の水が床に勢いよくこぼれ落ちた。

(第14話へ続く)

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