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『これぞ我が銃、我が愛銃』第14話「ドゥームドクリーム」

「本日はどのようなご用件でしょうか」
「お水」
「はい、水道ですね。ただいまお電話いただいておりますのは、開栓手続きの番号となります。こちらお間違えないでしょうか」
「お水が出ないの」
「承知いたしました。それでは、ご案内させていただきます。まずはお手元に――」
「体が洗えないの。喉も渇いてるの」
「あ、はい。そうですね、そのためのお手続きに必要な情報をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんで?」
「お客さまのご利用状況をお調べした上で、最適なご案内をさせていただければと思っております」
「うん? そうなの? なんか、ちょっと考えてみる」

 いくつくらいなのか。三十代だろうか。女性だとは思う。これまでに数千人の顧客と通話をし、端末に保存された個人情報を見てきた。いまでは情報を見る前に声やしゃべり方でおおよその年齢がわかるようになっていた。

「でも、やっぱりね、お水が出てなくて。どうしたらいいのかな」
 要領を得ない。こんなことはよくある。会話がまともに成り立たないことなど、コールセンター業では通常業務のうちにすぎない。子供からのイタズラ電話、わめき散らすクレーム、無言電話に酔っ払いのセクハラまでなんでもござれだ。向こうからの着電である以上、基本的にはこちらが切電することはない。理不尽な思いを強いられても耐えるのだ。
「失礼ですが、世帯主の方は、いまお電話をいただいている、お客さまとなりますでしょうか」
「そうだよ、私一人で暮らしてる。いつも一人」
「ありがとうございます。ちなみに現在はご自宅からお電話されておりますか?」
「当たり前でしょ。他にどこからかけるの?」
「失礼いたしました。申し訳ありません。念のための確認でした」
「あなたの言ってること、よくわかんない」

 これはなかなか手強いな。シフトはあと三十分ほどで終わるが、今日はこのコールが最後の対応案件になりそうだ。調子がよければ、あと数件は処理できるところだったが。

「あらためて確認させていただきたいのですが、今回はどのようなご用件かお聞かせ願えないでしょうか。お客さまのご要望が把握できませんと、わたくしどもとしましても、正しいご案内ができかねてしまいますので」
「要望? 聞いてくれるんだ?」
「はい、お願いいたします」
「じゃあ、お話しますね」

 長期戦を覚悟しよう。とはいえ、不快な言葉を浴びせられるわけではないから楽に構えていられる。一点、気になることは相手の声の調子だ。最初は気だるい感じに聞こえ、寝ぼけているのかと思った。が、それとは違う。理路整然はしていなくとも、まどろむわけではなく、意識ははっきりとあり、目的を持って電話してきたことはわかった。暇潰しやイタズラではない。

「いまのお家に暮らし始めて、一年くらい経つんです。お仕事はしてないの。前、ちゃんと働いてたけど、私がダメになって、いられなくなっちゃった。貯金も結構あったと思ってたのに、気づいたらもう全然。食べるものも少ないの。大変なんだよ、わかります?」
 不安になってくる。話す内容もそうだが、敬語とタメ口が混在する言葉遣いに不穏なものを感じた。
「あ、はい。ええ、大変だと思います」
「そうだよね、お腹すくと寂しいもん。いまもきゅーっと鳴ってる。聞こえた?」
「いえ、ちょっと」
 こんなとき、新人オペレーターならもうパニック状態だろう。スーパーバイザーと交代しているところだ。
「でね、お水飲もうとしたら、蛇口を捻っても、いくらくるくる回しても、うんともすんとも言わないんです。どうして?」
 よし。水の話題が出た。ここから誘導だ。会話の流れを軌道修正して、水道局のオペレーターと利用者の関係に戻ろう。
「お水が出ないんですね。可能性はいくつか考えられますが、まずは止水栓の状態を調べてみましょう。その前にお客さまの情報を――」
「何? お話を聞いてくれるって言ったよね? なんとか栓がどうとか知らないよ、そんなの」
 しまった、勇み足だったか。相手の気を損ねてしまった。素直に謝るしかない。
「申し訳ありません」

 沈黙。気づけば秒数をカウントしていた。ルールでは三十秒以上、向こうから応答がない場合、こちらの判断で切電が許される。

「お客さま? いかがされましたか?」
 応答はない。カウントは続く。
「私の声が届いておりますでしょうか?」
 反応なし。もうすぐ三十秒。正直、返事がないことを願う。
「え、ああ、ごめんなさい。ふわっとしてた」

 残念。そう思ってしまう自分は冷たい人間だが、この仕事を続けていると、コールを早く終わらすことが最上の使命として刷り込まれてしまうのだからしかたがない。スタッフは皆、配属前の研修でそのように教育される。オペレーションルームの電光掲示板には現在待機中の着電数がオレンジ色で表示されており、待たされる利用者の数が一定を超えると、表示カラーはオレンジからレッドの警告灯と化す。そのため、お待たせしないよう、対応案件は一秒でも早く終話させることが正義なのだ。

「あなた、どこで話してる? そこどこなの?」
「申し訳ありません。そういった情報は開示できかねます」
「暖かい? 暖房あるんだよね? ぬくぬく?」
「いえ、まあ、そうですね、一応は空調が入っております」
「ふうん、よかったね。あーあー、私はさっきから寒くてしょうがないんだ。真っ暗だし」
「それって……」
 余計なことを聞いてはならない。でも。
「失礼ですが、お部屋の電気は通っておりますか?」
「止められちゃった。お金ないって言ったでしょ。いまはお布団にくるまって、あなたとおしゃべりしてるんです」

 アダプターを必要としない、電話回線から給電するタイプの電話機を使っているらしい。そんなことはいい、電気が止められていることが気にかかる。例年より冷え込みが続く三月だ。暖房なしはきつい。

「水道のご利用状況を確認させていただけないでしょうか。お客さまの情報が端末にあれば、お支払い履歴を調べることが可能です」
 あくまで業務の範囲内。踏み込んではいない。
「何を言えばいい? 番号とかわからないよ」
「お名前と、あとは登録されたご住所、お電話番号から照合することができます」
「れいな」
 痛い。胸が痛む。玲子と一字違いだ。漢字ではどう書くのだろう。
「ありがとうございます。フルネームでいただけないでしょうか」
「おかの」
「おかのれいな様ですね。ありがとうございます。ただいま情報を検索いたします」

 名前を聞くと、顔の見えない相手でも急に人間味というのか、存在感が立ち上ってくる。名前と状況。『電気が止められ、水も使えない状態の、おかのれいな』という、ある状況に置かれた一人の人間が現れるのだ。

「失礼ですが、お電話番号とご住所を伺ってもよろしいでしょうか」
 情報は一致した。玲子とは違う漢字だったが、それで胸の痛みが引くわけではない。住まいはたぶん、あの駅が最寄だ。一度も降りたことはなく、いつも通過するだけの。
「確認が取れました、岡野鈴奈様。水道料金のお支払い状況について、未納状態が続いており、誠に勝手ながら給水停止の対応を取らせていただいております。岡野様のご自宅には、催促状や給水停止予告書は届いておりましたでしょうか?」
「チラシとかたくさん入ってます。捨てちゃってるかも。お部屋の中にあるかもだけど、片付いてなくて、ごみばっかだから全然わかんない。食べ切れなかったお弁当もまだ置いといてるし」
「そう……ですね。お水を使えるようにするには、滞納分のお支払いが必要になります」
「だって、お金ないんです」
「申し訳ありません」
「電話代だけは払ってるんですから。それくらいはお金あるんだよ。だって、あの人から連絡が来るはずなんです。待ってるの」
「お支払いいただければ、すぐに開栓手続きを進めることができますので」

 案内としてはすべきことをした。あとは相手が納得してくれればクローズだ。

「あたしね、頑張ってきたんですよ、すごく。うちにお金なかったから、学校も途中で辞めないといけなかったし。でも、お母さんは恨んでないよ。お味噌汁にいつも、じゃがいもを入れてくれてた。あたしはそれが普通だと思ってたんだけど、他の子のうちではじゃがいも入れてなかった。お店で食べるお味噌汁にもなかった。懐かしいな。もう食べられないけど。それでね、結構、調子よかったときもありましたよ。二十代の頃はそこそこモテたし。よくナンパもされました。嫌な目にも遭ったけどね。それでそれで、優しい彼と出会えたんです。とっても、本当に優しかった。結婚したかった。だけども、フラれちゃった。新しい彼女ができたんだって。彼とその子が一緒のところも見ちゃった。若くて、おっぱい大きかった。やっぱり、おっぱい大きくないとダメなのかな。どう思います? あなた大きい?」
「申し訳ありません、こちらは水道のご案内センターとなりますので」
「そうだよね、そうですよね。うん、うん。ごめんなさい。嫌いになったよね? そう、こういう風に嫌われるんです、あたし」
「いえ、そういうことでは」
「いまではナンパもされません。肌も荒れてるし、ぶちゃいく。お仕事もミスが多くなって、ぽんこつです。新人の子たちにもなんかバカにされてたと思う。めまいがして、耳鳴りも増えてきて、お腹も痛い痛い。しょっちゅう休んでたら、クビになりました。あ、ゴキブリ」

 スーパーバイザーたちのいる島にいた一人が立ち上がり、こちらの様子を伺いはじめた。私の対応時間が長いことを気にして、通話内容をモニタリングしたのだろう。

「岡野様、大丈夫でしょうか?」
「んー、ダメかも。ほら、女優の札野さん、ガスで死んじゃったでしょ。車の中で。苦しいのかな。でも、血が出たりしないから、いいよね。血だらけのばっちい体で見つかりたくないな。あー、でも無理。うちはガスも止まってるんだっけ。どうしようかな、タオルをドアノブにかけたら簡単なんでしょ。この前も中学生くらいの子がやってたって。もう、ゴキちゃん、あっち行ってよ!」

 全身が冷えてくる。普段のオペレーションルームは暖房が効きすぎておりシャツ一枚で十分だったのに、いまは上着が欲しい。顔を上げると、スーパーバイザーたちがこちらをチラチラ見ながら、何か相談しているのが目に入った。

「聞いてます?」
「あ、はい! 失礼しました」
「もうね、どうしたらいい?」
「えっと、それは」
 目の前に一枚の紙が浮かぶ。『切って』と書かれていた。私は声に出さず、頭を小刻みに震わす。上長は次の指示を書いた。『一旦、保留して』と。
「申し訳ありません。一度、保留にさせていただきます」
「どうして?」
「少々、わたくしどもの間で確認したいことがありますので」
「すぐ戻ってよ。一分。数えるから」
「はい、承知しました」

 保留状態になっていることを念入りに確認してからヘッドセットを外した。
 上長からは意味不明の類として扱い、切電する方針を伝えられた。我々で対応する内容ではないと。こちらとしては伝えるべきことをフローに則り、案内した。下手に余計なことを話し、それこそ取り返しのつかない事態になれば責任が持てない。そういうことだった。私はこのままにはできないと言ったが、上長判断は覆らない。もうすぐ一分経つ。保留を解除した。

「お待たせいたしました」
「五十八秒。過ぎてたら許さなかったよ」
「すみません」
「あれでしょ、上司の人と話してたんだろうね。早く切りなさいって」
「そのようなことはございません」
「本当? 切らない?」
「はい、私からは切りません」
 きっと、上長の顔は険しくなったことだろう。見なくてもわかる。
「あなたはいいよね。お仕事あるし。こうやって、人のサポートをする仕事して。たくさん助けてるんだよね。あたしは傷つけてばっかり。どうしようもないんです」
「いえ、私だって」

 脳裏をよぎるのは出勤前に見たワイドショー。Letterの騒動は収まらない。春奈さんは過呼吸を起こして病院へ搬送された。大事には至らなかった。また、自傷行為により顔が腫れ上がっていたという。世間の扱いは一転し、彼女を叩いていた人たちが逆に糾弾されるようになった。春奈さんの過去が暴かれ、穏やかとは言えないこれまでの生きた履歴が知られることになったのも理由だった。
 作品に対しての注目も高まり、回収されたはずのビデオが裏で出回って、高値で取引されているらしい。歌声への評価は二分されていたが、誰が歌っているのか、メディアは興味を煽るようになった。春奈さんを追及できなくなった代わりなのかもしれない。正体が私だとバレるのも時間の問題だろう。今日にでも。そうなったら、いま対応している案件が私の最後の仕事になる。

「あなたも?」
「はい、私も迷惑かけてばっかりです。たぶん、自分が思っている以上に」
「そうなんだ。でも強いよね。頑張れてるんだから。逆に自分が情けないよ。もうダメ、もう無理!」
 ドタドタ、ドンという音。静寂。
「岡野様? どうされました? 大丈夫ですか!」
 反応はない。
「私の声、届いてますか! お返事いただけないでしょうか!」

 無言は続く。三十秒はとうに過ぎた。業務フローどおりなら、こちらから切電すべき。私自身、それを望んでいたじゃないか。だが、そんなことできるわけがない!
 心臓の鼓動は早まり、動悸が激しくなる。周囲には人が集まり、上長が何か吠える声も聞こえたが、気にも留めなかった。周りのことなど黒眼鏡で遮断してしまえ。いま、私の意識はここにない。回線を通じた彼方、あるアパートの闇の中で苦しんでいる、岡野鈴奈の隣にいるのだ。
「返事、してください……」

 息遣いも聞こえない。生が感じられない。またかよ。また〈死〉かよ! もうやめてくれ!
 ふと思い出されるのは余命検索ゲームのこと。自分の享年は九十九歳だった。なんでだよ。なぜ私なんかがそんなに長生きする? 寿命の半分くれてやるから、皆もっともっと生きてくれよ!
「お願いだから……声、聞かせてよ」
 息を喘ぎながら、私は語りかけ続けた。何度も何度も。

「大丈夫? なんか、はあはあ言ってるけど。変態さんみたい」
 彼方より微かな笑い声が聞こえてくる。私の心は歓喜に震えた。
「よかった! 無事だったんですね!」
「え? 平気だよ。ちょっとゴキちゃんを追いかけてたところ。結局、どっか逃げちゃったけど」
「本当によかった! 生きててくれて!」
「いやいや、生きてますって」
「よかった……」

 視界がぼやけ、黒眼鏡が曇る。端末のモニターも上長も周囲のオペレーターたちのこともはっきり見えない。だが、目など不要だ。私にいま必要なのは口と耳だけだ。岡野鈴奈との対話ができればそれでいい。

「えっと、ありがとう。なんか笑ったら、ちょっとすっきりしました」
「いえ、そんな、こちらこそ」
「ごめんなさい。変な話を聞いてもらっちゃって。でも、なんか助かりました。少なくとも今日は。明日も生きますよ、あたしは。お水のことは了解です。お金が用意できたら払いますね。それじゃあ、おやすみなさい」

 対応終了。終話。クローズ。時計を見れば、終電も過ぎていた。いろんな人のライフラインをつないできたこの仕事もこれで終わり。お疲れさまでした。さようなら。

・・・
 
 外は真っ黄色、中身は真っ白。そういうバナナを春奈は好む。黒い斑点の出る頃合が最も熟した食べどきだと知ったいまでも、黒ずみのない黄一色に染まるバナナが好きだ。

「小野里さんの嫌いなものがなければいいんですが」と言って、磯谷は大きめの紙袋からバナナやリンゴ、オレンジなどの果物を取り出す。フルーツはベッド脇のテーブルに置かれた器に収められていく。春奈は背筋を伸ばしたL字型の姿勢で、彼の動きを見ていた。春奈の顔には殴打による戒めの跡が残り、いまも赤々としている。
「これもどうぞ。お酒よりこっちのほうがいいでしょう」磯谷はミックスジュースの缶を器の横に置いた。

 春奈は頭を下げてから、バナナに手を伸ばす。子供の頃にテレビでよく見ていたアメリカのドタバタアニメに出てくる、黄色い鳥のキャラクターが好きだった。白黒カラーの猫との追いかけっこは彼女をいつも笑顔にさせた。いま手にしているバナナは、あの鳥を思い出させる色合いだった。
「声のことは騒動が落ち着いてから、ゆっくり話しましょう。今日ここに伺ったのは、もちろんお見舞いが理由でもあるんですが、もう一つ」

 磯谷はビジネスバッグの中に手を突っ込みながら話を続けた。その手にはビデオが握られていた。

・・・
 
 帽子を目深に被り、サングラスをかけ、人目を忍ぶ犯罪者よろしく辺りを警戒しつつ、春奈は磯谷のあとに続いて、その家の門をくぐった。

「Letterさん? いえ、小野里さん? ごめんなさいね、どうお呼びすればいいのかわからなくて」
 春奈は『小野里でお願いします』と伝えた。
「磯谷先生、ありがとうございます。小野里さんをお連れいただいて。しかも大変な状況なのに。申し訳ありません」
「いいえ、お母さん。詳細を聞いた彼女は強い意志で『行きたい』と言ってくれました。それで、茜ちゃんは?」

 気配を感じた春奈はふっとうしろを振り返る。リビングとつながるキッチンでミルクをコップに注ぐ少女がいた。春奈の存在に気づき、目を真ん丸にして驚く。その様子を見て、春奈は自分がやってくることは知らされていないのだと悟った。
「あ、茜」と少女の母。茜と呼ばれた少女は口をつけていないコップをキッチンテーブルに置いて、そそくさと廊下へ出ていく。バタバタと階段を駆け上がる音。次に、ドアが閉められるバタンという音。春奈はなみなみと注がれた、まるでコップの中に電球を入れているかのように内側から輝くミルクを見つめながら、ここに来るまでの車中のことを思い出していた。

・・・
 
「先日、病院で話したとおり、その子も言葉を出すことに関して、ある症状を抱えてるんです。〈場面かんもく症〉というんですが、聞いたことは?」
 磯谷は信号待ちの間、春奈からメモ用紙を受け取る。
「やっぱり、『かんもく』がわからなかったみたいですね」彼は用紙の余白に『緘黙』と書いて春奈に返した。
「場面緘黙症。『症』を付けずに、〈場面緘黙〉と呼ぶ場合もあります。これは家などで家族とは問題なく話せるのに、学校や職場などの特定の場所や、そこにいる人とはまったく会話ができない状態のこと」磯谷はバックミラーで春奈の様子を伺う。彼女の真剣な面持ちを見て話を続ける。「脳や発声器官に問題があるわけではなく、また幼少期の発症が多いこともあって、症状とは捉えられずに単なる人見知りや本人の甘えと判断されてしまうことが多分にあります」

 春奈の喉は急にカラカラと悲鳴を上げ、潤いを求めてペットボトルに入った桃の清涼飲料水を飲む。
「人によって症状も異なりますが、茜ちゃんの場合、家庭ではお母さんやお父さんと和気あいあいとおしゃべりできるのに、小学校では先生とも同級生とも一言も口が聞けない、話したくても話せない状態になってしまうんです。幼稚園に入る前はそんなことなかったらしいんですが」

 磯谷の自家用車、アルトワークスが右折する。ウインカーの音に合わせ、彼はチッチッと舌で奏でたが、すぐさまやめた。「すいません、癖で」
 ほころぶ春奈の顔。
「小野里さんもわかると思います、出したくても言葉が出てこないつらさ。茜ちゃんにはいま友達がいません。話し相手は家族だけ。理解のあるご両親でよかった。でも、やっぱり学校で友達と遊べないのは寂しいですよね。いまは通常の登校はお休みして、学校からの課題を家で取り組みながら、スクールカウンセラーや我々言語聴覚の専門家による支援を受けています」
 それを聞いて春奈は『みんながサポートしてるんですね』と書いた。
「ええ。ただ、場面緘黙症だとわかるまでは大変だったそうです。ご両親も初めは無理に幼稚園や学校に行かせようとしてた。症状だとは思いもよらなかったから。先生からも要は慣れだと、皆の前で声を出すように強制されたりもした。茜ちゃんの心は相当に傷ついていたことでしょう。いまは周囲の理解を得られていますが、それでも直接に言葉を交わせるのは家族だけ。私も彼女の声を聞いたことがありません。会話はすべて筆談です」

 ペンをぐっと握りしめる春奈。それから持ち直してメモ張に書き出す。
「『本当に私が行っていいんですか?』」信号待ちの間に磯谷が読み上げる。「気持ちはわかります。病院でも話しましたが、茜ちゃんはあなたのファンです。私も彼女からビデオの存在を知って、久しぶりに連絡しましたからね。それで、茜ちゃんは事実が明るみになったいまでも、小野里さんを嫌いになったりしてません。むしろ、さらに尊敬というのか、憧れが強くなったとお母さんから伺いました」
 春奈の脳裏に浮かぶのは、自らの首に刃物を突き刺した詩織の見えない顔。それに彼女からのファンレターに描かれたかわいいイラストだった。
「病院では、あえて詳細を話しませんでした。茜ちゃんの抱えているものが何なのかを知ったばかりの小野里さんに、彼女と会ってもらいたかったからです。もし、気が向かないようなら、このまま引き返しても構いません」
 磯谷は春奈の覚悟をバックミラー越しではなく直接見ようと、停車させて振り返った。

「何も書かないでいいですよ。その表情でわかります」

・・・
 
 ドアは花柄のリースで飾り付けられ、中心のプレートには『AKANE』と黄色いフォントでプリントされていた。ドアの前にしばらく立っていた春奈は大きく深呼吸をし、意を決してノックする。
 ドア越しの返事。だが、声ではない。筆談だった。ドアノブの少し下に、ポストの投函口のような細長い穴が開けられており、そこから一枚の紙が差し出された。そこには『どなたですか?』と書いてあった。家族以外の者との会話用なのだろうと春奈は理解する。
 春奈は自身も紙で言葉を伝える。ポスト越しの対話が始まった。

『小野里です。Letterとして活動してました。茜ちゃんの呼びやすいほうで呼んでください』
『今日はどうして?』
『茜ちゃんのお母さんに頼まれたんです。実は、磯谷先生は私のリハビリを担当してくれてました。その縁です』
『そうだったんですね。あと、わたしまだ小学四年生ですよ? 敬語じゃなくていいですから』
『うん、わかった。私のビデオ、見ててくれたんだよね。ありがとう』
『はい! どれも好きなんですが、特に第三弾の「リミテッドタイム」がお気に入り。トンネルの中にいろんな時計がならべられてて、かべや天井にも時計の絵が映し出されて、なんか「ドラえもん」みたいでした』
 メッセージと共に茜が描いたドラえもんのイラストが添えられている。
『歌詞もすごく好き。「過去ばかり振り返ってもいい だから輝く過去をもっと手に入れるために たまには未来へ進もう」っていうところとか特に』
『ありがとう』

 これまで四本リリースしてきた春奈自身も一番印象深い歌だった。本来はB子が自身のために作ったそのロックバラードを京香は完全にものにし、自らに宿していた。第二弾まではパフォーマンスに関して、時間がなかったせいもあるが、京香と多くをすり合わせることはしてこなかった。が、『リミテッドタイム』だけは京香と綿密な打ち合わせを重ね、スタジオでの事前リハーサルもいつにも増して入念に行い、時間の限り、声と体をシンクロさせられるよう努めた。撮影に関しても予算が多少増えたことで、デジタル合成を意欲的に取り入れたりと新しい試みにチャレンジしていた。

『でも、この前の最新作はちょっと大人しかった気がします。えらそうなこと言ってごめんなさい!』
『謝らないで。言いわけしたくはないんだけどね、第四弾は事情があって、第三弾から間を開けずに連続リリースしなくちゃいけなかったんだ。納期ってわかるかな。夏休みの宿題を最終日にやるみたいな感じで進めないといけなくて。反省しています』
『気にしないでください! お父さんもお仕事でよくそういうことがあるって、ばんごはんのときにお母さんと話してます。でも、お父さんはすごく優しくて、ぜんぜんずるい人なんかじゃありません!』
『いいお父さんなんだね。うらやましいな』

 リアルタイムの往復書簡は続く。春奈にとって、相手も筆談の会話は初めてだった。向こうが書いている間の待ち時間、そわそわした気持ちになる。いままで自分が筆談で会話してきた相手も同じような感覚だったのだろうか。

『声のこと、聞いていいですか?』
 急に弱々しさが感じられる線の細い茜の字。
『うん、いいよ。ただ、本当に歌ってる人のことは話せないの。それだけはごめんね』
『大丈夫です。聞きたいのは小野里さんのことです』
 メモ帳が何枚も破り取られる音。書いては書き直す茜。春奈は待ち続ける。
『前は少し話せたんですよね? お仕事で嫌な目に遭ってからお話できなくなったってテレビで見ました。どんなことがあったのか聞いてもいいですか?』
『私がいけないんだけど、お仕事で怒られちゃってね。すごい大声でガミガミ言われて、耳を引っ張られたりもしたんだ。とても怖くて。でも、それはいいんだよ。そのあとで、つい相手の人を傷つけそうになっちゃったんだ。それで、いろんな人に迷惑をかけて。私を認めてくれた人を悲しませたんだ。もう自分がすごく嫌になって。その日から急に』

 そうなのだ、と春奈は書きながら思う。メディアでは、職場でまたも暴行された悲劇のヒロインだと誇張されて報じられたが、過去の職場でのことはともかく、あの清掃現場での被害はたいしたことのないものだ。春奈が声を失ったのは恐怖が原因ではなく、底なしの自己嫌悪によるものだった。

『かなしいです。つらいこと聞いてごめんなさい。わたしも幼ち園で話し方をからかわれてから、うまくお話できなくなっていきました』
『茜ちゃんもつらかったんだね。そういえば、漢字はこれでよかったかな?』
『うん、合ってます』
 またも繰り返される書き損じ。春奈は『落ち着いて』と声で言葉をかけたかったが、当然できるわけもなかった。あらためて自分は言葉を口にできない身なのだと思い知る。
『歌うフリをしようとした理由はなんですか?』

 文章だからこそのストレートな質問だった。今度は春奈がメモ帳を破り続ける番。時間をかけた末、春奈は何枚もの用紙を連ねて綴った思いをポストに投函した。

『歌を聴くのが好きでした。声が出てたときは歌うのも好きでした。本気で目指したことはなかったけど、歌手に憧れてた。でも、絶対に無理だと思ってました。そんなとき、ある人と出会ったんです。その人も歌が好きでした。私の声が出なくなってから、私のために歌をくれた。ビデオに映った私は歌ってました。歌ってないのに歌ってた。いままで私は誰かの役に立ちたかった。でも、ビデオを見て、自分自身が燃え上がるような気持ちになったんです。歌のお仕事に誘われたとき、自分のためにやってみたい、そう思いました』

 手首が痺れる。ここまで長時間、長文の筆談を続けたことはない。たいていは相手の質問に簡潔な言葉で答えるか、あらかじめ用意した自分の要望を伝えることがほとんどだ。春奈と茜は二人とも、手首を宙で振っていた。

『本当にごめんね。ウソついてて』
『うそはついてないと思います。あのビデオの小野里さんの姿はまちがいなく、レターさんでした』
『ありがとう』
『それにいまでは逆にすごいなと思う』
 春奈は返事を出せないでいた。しばらくして茜はペンを走らせる。
『とんでもなくおおきな勇気がないとできないことです。ふつうに歌える人以上にすごいことをしてたと思います』
 そう、『してた』よね。深い意図はないにしても、茜の言葉が過去形だったことに春奈は反応した。

『レターさんがもう歌わなくても、わたしはこれからも小野里さんのことが大好きです!』

・・・
 
 ミルクを流しに捨てようとした母を止める茜。
「飲むから置いといて」
「じゃあ、早く飲んじゃいなさい。小野里さんとお話しできてどうだった?」
「すっごく楽しかった! もう手首がこんな変な感じになっちゃうくらい書きまくったよ」
「結局、上ではお部屋に入ってもらったの?」
「ううん……それはちょっと難しかった」
「なら、小野里さんの顔をちゃんと見たのはさっきのお見送りのときだけだったんだ」
「十分だよ。目いっぱい文通したもんね。でも大丈夫かな、小野里さん。大変そう」
「そうねえ。私たちには応援することしかできないけど、茜が思いを言葉で伝えたことは、きっと彼女の心にも残ってくれてると思う。あなたが書いた紙も全部持って帰ってくれたし」

 茜はこくりとうなずいた。スカートのポケットには、ポストに投函された春奈からのメッセージが詰まっていた。
 それから茜は、希望のように白く輝くミルクを飲み干した。

(第15話へ続く)

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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