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映画『まあだだよ』は巨匠・黒澤明監督の遺作ですが、黒澤映画『どですかでん』以来のキャスティングで、映画・テレビに数多くの名作にその名を留める名優、松村達雄氏が当時78歳で主演の内田百聞役で起用されました。
撮影中、演技指導に熱の入る黒澤監督が松村氏には「オマエ、何年役者やってんだ!」と罵倒するエピソードを伝え聞きます。大俳優、キャリア何十年であろうと容赦ない叱責は映画作りに妥協のない黒澤監督らしいエピソードだと、逆に黒澤監督へのリスペクトな評価に昇華されているとも捉えられます。
また別の黒澤映画『影武者』では武田勝頼役の萩原健一氏の乗馬シーンでの撮影中、リテイクの繰り返しの最中、馬が転倒し振り落とされた萩原氏が一瞬、脳震盪で意識が霞んだ折に、黒澤監督が最初に発した「馬は無事か!」という言葉に、萩原氏の怒りが爆発したというエピソードがあります。
俳優は駒であり、理想的映画完成の前では一切の情は不要だとする完全主義に基づく映画作りへの執念…だから黒澤映画はスゴいという評価にも一般的に繋がっていきます。
妥協をしない仕事スタイルは当然軋轢を生む訳ですが、その軋轢は黒澤監督の圧倒的な格の為せる、恐るべき緊張感が押し潰すことに一定の成果を得てきたのだと推測します。

リスペクト・トレーニングという、現場で怒る事の防止と威圧的指示の排除を主に謳う講習を、制作前にスタッフが制作会社の指導のもと行なわれるケースが現在、増えてきております。
この前提の前に前述した黒澤監督の演出を適合させることは難しいと一般的に判断されると思われます。となると黒澤演出はその名を出される事は憚られるもパワーハラスメントのサンプルとして教材化されても不思議ではありません。
ある意味、バックステージの様子はこれまで宣伝材料の一つに使用されるにあたり、制作現場の声という名目で、厳しい監督の演出方法はそれなりの鑑賞期待値を呼ぶエピソードでもあったのです。

つまり、時代認識から実際のほぼほぼ制作過程の検証を過去に遡り、批判対象に集約化して、名作鑑賞に、あるフィルターを差し込む事がトレンドであるならば、私はその必要性について、単なる現代目線で善し悪しを測るのは、あまりにも単純な行為ではないかと思わざるを得ません。
根が深い部分から見ていくと、私は日本的な質感に起因していると感じるのです。組織型を好み強力なトップを求める指向性です。この指向性は男性社会に有効的であり、女性目線が長年存在していなかった環境下での方法論が慣例的だった故に、会社も個人もそういうものだと割り切る、一人一人の受け止め方、成長度合いの個人差で、ここまで来てしまったものと感じるのです。

ハラスメントが何故、ハラスメントだと認識されたのか、これは相互理解がかけ離れてしまったからで、まさにギャップ、思い込み現象の露見です。
映画業界に限らず、様々な媒体でも仕事の成果の背景にある見えないプロセス、その是非について現代的に考察する状況下にあるのかもしれませんが、結局はトップの認識、見識、教養、人間力、許容量が重要であり、社風に繋がりスタッフに伝播するのだと思います。

一人の人間をどのように見るか、なのでしょう。その割には昨今世情との落差に大いに矛盾を感じるのも確かなのです。

映画『アンダルシアの犬』
名匠ルイス・ブニュエルと天才サルバドール・ダリによる1929年に公開されたフランス映画。
シュールリアリズムの傑作短編。

このジャケットにもある女性の開かれた瞼と手にある剃刀。眼球が剃刀で切られるのですが、眼球パートは子牛が素材に。動物保護の観点は当時、存在しなかった事が伺えます。





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