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映画の起源(3):奇術師と映画の出会い

1895年12月28日のリュミエール兄弟の上映会の観客のなかに、ひとりの若い奇術師がいました。ジョルジュ・メリエスです。彼は34歳という若さで、自分の劇場をもち、機械なども導入したショーで人気を博していました。上映の後、彼はリュミエール兄弟に映画の装置を購入したいと頼みましたが、断られてしまいます。

しかし、機械いじりに長けていたメリエスは、独自に同じような装置を作り出し、翌年の4月には自身の劇場で上映を始めました。また、翌月の5月には、実家の庭で撮影も手掛けるようになったのです。

彼は、驚異的なスピードで映画を作り始めました。なんと1896年から1913年の18年間で500本以上の作品を撮影したのです。その間に彼は、奇術師らしい様々なテクニックで、彼は作品のなかで、自分の頭を切り離したり、ジャグリングしたりして、観客を驚かせました。映像が靄のように薄くなり、新しい映像が浮かび上がってくる「フェードアウト」も彼が編み出したものです。

このようなわけで、のちにリュミエール兄弟はドキュメンタリー映画の生みの親、メリエスはフィクション映画の生みの親といわれるようになったのです。(ただし、リュミエール兄弟の作品は厳密には記録映画ではありません。例えば、『水浸しの水https://www.youtube.com/watch?v=uvfwgA6mBu0

遣り師』はふたりの役者によって演じられたものです。)

マジシャンっぽい作品はこちら。メリエスの顔が音符に 『Le mélomane』


一番有名なのは『月世界旅行』。表題の絵はメリエス直筆です。今の時代だったら、イラストレーターとしても食べていけそうですね。撮影では自分が月役になって、宇宙船を突っ込ませています。

メリエスは、1897年にアトリエAという自身のスタジオを建て、スター・フィルムという独自のレーベルを創設しました。さらに、1900年には彼の劇場を定期的に彼の映画を上映する映画館にリノベーションしました。

そんな中、同じようにリュミエール兄弟の上映以降に設立された、ゴーモン社とパテ社が頭角を現し、スター・フィルムと競うようになりました。とはいえ、『月世界旅行』(1902)でヨーロッパを沸かす大成功を収めていたメリエスは、頭ひとつとび抜けていました。

次回は、舞台がアメリカに移ります。あの発明王と映画の関係についてです。こんな大発明に彼が関わっていないわけがありません。



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