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映画の起源(5):エジソンの悪知恵と嫉妬

エジソンと映画の2回目です。前回は、エジソンが撮影所で映画を作っていたという話でした。

この発明王は意外とビジネスマンでして、、スタジオで様々な映画を製作する一方で、ワンコイン(25セント)を入れればのぞき穴から映像が見れる箱型マシーンを作り、1894年4月14日にニューヨークのブロードウェー1115番地に設置しました。このキネトスコープ館はたちまち大反響を呼びました。

そして満を持して、キネトスコープを持ったエジソンは当時ヨーロッパの中心都市パリに降り立ったのです。1895年のことでした。しかし、結果は思うように振るいませんでした。リュミエール兄弟の上映以降、観客は小さな穴をのぞくキネトスコープよりも、大きなスクリーンで見れるシネマスコープを選んだのです。

エジソンは、すぐさまヴィタスコープというリュミエール兄弟の装置に似たものを購入し、上映を始めました。ただこの新たなビッグビジネスのにおいを嗅ぎつけたのは、エジソンだけではありませんでした。たくさんのひとが同じように映画興行を始めたのです。

ただしここは「賢い」エジソン(苦笑)

とにかく、ちまたに出回っている他人が発明した装置の特許を片っ端から申請したのです。

特許のおかげで、誰かが映画を撮影するたびに、エジソンにお金が入りました。また、払わないものには裁判を起こしたり、強面の男たちを送り込んだりしていました。

まだまだあります。第3回で紹介したメリエスの『月面旅行』ですが、大成功を納めていましたが、メリエスには一文も入りませんでした。実は、エジソンたちはアメリカで無許可上映をして、ロンドンでフィルムを失敬し、アメリカで不正コピーを捏造して、上映していたのです。これが、世界で初の海賊版の流通です(笑)

メリエスは、これはビジネスチャンスと思ってアメリカ進出をしましたが、激しいエジソン社を筆頭とするアメリカ映画会社に阻まれて失敗。これが原因で破産してしてしまいます。ちなみにスコセッシ監督の『ユーゴと不思議な発明』に出てくるメリエスは、この破産後のお話ですね。

さて、今回は黒い部分ばかりを書き連ねていきましたが、1900年、エジソンの映画会社はアメリカで最も権力もお金もある会社にまで発展しました。というわけで、会社が倒産する1918年まではエジソンは、アメリカ映画産業のドンだったのです。彼の会社は20年余りの短い期間で、1200本もの作品を製作しました。

それらの作品の中には、映画監督第一号といわれているエドウィン・ポーターの作品群も含まれています。映画をつかって、ストーリーを描き始めた1人です。『アメリカ消防士の生活』を皮切りに、西部劇第一号の『大列車強盗』などを作りました。


次回は、ハリウッドの話になります。実はこのハリウッドが登場したのもエジソンのお陰だったりします(笑)

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