『すべての夜を思いだす』音声ガイド制作記

多摩ニュータウンという空間で過ごす、世代の異なる3人の女性たち。彼女たちのある1日。
清原 惟(きよはら・ゆい)監督作『すべての夜を思いだす』。
音声ガイド制作を通じて考えたことを書きました。

●7月30日迄、18時ちょうどからの上映です。

初めて本作を観た時、心地良い気分になった。
それぞれの世代の3人の女性たちが背負ってしまう「暗さ」が描かれた映画でもあるのに。
世界は大きすぎる。そこにいる私は小さすぎる。
しかし本作を通して、その世界の大きさに対して、その大きさ故に安心もできるのだと、私は感じた。
人には記憶がある。
まちには地層がある。
人は他者を真似て、過去の自分の動きを繰り返し、例え見知らぬ人であってもその人と共に空気を動かしあって暮らしている。
世界には、人がその地の上で暮らしを編み、生きてきた歴史がある。
遠い昔から繋がって、有り得たかもしれないことまでもが連なって、今の私が在る。
まちがあって、営みがあって、営む人々がいて、私もいる。
そんな世界の確かさを、改めて感じさせてくれる映画だった。

上映に際し、目の見えない人にも本作をより深く体験していただけるように、音声ガイド制作に取り掛かった。
音声ガイドとは、視覚情報を音声・ナレーションに翻訳して伝えることだと私は考えている。
「見えているもの」を言葉にして伝えるために、自分は本作の何を見ていたのか、見ていたものから何を感じていたのか、を考える。
そのために本作を観る度に、毎回新鮮な気持ちで映画をみつめていた。
スクリーンを通して多摩ニュータウンに入り込み、主人公の3人の女性を通していつの間にか自分の記憶に思いを馳せている。
この体験を、上映を通して目の見えない人とも一緒に味わいたい。
そのために考えたことのいくつかを記しておく。

まず地名について。
『すべての夜を思いだす』は3人の女性たちのそれぞれの1日を軸に映画が流れていくのだが、明確な起承転結は描かれず、ただ多摩ニュータウンでの時間が過ぎていく。
そこで軸となるのは、多摩ニュータウンという空間だと感じる。
「その場所」という固有性があってこそ、暮らしている人の具体性が浮かび、みつめていることが強固に跳ね返り「私」に還っていく。
音声ガイドを通して空間をイメージする人にとっても、多摩ニュータウンに入り込む体験をまずは届けたい。
そうして、音声ガイド上でも「その場所」であることを伝えるために、なるべく固有名詞で場所を表すことを意識した。
「電車」は「京王相鉄線」と、
「和菓子屋」は「青木屋」と、
「公園」は「貝取北公園」や「豊ヶ丘第6公園」などと、
それぞれの名前で呼ぶ。
その上で、そこに在るもの、起こることを音声ガイドに載せていく。
ニュータウンという「均一」で変わり映えのないように見える空間にも、その場所で育つ草木があり、人々がいて、歴史があるのだと「その場所」をみつめていて感じた。

次に、人の名前について。
音声ガイドで人物の名前を簡単に呼ぶことはできない。しかし、文章を伝えるために主語は欠かせない。そして、読みやすいようになるべく短い言葉で主語を表さなければならない。
登場人物の名前が台本に明記されていても、音声ガイドであらゆる人の名前を呼んでしまうことでは、その人物を「物語上の重要な役」として伝えてしまう恐れがある。音声ガイドが勝手に物語の起伏を過剰に作り出してしまうかもしれない。
「おばあさん」「店員」「友人」なのか、<その人の名前>なのか。
誰をどう呼ぶかは、慎重に見極めねばならない。
映画に映る人物に対して、観る人は第三者である。観ていく中で、人物同士の関係性を知り、身近に感じるようになる。いつの間にかその人に思いを馳せ、共に悲しんだり喜んだりすることができる。
その映画体験の流れを、音声ガイドによって崩してしまわないように、規定してしまわないように名前を呼ばなければならない。
そして、それまで例えば「おばあさん」「店員」「友人」であった「その人」の名前を意識する瞬間がやはりある。
本作の音声ガイドでは、ある人物をある瞬間から、「代名詞」から「名前」に変えて呼ぶことを行なった。
音声ガイドでは「見えるものを伝える」というのが鉄則なのだが、いつしか名前と共に「見ている」もの/人が在る。
地名と同じく、名前の持つ力を改めて感じた。それと同時に、新たな興味も湧いた。日常生活においては、人はいつから/何によって人の名前を感じようとするのだろうか。
勝手に、ニュータウンとは、規格化されたマイホームに家族が押し込まれ、地域性や共同体としての営みが希薄な空間というイメージを持っていたのだが、ニュータウンにおける人と人の関係にも、当然であるが名前を介するものと名前を介さないものがあるのだ。

続いて、空間について。
音声ガイドは視覚情報を言葉に翻訳するものである。
その上で、飯岡幸子さんのカメラは難しい。フレームを意識させないカメラだと感じる。
音声ガイドを書く私は、しかしそのフレームにおいて何を見ているのかを突き詰めねばならない。
目の見えない人と映画の話をしているとハッとする瞬間があるのだが、それは「庭の石になって観ていた」「あの人の背後にいた」など、フレームから自由になって映画を観ていることを伝えてくれた時だ。
「見えない」からこそ、「映画が映そうとしているもの」に、その世界に、芯に迫って存在しながら映画を観ているのだと感じる。
時々、飯岡さんのカメラを通して、見えない人の映画の「見方」を考えてしまう。
その足場となってくれるのが、黄永昌(こう・よんちゃん)さんの成す音であったりもする。
カメラは人物に対して、その場所に留まって去って行く姿を見送り、次のショットでは先に居てやって来る姿を待つ。
ある人物を追い続けるのでなく、他の人物やものに逸れる。
そしてほぼ全編を通して、鳥の声や木々が葉を揺らす音が聞こえる。
本作を観ていると、まるでそれらが、街の眼差しや声/息のようなものなのではないかと思えてしまう。
いつしか多摩ニュータウンに「人格」のようなものを感じている。
人は空間に見守られ、育まれ、生きているのではないか。
しかし、音声ガイドの言葉でフレームに押し込められない空間の大きさを描写しようとした時点で、空間をフレームに押し込めてしまうことになる。
それを防ぐためには、「何が見える」ということを実直に音声ガイドに載せていくしかない。
そして、ASUNAさん、ジョンのサンの方々、mado&supertotes(すーぱーとーとす),ESVさんたちの音楽も、「見えないもの」であるのに、そこにその時に在る確かなものだ。
「在るものが在る」ということを伝えて、目の見えない人にとっても空間に立つことができる足場を音声ガイドに載せて、フレームの中では「見えないもの」までをも「見ようとする」。
言葉で空間を押しこめてしまう恐れを抱きながらの音声ガイド台本制作であったが、それを通して感じるのは安心できる世界の大きさであった。

最後に、記憶について。
ここまで、私が世界と呼ぶものを成す空間や場所,人について述べてきた。
それらには、縄文時代や高度経済成長期を経た土地の歴史や、暮らしてきた人々の背景がある。
そのことを「記憶がある」と言いたい。
そして本作には、記憶自体が私に呼びかけてくるようなシーンがある。
登場人物がみつめる縄文時代の展示、ホームビデオや写真。
そして私がみつめる『すべての夜を思いだす』という映画自体。
幼い子どもたちの誕生日、亡くなった友人と共にした花火。
もっというと、古代に鳴らされていた土鈴(どれい)の音。
それらのメディアを介して、多摩ニュータウンの記憶、そこで生きる人々の記憶が、私の記憶になる。
それらの具体性、その背景に在る人の固有性は、それらをみつめている私の今を作り出す。
その今は、私自身の過去と、記憶と重なる。
本作には一つ、明確に「記憶のなか」・写真から人物にみつめ返されるシーンがある。
そこには、写真を撮った人物と写真を見ている人物、そして観客が存在しているはずだ。
この視線について、音声ガイドの言葉一つで印象は変わってしまうことを痛感した。
「Aがこちらを見る」では、Aが観客を見ていることを表し、映画内で見つめられている人物の存在を排してしまう恐れがある。
「Aがカメラを見る」では、映画を撮るカメラかあるいは映画内で写真を撮っている人物か、そのどちらかに視線の先を限定してしまう。これでは写真を見ている人物を排してしまう。
悩んだ末に、「Aがカメラの方を見る」とした。
「の方を」という言葉一つで、「視線の先」でなく「視線そのもの」について言及できることになるのではないか。
その視線の先を観客は、写真を撮った人物と写真を見ている人物、そして観客自身としてそれぞれに想像できるのではないか。
言葉で何かを当てはめてしまうことで、対象を誰か一人のものとしてしまうのであるが、『すべての夜を思いだす』には、土地や人の固有性と共に、漂うように開かれたコモンとしての余白がある。
ならば、音声ガイドもそうあらねばならない。
その物語や映画に「乱暴」に集約させないそのバランスに、音声ガイド制作を通じて私は、世界そのものを感じてしまうということに気づいた。

「すべての夜を思いだす」とはどういうことだろうか。
本作パンフレットの最後に収録される斉藤綾子先生の文章は、こうした問いで始まるが、未だに明快な答えを出せはしない。
本作を観て、パンフレットも読んで、サントラも聴いて、確かに感じたことは『すべての夜を思いだす』が私の記憶となっていることだった。
映画の中にも写真やホームビデオが現れたように、
そこで他者の記憶が登場人物自身の体験として繋がっていったように、
『すべての夜を思いだす』自体が、私の記憶となっているのだ。
改めて、「すべての夜を思いだす」とはどういうことだろうかと考えてみる。
*因みに清原監督のインタビューでは、タイトルは最後まで変わらなかったことが述べられている。(https://note.com/subete_no_yoru/n/n16ad27928401)
「すべて」がどこまでを示すのか、「夜」とはいつなのか、「思いだす」行為とは何なのか。
人によってその時によって様々である、としか言いようがないようにも感じる。
ただ、大きすぎる世界の中で、違う時間や空間に在る存在と繋がりながら、「すべての夜を思いだ」しているのではないだろうか。
そして、「すべての夜を思いだす」ための装置のひとつとして、映画があるのではないか。
小さな私にも世界があり、他の存在と共に世界にいる。
それを伝えてくれるものとして、幸いにも映画がある。
『すべての夜を思いだす』という映画は、この先も世界に立つ私の足場として存在してくれる。

文:スタッフ柴田 笙

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⚫︎多種多様な方々の文章・イラストによって織りなされた本作パンフレットも劇場で販売中です。
  清原監督手作りの一冊。多摩ニュータウンを散歩できるマップもついております!
  斉藤綾子先生による最後の文章まで、ぜひ噛み締めてお読みください。

⚫︎映画を音楽から追想できる、ASUNAさん、ジョンのサンのメンバーの方々、mado & supertotoes,E.S.VさんたちによるサントラCDもお取り扱いしております。
  映画完成後も制作が続けられ、収録された全40曲!『すべ夜』をまた思い出していただければ。

⚫︎「生きられたニュータウン 未来空間の哲学」
パンフレットにも寄稿されている篠原雅武さんによる、ニュータウンという空間について論じられた一冊。そのサウンドスケープや建築、高度経済成長以降の世界の歪みの中に残る「家」の形。
『すべての夜を思いだす』の輪郭が浮かんでくるような本です。ぜひご一読を。

⚫︎ boidラジオも公開されました!(有料会員登録が必要です)
当館でもマグカップの音は、センターから鳴っております!
この文章で「人の名前」について述べた箇所ですが、ラジオ内で話された「ニュータウンでは人が風景のように感じられる」という話題も興味深いです。。


●上映情報
7月14日(日)~7月30日(火)
  *17日,24日(水)休映
18時00分~20時01分
(2022年製作/116分/日本)
#日本語字幕 ・#音声ガイド あり

◉他館様でも行われなかった監督舞台挨拶については、
  当館でも行う予定はありません。
  理由については、監督の文章をご参照ください。https://x.com/kiyoshikoyui/status/1812066847908630972 


シネマ・チュプキ・タバタはユニバーサルシアターとして、
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