『映画 ◯月◯日、区長になる女』音声ガイド制作記

上映は5月14日迄。
「岸本聡子」の、「杉並区」の、「選挙」の映画にとどまらない、
「わたしたち」の映画です。
一緒に悩んだり、ワクワクしたり、本作が届けてくれるいろんな体験を、
楽しんでいただきたい!



2022年6月19日の杉並区長選で区長になった岸本聡子さんを軸としたドキュメンタリー、
『映画 ◯月◯日、区長になる女。』。
私が杉並区に引っ越したばかりの頃、この区長選が行われていた。
選挙ポスターが貼られ街頭演説が行われる街の中、選挙割りをやる個人店などもたくさんあり、新参者の自分でも盛り上がりは感じ取っていた。
杉並区は面白い。
駅のほとんどに商店街があり、それぞれの町の空気がある。
杉並区は自転車があるとすごい便利で楽しい、気持ち良い。
自転車で走りながら町ごとの移り変わりと交わりを感じて、小旅行のような気分になる。
自分にとっての岸本さんといえば、「自転車推し」の候補者、という印象から興味を抱いた人だった。

だが、選挙の熱がここまでのものだったとは。
スタンダードになっている今の形の選挙の歪さ。そこに悩み、ぶつかり、自分のやるべきスタイルを探求する候補者の姿。
そして同じく悩む監督の吐露。
「公の心を聴く」ことの難しさと、それをしてこその政治の在り方を感じる。
岸本さん一人が「すごい人」だったから区長になったのではなく、
同じく「公」も声を伝えていかねば、と鼓舞される。
そして結果的に新たな候補者・政治家が生まれたりもする。
選挙はどこまでも続く。

これは「区長になった女」の映画であり、
「区長にした市民」の映画であり、
これから「区長になる人々」と「区長にする人々」の映画なのだ。
そう言い切りたい。


そうしてアツい気持ちになって音声ガイド制作に臨んだ。
音声ガイドとは、視覚情報を音声・ナレーションに翻訳して伝えることだと私は考えている。
音声ガイドを通して、目の見えない人とも映画を共に体験したい。

制作を通してまず直面したのは「呼称・呼び名」の問題であった。
文字を読むことで受ける印象と、音声を聞くことで受ける印象は全く違う。
もちろん人によると思うのだが、音声を聞く場合は主語や時間や場所といった「情報」の間に、文脈に応じてイメージを構築する優先順位が生じやすいのだと感じる。
そうした単語に対しては殊更気を使わなければ、映画を観賞する姿勢を過度に誘導してしまったり、誤った意図を伝えてしまうことが簡単に起こってしまう。
言葉一つ一つを考え抜かなければ、音声ガイドで映画をきちんと共有できない。

声ガイドナレーション上で岸本さんのことをどう呼べば良いのか。
「岸本さん」と呼ぶには、距離が近すぎる気がする。音声ガイドを聞いた人にとって、本作が「岸本聡子の映画」としてしか印象付かない恐れを感じてしまった。
かといって「岸本氏」とすると、遠すぎる。距離を置きすぎると淡白な選挙ドキュメンタリーになりかねない。
その中で他の方々は全て「さん」付けで統一した。その形が監督の手持ちカメラの映像から成り立つ本作にぴったりハマったからだ。
ただ、出演シーンの多い岸本さんまでをも「聡子さん」と呼んでしまうと、「監督視点の映画」としてのみの"み方"に固定させてしまう恐れがある。

悩んだ結果、記号的に名前を示すだけだとして、敬称を付けずに「岸本」とするのがしっくりきた。
近すぎず、遠すぎず、それぞれが感じたままに、岸本さんを捉えてもらえるのではないか。
「岸本聡子の映画」と「監督視点の映画」と「政治・選挙の映画」との塩梅を見極め、
その全てでありつつ、単にその全てとは言い切れない本作をそのまま提示したかった。
そのために言葉一つがこんなにも関わるものだとは、想像以上であった。

ほかにも「呼称・呼び名」については悩んだことは多かった。
「人々」というのか「聴衆」というのか「市民」というのか。
「老婆」というのか「おばあちゃん」というのか。
「外国人」というのか「外国ルーツの人」というのか。
ドキュメンタリーの音声ガイドを制作するにあたって、「呼称・呼び名」を何にするかはいつも悩むことだが、
本作はとりわけ、一人一人が映画に存在している。
画面を埋める置物ではないのだから、しっかり向き合わねばと気合を入れた。


また、特に大切にしたかったシーンがある。
ネコとカメとアケボノスギ。それと善福寺川の鳥たちも挙げられる。
私が初観賞時に衝撃を受けたシーンだ。
これらのシーンがあるからこそ、「監督視点の映画」でもあることを感じもしたし、
人間以外を映した画に変わる瞬間だからこそ、人智を超えたものに触れるように、俯瞰して映画と向き合えたように感じた。
人間は難しいけど、ネコ(びーちゃんやその他のネコたち)とカメ(カメキチ先輩)は可愛いし達観しているようにも映る。
ずっと杉並の町を見守ってきたような大きなアケボノスギの、その存在感に安心する。
この可愛さや、大らかさのようなものを、的確な言葉を選んで音声ガイドに載せなければならないと思った。
例えば、ネコのあくびや尻尾の動きを表すこと、鳴き声に被せないことなどが、とりわけ繊細に取り組んだことの一つである。


最後に改めて、本作が「区長になった女」の映画であり、
「区長にした市民」の映画であり、
これから「区長になる人々」と「区長にする人々」であることを考えたい。
だからこそ、本作は「ただの選挙ドキュメンタリー」ではないのだ。
この映画で描かれたことは、政治や選挙活動に限らずあらゆる組織の在り方、人との繋がり方にも通じる話だと感じる。
人が集まって動く組織の中で、組織を成す個々人が、各々のやりたいこと・やりたくないこと・やってほしいことを抱えている。
その中で、ぶつかったり逃げたり、相談したり隠したり、共感し提案したり,ただ否定したりするしかないのだ。
これは政治家に限った話ではないし、人と人が集まっていれば起こること、または起こってしまう必然の行動なのだと思う。
「公の心を聴く」こと。広げて言うと、他者の声を聴くこと。
少なくとも私の望む政治とはそういうものでしかない。人と関わるとはそういうものでしかない。全てを一緒くたにするのは乱暴だが、「まず人として」という気持ちを忘れたくない。
ならば逃げたり隠したりはしたくないし、してほしくない。
その単純明快さに気付かせてくれた。
ペヤンヌマキ監督は、岸本さんと監督自身という個人を軸にして、社会や組織に属する個人・私自身の在り方を鏡のように感じ取らせてくれた。


文:スタッフ柴田 笙

ゴールデンウィークは連日ほぼ満席をいただいた本作。
是非ご来館いただけますと幸いです。


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