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回覧板をまわす

子どもの頃のお手伝いの一つに、「回覧板をまわす」というのがあった。

ご近所を順番にまわってきた回覧板を、日曜日の朝や平日の夕方にお隣さんに届けに行く。

人見知りのわたしには、なかなか難易度の高いミッションだった。

子ども会のお知らせや町内会の案内などがはさまったバインダーを胸に抱えて、

ドキドキしながらお隣さんの家のドアの前に立つ。

深呼吸してからインターホンを押して、名前を名乗る。

ドアが開いたら少し大きな声で、「こんにちは、回覧板です。」

そう言って手渡す。

すると隣の家のお母さんは決まって

「あら、ご苦労さまです。」って、受け取ってくれる。

その「ご苦労さまです。」を聞くと、自分が少し大人になったような気がして

帰り道はいつも誇らしい気持ちでいっぱいになった。


そんな昭和感漂う回覧板が、姿形を変えずに先日我が家にまわってきた。

回覧する順番の書かれたバインダーに、近所のイベントや手作り教室の案内などがはさまっている。

ほぼ30年ぶりに手にする「回覧板」の重みに、しばらく立ち尽くしてしまった。

まだ、この世にあったんだ!!


今朝、お隣さんに届けに行く時は少し緊張した。

入居の挨拶をした時に顔を合わせた年配のお父さんが「はい、ご苦労さまです。」と受け取ってくれる。

30年分大人になっても、帰り道はやっぱりちょっと誇らしい気持ちになる。

人と話すのはいまだにドキドキするけれど、人と触れ合うことはキライではないんだなぁって思う。

わたしを見るとビックリして逃げるのに、少し離れたところから首を伸ばしてじっとこちらを見ている、近所のノラ猫みたいだ。


今年の夏はここの家のお母さんから庭で採れたシソとミョウガをいただき、反対隣の同年代のご夫婦からはスイカをいただいた。

我が家も安曇野の友人からもらった野菜をおすそ分けしたりして、安曇野の何倍も都会の松本で、そんな牧歌的な暮らしが続いていることにほっこりした。

普段はめったに顔を合わせないけれど、お互いに顔を知っていて、ときどき回覧板をリレーしながらゆるくつながっている関係性。

近くに暮らす人たち同士の「なんとなく」つながっている安心感。

子どもの頃のわたしが自分から回覧板を届けに行っていたのも、そのどこか動物同士の関係性に似た安心感を無意識に感じていたからなのかもしれない。

近すぎず、遠すぎず。

存在を認識してるけど、攻撃はしませんよ。

どうぞそこにいてください。

そんな、距離感。


今度回覧板が回ってきたら、もう少しお隣さんとおしゃべりしてみようかなと思う。

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Photo @Matsumoto Nagano

松本は街のあちこちに昔ながらのお風呂屋さんが点在している。中心部から一歩路地に入ると、独特のゆったりした昭和の空気が変わらずに流れていることに安心する。

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