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オムレツストーリー

半年間、毎朝大量のオムレツを焼き続けた時期がある。
西伊豆、海の目の前に建つ小さなホテル。シェフと調理補助の私だけという小さな調理場で働いていたときのエピソード。


同じクラスにいたら絶対に関わりたくないような血の気の多いシェフと、下っ端のくせに生意気な私はよく怒鳴り合ってケンカした。


それでも、初めてシェフの作ったオムレツを食べたときは感激で言葉を失った。焼きたてを頬張ると、口の中いっぱいに旨味がじゅわっとひろがる。
伊料理出身の彼が使うのは卵と牛乳と塩のみ。塩だけでこんなにも深みのある味が出せる、という事実に私はどうしようもなく感動した。
「料理って芸術だ!」
シェフのオムレツが、私を料理の世界にひきこんでくれた。


性格にやや難ありの不器用な人ではあったけれど、こちらが学びたいと言うと自分の休憩時間を削ってでもなんでも教えてくれた。私がさばき方を覚えられるようにと、わざわざ魚や鳥を丸のまま仕入れてくれたりした。


「料理は塩で決まる。」とシェフはいつも言っていた。塩加減ひとつでどんな料理も美味しくなると。


オムレツ修行期間、卵の焼き加減以上に塩加減に苦戦した。シェフは絶対に分量を教えてくれないし(彼自身が感覚で覚えているのでそもそも知らない)、ゲストの数によって毎回仕込む量も変わる。


チャーハンだったら作りながら味見ができるけれど、オムレツは焼いてみないと分からない。当時の接客スタッフは、私がゲストに提供できるようになるまで毎日まかないオムレツに付き合ってくれた。(今思えば練習に使わせてもらった大量の卵もすべて会社の経費だ。)


味がすかすかだったり、頭痛がするほど塩辛かったり、スタッフさん達のなんとも言えない顔を連日目の当たりにしながらも、半月もするとなんとなく感覚が掴めてきて、1ヶ月経つ頃には一人で朝食を任されるようになった。


それでも味見できないのと、人数分しか仕込んでいないので失敗できないことのプレッシャーで、ゲストが海を見ながら優雅に朝食を待っている間、誰もいない調理場で四苦八苦していたのを今でも思い出す。


怒号と一緒にフライパンが飛んでくるような厳しい修行時代を過ごしたシェフは、先輩の仕事を必死で盗み見ながら勉強したという。長い下積みを終えて最初に任されたのは、サラダの味付け。トマトに塩を振り、塩だけで味をつけるように先輩から命じられて、何度もお皿を突き返されながら「美味しい」塩加減を身体で覚えたという。



そんなシェフのもとで叩き込まれた感覚は自転車と同じで忘れないもので、料理の現場を離れた今でも塩で素材の味を引き出す感覚が無意識に残っている。


言葉では説明できないけれど、自分の中に「ココだ!」という絶対的なポイントがある。薄すぎず、濃すぎず、一番美味しく感じるポイントにほんの一瞬、全神経を集中させる。無意識に起こるその瞬間はいつも興奮する。


あの当時、シェフが味を決めている際中に横から話しかけると鬼の形相で怒鳴られたものだけれど、今ならその理由がよく分かる。それ以来、なにかに集中して真剣な表情で一点を見つめている人に出会ったら、そっとしておく事にしている。その人の中に生まれているであろう芸術を想い、横顔をそっと見つめ、目をそらす。


言葉にならないけれど、自分の中に絶対的に存在する揺るがない感覚。相手にとってそれがいつも"美味しい"とは限らないけれど、だからこそ自分の中に立ち戻ることのできる原点があると安心する。
長い年月をかけて研ぎ澄まされたその感覚は、私の中にあるひとつの「しんじつ」だ。今、それをとても愛おしいと感じる。


きっと、出逢う人ひとりひとりの中にも何かしらの「しんじつ」があるんだろう。それが何かを表現する源であったり、人を想う気持ちだったりするのかもしれない。自分の中にも、他人の中にもある、触れることのできない絶対的な場所があるということを慈しみたいと思う。

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Photo by 河谷俊輔
安曇野の自然食レストランにて。ここに呼んでもらったことが、長野に移住するきっかけとなった。調理の現場はどこも独特の雰囲気があっておもしろい。

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