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『暗殺の森【4K修復版】 UHD+Blu-ray』封入ブックレットより解説原稿の前半を特別公開:YouTube初無料公開記念

暗殺の森     小野里 徹


*本稿は『暗殺の森【4K修復版】 UHD+Blu-ray』(発売元:WOWOWプラス 販売元:TCエンタテインメント)封入のブックレットの解説原稿の前半部分を、筆者の了解を得て、WEB上で公開するものです。
 

■革命前夜

ベルナルド・ベルトルッチが『暗殺の森』(1970)の製作に着手したのは二十八歳の時だった。
師であるピエル・パオロ・パゾリーニ原案の『殺し』(1962)でデビュー。故郷パルマを舞台にした自伝的作品『革命前夜』(1964)、もう一人の師であったジャン=リュック・ゴダールへの憧憬がはじけた『ベルトルッチの分身』(原題「Partner.」、1968)を経て、イタリア国営放送=RAI製作の長編四作目『暗殺のオペラ』(1970)でヴィットリオ・ストラーロという理想の絵筆を得たベルトルッチが挑んだ初の国際映画が『暗殺の森』である。
 
ベルトルッチがアルベルト・モラヴィアの小説「Il Conformista」(1951、旧訳「孤独な青年」、新訳「同調者」)に出会ったのは『暗殺のオペラ』準備中のことだ。恋人であり『暗殺のオペラ』で美術と衣装を担当していたマリア・パオラ・マイノは、徹夜で読んだモラヴィアの小説のことを詳細にわたってベルトルッチに聞かせた。図らずもパラマウントのローマ支社Mars Filmから映画のアイデアを求められたベルトルッチは、まだ読んでもいないモラヴィアの小説について担当者の前で語ってみせる。そして一九六九年の夏を過ぎ『暗殺のオペラ』が撮影を終え編集作業に入った頃、突然その企画にゴーサインが出る。彼はそこで初めて小説「Il Conformista」を手に取ってみた。
当時ベルトルッチとモラヴィアは親しい関係にあり、一時期は毎日のように夕食を共にする仲だった。「小説に忠実であるためには小説を裏切らねばらない」というベルトルッチの真摯な言葉にモラヴィアは賛同し映画化を快諾。映画監督は原作を横に置いて1ヵ月で脚本を書き上げる。そこにはモラヴィアが書かなかった暗殺場面や新たに創作したイタロ・モンタナーリなどの登場人物も含まれていた他、結末も完全に変更された。
 

■パートナー

前二作に続いてベルナルドの従兄であるジョヴァンニ・ベルトルッチがプロデューサーとなりスタッフとキャスト集めが始まる。
 

美術のフェルディナンド・スカルフィオッティはFIATの創始者の一人を祖父に持つプロダクション・デザイナーで、映画の仕事はまだ二本のみだったがベルトルッチとはすぐに意気投合する。幻に終わった一九四二年のローマ万博のためにムッソリーニが建設した都市「EUR」に着目した二人は、EURの会議場をファシスト党の中枢部に見立て、同建物の屋上野外劇場をマルチェッロの父が入院する精神病院に仕立てた。彼らの狙い通り、壮麗かつ威圧的で息苦しいローマのパートは後半を彩る自由なパリのムードと見事な対比を見せる。
その後スカルフィオッティは『ベニスに死す』(1971)でヴィスコンティ作品に参加、八〇年代は『スカーフェイス』(1983)などアメリカ映画界でも活躍し、1988年に『ラストエンペラー』(1987)の美術でアカデミー賞を獲得した。
 
ジット・マグリーニはフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールらヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの作品で衣装を担当するなど国際的に活躍してきたデザイナーだ。マグリーニが創出した一九三八年のモードは、それを見事に着こなした女優たちの存在感と相まって、往年のパリの濃密な空気を、ダンスホールの熱気を蘇らせ、ピエロ・トージらルキノ・ヴィスコンティ組の衣装デザイナーをも驚嘆させたという。
マグリーニはベルトルッチの次回作『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)では衣装だけでなくマリア・シュナイダーの母親役を演じ、その後の大作『1900年』(1976)では再びドミニク・サンダをフォトジェニックに演出する。
 
フランコ・アルカッリはプロデューサーが強く推してきた編集技師で、ムッソリーニ政権下で十五歳にしてレジスタンス活動のリーダーを務めたこともあるという意外な経歴の持ち主だった。編集とは何かについて開眼させてくれたアルカッリをベルトルッチは愛をこめて「キム」と呼んだ。
当初ベルトルッチは時系列通りに物語を組み上げることも想定しながら撮影に臨んだが、アルカッリが編集した最初の数シーンが彼の心を捉える。撮影素材を監督の意図とは関係なくつなぐ彼の編集術は即興的に見えて正確であり、そこから思いもよらなかった「映画の潜在意識」とでもいうべきものが浮かび上がることにベルトルッチは驚き、アルカッリの仕事ぶりに夢中になった。それはもしかしてゴダール映画の画期的な編集以上の技術を手に入れるほどの喜びであったのかも知れない。いずれにせよ移動する車中での主人公のフラッシュバックという語り口にリズムとパースペクティヴを与えたのは、キム・アルカッリの非凡な手腕であろう。
『ラストタンゴ・イン・パリ』『1900年』では編集のみならず脚本にも参加してベルトルッチの七〇年代を支えたが、『ルナ』(1979)の脚本執筆を最後に四十八歳の若さで死去した。
 

そして撮影監督のヴィットリオ・ストラーロ。
彼は『革命前夜』でカメラ・オペレーターとして初めてベルトルッチの現場に参加した。互いの仕事に敬意を抱きながらも二人が再会するのは『暗殺のオペラ』においてである。ベルトルッチの故郷パルマを舞台に、ルネ・マグリットやジョルジョ・デ・キリコの絵画をリファレンスにしてストラーロが構築した色彩と空間が画面に踊った前作。脳内の物語が鮮やかに映像へと変換される喜びに、ベルトルッチはめくるめく夏のパルマで試みた映像表現の探求を今度は冬のパリで、ヌーヴェル・ヴァーグの都でストラーロと共に実践したいと熱望したに違いない。
『暗殺のオペラ』の時点ではまだ控え目だった映画的外連(ケレン)がここでは煌びやかな俳優たちも手伝って一気に花開く。登場人物の心理を可視化する色使い、ドリーでの横移動に加えクレーンを使ってのスペクタキュラーな上下運動、奥行きを強調した構図など、ストラーロの撮影はそれ自体が一つの強烈なキャラクターであることをベルトルッチとのコンビ二作目にして見せつけた。ストラーロは「疑いなく『暗殺の森』は撮影監督としてのわたしのポジションを完全に変えた映画だ」と語っており、『地獄の黙示録』(1979)や『レッズ』(1981)などの大作に参加しながら『リトル・ブッダ』(1993)まで合計八本のベルトルッチ作品にその才能を注いだ。
 

■暗殺のオペラ

ジョルジュ・ドルリューの音楽がこの映画にともしたエモーションの灯も重要だ。
ドルリューもまたヌーヴェル・ヴァーグの作家たちと共闘した作曲家である。音楽は映像から自立すべきとの考えからベルトルッチは映画を見せずに作曲させたり既成曲を使用してきたが、ゴダール的な音の使い方に見切りをつけ『暗殺の森』で初めて作曲家を編集室に入れた。ドルリューは編集中のフィルムを見ながら作曲し、映像と音楽のシンクロを求める監督に応える。中盤のシークエンスで聴ける、街をそぞろ歩くジュリアとアンナ→その後に続くマルチェッロ→彼らを尾行するマンガニエッロ、というカットの切り替えに合わせて目まぐるしく転調する劇伴はまさにそのような作曲法の賜物である。
一九三〇年代当時の電子楽器「オンド・マルトノ」まで導入してのこだわりの楽曲制作は決して楽なものではなかったようだが、ドルリューはレコーディング最終日の感激を記憶している。その日悲しそうな監督の姿を見た作曲家が「僕と楽団にはまだ一時間ある。やり直せるんだよ」と気遣うと監督は「いいえ、僕が悲しいのはこれで終わってしまうからなんです」と答えたという。
ベルトルッチは『1900年』で再びドルリューと組むことを希望したがプロデューサーの意向により叶わなかった。
 
そして記しておきたいのは前作『暗殺のオペラ』(原題は「Strategia Del Rango(蜘蛛の戦略)」)の中盤で流れるカンツォーネのことだ。
戦時中の流行歌を思わせる気怠いあの曲は同作のエンドクレジットによればオーギュスト・マルテッリが作曲し国民的歌手ミーナが作詞し歌ったもので、そのタイトルを「Il Conformista」という。今はもうこの世にいない恋人に向けたその哀歌はそもそも『暗殺の森』のために書かれた曲だと言われているが(恐らくエンドロールのために)、いかなる事情で『暗殺のオペラ』の方に使用されたかは不明であり、ミーナのどのアルバムにも収録されていない謎の楽曲である。
 

■男性・女性

ジャン=ルイ・トランティニャン

主人公マルチェッロ・クレリチを演じるのは、『男と女』(1966)でスターとなりイタリア映画界でも活躍していたジャン=ルイ・トランティニャン。
ベルトルッチは真っ先に彼を主役に想定し、共通の友人を介して会ったトランティニャンの「ノーマル」なルックスを気に入ってすぐにフランス語訳の脚本を送る。キャスティング決定前のスクリーン・テストを必要としないほどの惚れ込みようだったが、トランティニャンはマルチェッロが自分と違い過ぎるとして当初はその役柄を好きになれなかった。
しかし結果的にトランティニャンは、演じるべき「順応主義者」を単なる卑怯者や日和見主義者ではなく優雅かつ陰のある複雑な人物に仕立て上げた。甘く青白いポーカーフェイスは時として『サムライ』(1967)のアラン・ドロンにも通ずるハードボイルド的な冷徹さをも湛えていた。しかしその実、彼は不幸なことに『暗殺の森』の撮影中にまだ赤ん坊だった次女を亡くしている。ベルトルッチの気遣いもあり撮影は一時中断したものの、トランティニャンの悲痛と憂鬱と乱心がマルチェッロの人物造形に大きく影を落としたことを本人も認めている。
トランティニャンは原作のマルチェッロより十歳近く年上ではあったが(原作では三十歳、映画では三十四歳になっている)、映画を見たモラヴィアは主演俳優との夕食の席で「僕の小説よりいいね」と賛辞を贈った。自身のフィルモグラフィ中『愛、アムール』(2012)以前の最高作にトランティニャンは『暗殺の森』を挙げている。
 

ステファニア・サンドレッリ

主役候補者からの返事を待たぬうちに決まったのが妻ジュリア役のステファニア・サンドレッリだ。結果的に映画の登場人物の中で原作のキャラクターに最も近かったのはサンドレッリが演じたジュリアと言える。『ベルトルッチの分身』で初めてベルトルッチと組み『暗殺の森』撮影時は二十三歳。その後『1900年』、『魅せられて』(1996)にも出演したサンドレッリはベルトルッチ作品最多出演女優となる。
大正時代の日本では「モガ」のヘアスタイルとして流行したフィンガー・ウェーヴのかかった黒髪がよく似合い、ジット・マグリーニのアール・デコ・ファッションに身を包んだサンドレッリの美貌は、もう一人のブロンドの女優と並んだ瞬間、まばゆいばかりの化学変化で映画を輝かせる。
 

ドミニク・サンダ

教授夫人役の候補に上がった最初の女優はブリジット・バルドーだった。ジョヴァンニのプロダクションの強い意向でベルトルッチらはバルドーの自宅まで行ったものの、まったく説得できなかった。
そんなパリ滞在の最中、ロケハンをしていたベルトルッチらは折りしも上映中だったロベール・ブレッソンの新作『やさしい女』(1969)を見に行く。それがドミニク・サンダという女優との出会いであった。彼女はまさにベルトルッチが探し求めていた一九三〇年代のパリの女性そのものだった。マレーネ・ディートリッヒやグレタ・ガルボを彷彿とさせるオーラもあり、蠱惑的で完璧。ベルトルッチたちはすぐにサンダの元を訪ね、教授夫人役をオファーする。『暗殺の森』はドミニク・サンダの映画出演二作目であり、撮影時彼女は十八歳だった。
 

ガストーネ・モスキン

OVRA(反ファシスト監視秘密警察)のエージェント、マンガニエッロをふてぶてしく演じたのはガストーネ・モスキン。喜劇俳優として有名だったモスキンの中にベルトルッチはファシストの恐ろしい本性を見て起用を決めたという。そして彼に恐ろしさを見出したのはフランシス・フォード・コッポラもであった。
ニューヨーク映画祭での高評価にもかかわらず『暗殺の森』をアメリカ公開しないと決定したパラマウントに対して、コッポラはアーサー・ペンやシドニー・ルメットらとともに嘆願書を送り、小規模ながらも公開を勝ち取る。コッポラはプリントを一本買ってしまうほど『暗殺の森』に心酔しており、その後満を持して『ゴッドファーザー PART Ⅱ』(1974)にガストーネ・モスキンを招く。モスキンが扮したリトル・イタリーの顔役ファヌッチを暗殺するのが若き日のヴィト・コルレオーネ、つまり2年後に『1900年』で主演を務めることになるロバート・デ・ニーロである。

ピエール・クレマンティ

少年時代のマルチェッロに同性愛と殺人の記憶を植え付けるパスカリーノ(リーノ)・セミラマにはピエール・クレマンティ。トランティニャン同様フランス人でありながらヴィスコンティの『山猫』(1963)、パゾリーニの『豚小屋』(1969)、そしてベルトルッチ作品と、イタリア映画人に愛された俳優でもある。端正かつ不敵な面構えとエキセントリックなたたずまいが持ち味で、『暗殺の森』以前のクレマンティと言えばやはりルイス・ブニュエル作品『昼顔』(1967)でのパンキッシュなチンピラ役が強烈だった。
リーノが帽子を取るとハラリと長い髪が広がる場面は、『暗殺のオペラ』における「男の子だと思い込んでいた子供が少女だった」というサプライズの再現になっている。
 

■はなればなれに

『暗殺の森』の撮影は一九六九年の晩秋からクリスマス前にかけて、そして一九七〇年一月から二月にかけての数週間の二回に分けて敢行された。企画の立ち上げからクランク・インまで半年以下というスパンで、しかもその間の数週間でスタッフ、キャスト、ロケ地などすべてが決定したことは驚異的である。
 
モラヴィアの小説にはない「盲人たちによる結婚祝いパーティ」はムッソリーニを選んだ当時のイタリア国民を象徴させる目的でベルトルッチが創作したシークエンスだが、パラマウントから上映時間を短縮するよう言われ監督自らが削除した。一九九〇年代に入りテレシネ作業のためパラマウントに呼ばれたヴィットリオ・ストラーロは、そこでカットして以来手付かずだったネガフィルムを奇跡的に発見、無事復元することが出来た。日本では一九九八年に『暗殺の森 完全版』として劇場公開されている。
 

しかし復元されなかったシーンもある。ヴェンティミリアの娼館の娼婦はドミニク・サンダただ一人しか登場しないが、現存するスティルなどの宣材を見ると他に四人もの娼婦たちがいて、しかもマルチェッロと会話まで交わしていたことが確認できる。モラヴィアの原作通りに撮っておきながらパラマウントからの要請以前にカットしてしまったものと思しいが、理由としては、初めに「官房長官の愛人」として登場し、次に「気のふれた娼婦」となり、最後にようやく「教授夫人」として現れるサンダの一人三役をマルチェッロの歪んだ女性観として提示するために、他の女性たちの存在は邪魔だったのではないかと推測する。順応主義者の主観と記憶はここでも揺らいでいる。
 
ちなみにジャン=ルイ・トランティニャンのイタリア語吹き替えを担当したのは俳優のセルジオ・グラツィアーニ。テレビドラマを中心に活躍した他、ピーター・オトゥールやドナルド・サザーランド(二人ともベルトルッチ作品の俳優だ)ら数多くの吹き替えを担当した。
ドミニク・サンダの吹き替えは女優のリタ・サヴァニョーネ。彼女は『1900年』でもサンダを吹き替えている。彼ら自身の声が聴けるヴァージョンの『暗殺の森』は現存していない。もし当初ベルトルッチが想定したように『ラストタンゴ・イン・パリ』にトランティニャンとサンダが主演していたら、そちらでは二人の肉声を聴くことが出来たことだろう。
 

■魅せられて

ベルトルッチのフィルモグラフィに散りばめられた「父殺し」「集団と個人」「歴史の非情」「頽廃」「政治とセックス」「同性愛」「分身」「近親相姦」といったテーマは『暗殺の森』においても物語の重要な推進力となり、監督自身を投影した主人公たちのエゴイズムと逡巡はこれ以降も時代や国を超えて変奏されていく。映画という装置を使って過去と現在を行きつ戻りつする自己探求の旅は『暗殺のオペラ』で始まり、『暗殺の森』で一気に加速した。
時代に翻弄される者たちは快楽に身をゆだねざるを得ない。彼ら彼女らを包みこむ衣装、そして意匠。主人公にやがて訪れる喪失が巨大であればあるほどスタイルとデザインは美しく派手なほうがいい。来るべき恐怖の時代を前に一層輝きを増すアール・デコと止まらないデカダンス。映画の端々に匂い立つエロティシズムは女同士がタンゴを踊り始めた瞬間急速に収斂し、その恍惚は一分三十秒に及び、やがてパリ市民たちを巻き込んでのファランドールの渦へと発展する。暗殺決行前夜のダンスホール(原作ではレズビアンのクラブ)での享楽的で温かな雰囲気(原作での四人はギスギスしている)はこの映画の白眉であり、女性二人によるタンゴは『暗殺の森』のキーヴィジュアルとして映画史の至宝となった。
このシーンの撮影に使われたのはマルヌ川の畔にある一九一八年創業の「Chez Gegene(シェ・ジェジーヌ)」。パリの郊外で発展した「Guinguette(ギャンゲット)」と呼ばれるダンスホール兼レストランの様式はキャバレー文化華やかなりし一九二〇年代に隆盛を極めた。六〇年代以後ほとんどのギャンゲットは姿を消してしまったがシェ・ジェジーヌは現在でも営業を続けており、『暗殺の森』の舞台となったことを誇りにしている。
 

暗殺へとひた走る車中、順応主義者マルチェッロ・クレリチの躁鬱と揺らぐ決意の隙間で記憶が次々とフラッシュバックする。忌まわしい少年期の悪夢、ファシスト党への忠誠、プチブル娘との結婚、新婚旅行を装った暗殺計画、そして教授夫人との愛憎渦巻く昨日。
自動車を時間移動装置として用いたベルトルッチ自身による脚本はアカデミー脚色賞にノミネートされ、時間軸を跳躍する話法は『1900年』や『ラストエンペラー』にも採用された。
 

■メイド・イン・USA

ベルトルッチが「『地獄に堕ちた勇者ども』(1969)のような作品を作りたかった」と語った通り、マンガニエッロとマルチェッロが会話を交わしながら展開する車中シーンは件のヴィスコンティ作品冒頭で見られる車での移動シーンに酷似している。
かつて活発化していたネオ・ファシズム運動を背景に、第二次大戦下の頽廃をノスタルジックかつスキャンダラスに映像化する流行が映画史にあった。ヴィスコンティがナチスとブルジョワの腐敗臭ただよう甘い関係を描き、ベルトルッチがファシズムに傾倒する中産階級を標的にした後には、ボブ・フォッシー『キャバレー』(1972)、リリアーナ・カヴァーニ『愛の嵐』(1974)が続いた。ベルトルッチの盟友である大島渚が発表した『愛のコリーダ』(1976)もまた『暗殺の森』と同じ時代の官能を描いていた。
 

そして『暗殺の森』の非凡なヴィジュアルは、その後の映画作家や撮影監督たちに多大な影響を与えている。
『ゴッドファーザー PARTⅡ』にガストーネ・モスキンが呼ばれたことは先述したが(撮影現場でのモスキンはスタッフたちの人気者だったという)、同作の終盤ではマイケル・コルレオーネの邸宅を捉えるショットで地面の落ち葉が風に舞う演出も見ることができる。さらに、コッポラがストラーロと組んだ「父殺し」の物語『地獄の黙示録』でウィラード大尉とカーツ大佐の初対面を暗がりに設定したのは、マーロン・ブランドの肥満を隠すためだったとは言え、やはりマルチェッロとクアドリ教授の書斎での対話シーンをヒントにしたのではないだろうか。
『ブレードランナー』(1982)のリドリー・スコットと撮影のジョーダン・クローネンウェスもまたブラインドを通した光演出の参考にしたことを認めている他、ピーター・グリーナウェイ『建築家の腹』(1987)やコーエン兄弟『ミラーズ・クロッシング』(1990)といった作品にも影響が見て取れるが、誰よりも『暗殺の森』へのリスペクトを公言しているのはポール・シュレイダーだろう。
シュレイダーは『アメリカン・ジゴロ』(1980)のクランク・イン前に撮影監督のジョン・ベイリーと何度も『暗殺の森』を見たという。その成果はブラインドが作る縞模様が妖しく影を落とす室内シーンに活かされており、シュレイダーとベイリーのコンビは一九八五年の『Mishima: A Life in Four Chapters』(日本未公開)でもこの手法を採用。さらに落ち葉が舞うショットを「金閣寺」のパートにおいて再現。しかしそのルックよりもこの映画の構成——自邸からクライマックスである市ヶ谷までの車移動の最中に三島由紀夫の人生と作品の映像がインサートされる——そのものが『暗殺の森』のそれをベースにしていると言える。
 


(この続き、この作品が実はベルトルッチによる「ゴダール殺し」の映画である、という解説は、『暗殺の森【4K修復版】 UHD+Blu-ray』(品番:TCBD-1401 発売元:WOWOWプラス 販売元:TCエンタテインメント)封入のブックレットでお読みください。
 
 
小野里 徹(POSTER-MAN)
1965年生まれ。海外版オリジナルポスター、ロビーカード、スティルなどの紙資料を収集する映画偏愛家。鎌倉市川喜多映画記念館、国立映画アーカイブの企画展示や、ギャラリー展示「アンナ・カリーナ 永遠の『気狂いピエロ』」へのコレクション貸し出しの他、「映画秘宝」への寄稿、「別冊映画秘宝 ブレードランナー究極読本」(洋泉社)の編集・執筆などの活動履歴を持つ。

★『暗殺の森【4K修復版】』をシネフィルWOWOW プラス公式YouTubeにて4月12日(金)21時から2週間限定無料公開
https://youtu.be/TPLfvZivBJY?feature=shared
 
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