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アイヌ人の同級生

カナダの先住民の歴史を見ていると、日本でもあったアイヌ民族に対する同化政策を思い起こす。
私は北海道出身だが、アイヌの友人は一人もいない。私の世代は表立った差別こそなかったが、アイヌ文化に関する教育は「シャクシャインの戦い」や「コシャマインの戦い」ぐらいで学校ではほとんどなかったと記憶している。

「アイヌ」という人たちがいて、開拓の時に協力してもらった、と郷土の歴史で習った。でも、そのアイヌの人達は、一体どこに行ったのだろう?北海道では、道東や日高の方に多い。我が家の出入りの電気屋さんはアイヌ民族で、その地域のアイヌのなかの有力者といった程度の知識と関わりしかなかった。その電気屋さんは子どもからみても、ものすごくイケメンで、彫りが深くて草刈正雄に似ていた。今思えばそれがアイヌに多い風貌だったのだ。

私の住んでいた道南地方は、東北地方の士族が開拓した地域だったので、開拓の歴史は学校で習うけれども、そこに住んでいたアイヌの人たちがどうなったかは習うことがなかった。実際、アイヌの人の家や生活用具などは「博物館」などの展示施設でしか見ることはなかった。

ところが、大人にになって初めて母から
「◯◯さんと〇〇さんはアイヌだよ」
と教えられた。自分の同級生や近所にアイヌがいるとは全く思いもよらなかったので驚いた。彼らの家は農家だったり漁師だったりしたがみんな普通の家に住んでいた。なんでも、子どもに教えるといじめるので誰も教えなかったのだそうだ。だから、わたしたちは子供の頃いじめたりいじめられたりしたけれど「アイヌ」という理由でいじめられている子はいなかったのだ。クラスメートの誰も知らなかったに違いない。なぜなら、そのアイヌだという子は臭いがするということでいじめられていたのだ。彼女からは魚の燻製のような匂いがいつもしていて、今思えば自宅に囲炉裏があって、燻製を作っていたのかもしれない。アイヌだって知らなくてよかったと思う。絶対いじめてた。アイヌだからいじめるという理由はないんだけど。

アイヌは、今でこそ堂々と「自分はアイヌです」という人もいるけれど、私が育ったころはそういう人は全然いなかった。高校の友だちなんかは、アイヌが多く住んでいる地域に住んでいたので「アイヌだ」といじめられたといっていた。なので、アイヌの人は自分はアイヌだと言うこともなく息をひそめるようにして暮らしていたのかもしれない。

実際、内地(ないち:北海道の人は、北海道以外の地域をこう呼ぶ)出身の人とアイヌは見分けがつかない。これは、カナダの先住民がモンゴロイドだったので後からやってきた白人とは見た目が全く違っていたことと事情が異なる。しかも、和人は鎌倉時代頃からすでに蝦夷地の南の方に居住していたので、一部では混血も進んでいたらしい。なので、必ずしも身体的な特徴でアイヌと本州人を区別できないのだが、一般的に彫りが深くて目が大きくて二重まぶたの外人顔をしている、というイメージだ。本州出身の父は北海道で教師をしていたが、母に「クラスにすごくきれいな生徒がいる」と話したことがあったそうだ。その子がアイヌだった。本州出身なので、アイヌを見たことがなかったのだ。ところが、私の父も彫りが深くて西欧人のような顔立ちをしていた。実は、東北地方にはやはりアイヌのように彫りの深い人達が多く住んでいる。要するにそういうことだ。日本列島人は、南北に行くほど顔が濃いだけの話。せっかく彫りの深い顔の父親を持ったのに、「平たい顔族出身」の母の遺伝子が強かったために、私はすっかり平たい顔族へ・・・なったのは余談です。

そういうわけで、私の育ったコミュニティには、アイヌにルーツを持つ人達はいたが、いわゆるアイヌの伝統的な暮らしをしていたわけではない。全然、私達とかわらなかった。
アシリパちゃんみたいな服は着てないよ!

母の世代ではどうだったか。
学校では、先生たちがアイヌの生徒を差別したりいじめたりしていたそうだ。母の育った地域では、アイヌの子も和人の子も同じ学校に通っていた。しかし、母の学校にはアイヌ出身の先生がいたそうだ。その人は、有名な知里幸恵さんの兄弟で、後に学者になった知里真志保さんだ。知里家は、アイヌの中でもエリートだったらしく和人にも尊敬されていたらしい。

アイヌの同化政策に関しては、詳しくは知らない。
しかし、和人と同様、徐々に西欧化して現在に至るという感じがする。
というのは、明治維新後大量の和人が北海道に渡って、アイヌの土地を開拓し始めた頃、和人もまた近代化するために、ちょんまげを切り、洋装して、西洋から入ってきた文化や概念(主にキリスト教的思想)を取り入れていった。アイヌにも同様のことをさせたのだ。

アイヌの同化政策に関しては↓ ウポポイ(国立アイヌ民族博物館)のWebsiteにわかりやすいものあり。

差別や先祖伝来の土地を取り上げたという経緯はあったものの、子どもを引き離して寄宿学校に入れたり、連れ去って養子にしたりという組織的な動きはなかったようだ。

アイヌ文化の継承に関しては、もともと人口もかなり少なく今ではネイティブスピーカーもほとんどいない。伝統的な狩猟採集生活を送るための、土地もないし、ゴールデンカムイで描かれたようなサバイバル技術も後継者や教育できる人もほとんどいないので保全が困難なのが現状だ。アイヌ博物館でも、外国人がアイヌ文化の説明をしていた。日本では、博物館や限られた場所での再現がやっとだ。国立博物館ができたことは素晴らしいが、もう遅いというのが正直な感想。あと、20年早かったら良かったのに・・・
開館当初の展示に関しては、突っ込みたい部分もあったがあれから3年経って変化があったかどうか。帰国した際に見に行ければと思う。

カナダの先住民居住区に関しても、漁はできても狩猟は難しいな、と思う。資源的な部分をみても、伝統的な生活を送ることはできそうもない。迫害や差別もあったが、住宅の供給や補助金の支給、進学の優遇など数々の保護も行われている。が近隣の居住区を見る限り、都市部から離れすぎていて通学や雇用の面で厳しそうだ。

自分とアイヌの関わりについて、覚えていることを書いてみた。
北海道に住んでいない人よりは、アイヌ文化は身近だけれど、私にはアイヌの友達はいなかったし、彼らの存在は希薄だった。積極的に残そうと活動している人はいるけれど、限定的であり多くのアイヌの子孫はすでに同化してしまった。

なお、私は縄文時代を研究していたのでアイヌって縄文人でしょ?と言われることがあるが、同じではない。アイヌも和人も縄文人の流れはくんでいるといわれているけれども縄文時代から2000年以上経っている。日本列島に住んでいた人たちは、中国大陸や朝鮮半島シベリアや樺太などの北方文化、台湾、琉球などの南方など様々な地域からの影響を受けて変化し続けている。近世アイヌは鉄器も漆器も使っていたし、交易によって中国大陸の物品も手に入れていた。土器や石器だけで暮らししていたわけではない。私達をみても、100年前200年前と同じ暮らしをしているかと言えば、そうではない。着物も着なければ、機織りもしない。農業も猟もできない。私達が縄文人じゃないのと同様にアイヌも縄文人ではない。


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