恐れ回避型 愛着障害①

ある人と出会って
私は私の中にある
歪みを目の当たりにしました。

それを治すべく、「愛着障害」というものを
学びだしました。

そのまとめ、記録として 文字で残しておきたいとおもいます。


母は、不安定な人でした。
覚えているのは、3歳前後の記憶で。
母と母の実家で暮らしていました。

母はいつも、私を自分の上に抱いて寝ました。

ある日、父が迎えに来たのですが

祖父母は 不思議な表情をして
玄関の父と迎えに出た母を見ていました。

あの不思議な表情は「不信感」でした。
その表情と 祖父母と両親の距離感に違和感を
覚えたので、記憶としてしっかり残っています。

その日から、小さなアパートで3人での
暮らしが始まりました。

母と父はいつも大喧嘩をしていて
たまに父は母に、手をあげます。

かと思えば、身を寄せ合うほどくっついて
私の存在など無いような空気感。

激しい喧嘩の後、父は出ていってしまいます。

普段、私を抱きしてない母が
私を力いっぱい抱きしめます。

背中が痛いけど、泣いてる母のことを思えば
我慢するしかありませんでした。

母は、自分が不幸な時しか私を抱きしめませんでした。

ほぼ、毎日 父と母の2人の世界で回っており
私は息を殺すように 過ごしました。

崖下に落ちたら 死ぬような所で
両手を持ってヘリコプターのように
振り回されたり
記憶はありませんが、腕が抜けたようです。

これは記憶にありますがダムの橋からダム下に向かって腕一本でぶら下げられた事。

私はこの頃に覚悟というものの根源を知ったんだと思います。

叫ばない、暴れない。
落ちたら死ぬから。
万が一、落ちた時に死ぬ覚悟。
痛いだろうことへの覚悟。

父は些細な子供の私の間違いや言動に
激しく 暴力、閉じ込め、暴言を
吐きました。

母は、見えないふりをしていました。
3日に1度はあったと思います。

自分は、声を殺して目立たないように
生きました。

車で出かけていて、寝てしまって。
起きたらふたりが居ない。

探しに出てもきっと怒られる。
私は仕方なく待つことにしました。

帰ってきた2人に ラーメン食べてきたと。

普通のことなのかも知れませんが

「いらないこどもだからね」との思いが
どんどん積み重なりました。

小学生にあがり、母は看護師をしておりましたが
カタカナの勉強で 「へ」が分からなくなったことがあり

母に聞くと。

「は?普通にへってかけばええんや」と。

((わからんからきいてるのに…))と思うのですが

それ以上、聞く勇気はなく。

2時間机に座って 硬直。

ドラマを見終わった母が近づいてきて

「は?あんたまだやってんの?あほちゃう!」と叫んで
「へ」と殴り書いて 向こうに行ってしまいました。

叩かれないで済んだ。

自分の頭の悪さにウンザリします。

勉強もわからないまま、聞く勇気がなく。
先生にも聞けなくなりました。

2年生の担任だった 神谷先生。

図工の時間に、クレヨンで絵を描いてる時に
先生が私の横で止まり

いきなり、私の腕をつかみ立たせました。

とっさ的に怒られる叩かれると思ったのですが

私を立たせて、先生は
「クレヨンの先についた他の色を、反対の手で拭き取ってから絵を描いてる!すごい!」と
褒めてくれたのです。

生まれて初めて褒められました。

厳しい先生でしたが 私を多分よく見てくれていたんだと思います。

ある日
学校から古切手を集めて下さいという手紙が来たのをうっすら覚えていて。

父と2人きりの会話の無い空間が苦痛すぎて
その話題を出しました。

良い子の振りをするために その話題を出したのです。

父は古切手を集めてくれましたがもう提出期限は過ぎていて

私はそれをそっと自分の勉強机の引き出しになおしました。

年末の大掃除の日に

その古切手を見つけて、そっとゴミ袋に入れたのが
父にバレて。

この日は、投げられ、蹴り飛ばされ、顔面までボコボコになりました。

次の日も体中痛かった。

学校に行くと先生が 昔の祖母の表情を浮かべ
「ソレどうしたの」と。

「こけた」と答えました。

問題にはなりませんでした。

父は警官だったので。

神谷先生は母に

この子が国語が弱いのはお母さんが本を読まなかったからです。

上靴が小さくてかかとを踏んで使ってますが
気づいてないのですか?

など、遠回しではあるものの
言ってくれていたみたいです。


上靴、消しゴム等、必要なものでさえ
私は要求出来ませんでした。

顔面ボコボコで帰宅すると、父と母が身を寄せあい楽しそうに話をしていました。

机の上には たくさんのお菓子。
母「どーしたんこのおかし」
父「ぱちんこや」

父は私の方を見て
満面の笑みで 俺は子供相手にでもきちんと謝ることができる大人なんだよとでも言いたいかのような顔で

「昨日はやりすぎたわー
ごめんなーWww
おかしやるわ」と。


私は返答せず、お菓子にも手を付けませんでした。

謝ったら終わりなのか、謝るならするな。
買ってきたのならまだしも、パチンコで貰ってきたんかいと。
内心思ってましたね。

3年生になって母が仕事を辞めて
弟がお腹に出来ました。

私が3年生になるまで共働きだったのは
父は妻帯者で、母とは不倫で、奪略婚だったために
生じた慰謝料のせいだったらしいです。

弟がお腹にできて。

今でも1番衝撃的で私の中に残ってしまった一言を母に言われたのですが

無表情で 私に
「あんたは、しっぱいさくやから、この子からはちゃんと育てるわ」。

私の中で いらない子供の上に 出来損ないという
レッテルも追加されました。

母のお腹が目立ち出した頃に
母が座ろうとした場所に
母の財布があるのに気づき
とっさ的に私は少し
母のお腹を押してしまったことがあります。

「あっごめ」といいましたが
「しね」と言われました。

母は、その通り、弟から下はきちんと母たちの輪の中にはいろうとし、幼児教室に通わせ
普通に育てました。

母と父と弟たち(弟、妹、弟、弟)6人での家族が出来上がってました。

私は人との距離のとりかたが分からない子供になってしまいました。

友達というものが理解出来ず、孤独でくらい子供でした。

大人になってから近所の子に
私の最初の印象は 暗い、喋らない  だったと聞きました。

それでも中学入ってからは
底抜けに明るい、人懐こい友人のおかげで
一人ぼっちはマシになりました。

ですが、やっとできた友人関係も
 私は咄嗟に嘘をつくことで無くしてしまいます。

友人に嫌われたくないが故に 取り繕う嘘をつくが見抜かれる。

信用を無くすを繰り返します。

いつも、人は 居なくなるもので信用して
拠り所にしてはいけないと学びます。

中3からは 自分を守るために 気がキツイ一面を身につけたんだと思います。

いじめを繰り返し

人を孤独に貶めるのを趣味とし
周りが自分に逆らえない状況を作ろうとします。

ですが、普通の家で育った子は
こんな私に 怖気付くことも無く
自由で、両手をめいいっぱい広げれ
明るい毎日を送っているように見えました。

高校は、親に選択権を与えられず
家から歩いていける私立に入りました。

同級生に夏でも長袖の どこか影のある女の子がいました。

その子の後ろの席で 私は常に寝てるのですが
ふとその子の腕を見るとリスカの跡だらけ。

きっともっとヘビーな状況でこの子は生きてるのかと思いました。

「そんなことしたらあかん」と声をかけました。

いきなり、喋ったこともないふざけた生徒の私からそう言われた彼女の目は泳ぎ 走り去っていきました。

もっと、ゆっくり寄り添うべきだったと反省しました。

高校では後に長年の付き合いになる
先生と出会いました。

初めて、向き合って話を聞いてくれる人でした。

恋愛感情ではなく、私はこの先生が大好きでした。
当時の彼氏より大好きでした。

一応私もませた女子高生なので
どうして手を出さないのか聞くと

好みじゃないとか ガキ臭いとか言われるのかと思えば

「やってしまったら関係の終わりが来る。
俺はお前から学ぶことが多いと思う。
やってさよならより、学びを選ぶ」と。

私なんかから何を学ぶのかと不思議でしたが
存在を認められたような気持ちになりました。

この人の近くにはいてもいいんだと。
思いました。


ですが、ある日 この先生は中国に留学すると
学校を辞めてしまいました。

家では、金がない 金がないと 父に毎日家で言われましたし

もともと勉強は全くできず、行きたくもなかった学校だったので辞めました。

当時、薬で2どの服役履歴がある彼氏と付き合っておりました。

私はこの人に同情していたのでしょう。

1度、この人の母と3人で喋っている時に

「この子はな!避妊リングを入れてたのにできた子でな!医者にリングを外したら奇形になるかもしれないと言われたのに外して産んであげたんやで」と本人の前で ドヤ顔で言っちゃうような母親でした。

その場は、笑って誤魔化しましたが
2人に戻った時に どうしようもなく抱きしめました。

学校を辞めて、この子の家に転がり込みましたが
半年程度で
私と喧嘩して やめてた薬に手を出して
また服役。

私は1度、半年~1年振りに実家に戻りました。

私の部屋はもう無く、
父は警官だったので
彼氏のことで私が取り調べを受けた件について
降格しておりました。

父は、攻めませんでした。
殴りもせず、怒鳴りもせず。

男性の仕事に傷をつけてしまったことの反省は私にもあり
その部分については
土下座して謝りました。

「1人で暮らした方がいい」と、親に言われ
隣駅の4畳半の部屋に移り住みました。

お金がそこを尽きて、スーパーで
唐揚げ粉と鶏肉を万引きしたのが見つかり
母を呼ばれました。

万引き犯の人たちも
ぱくった商品を見て
絶妙な表情。

母は、何故か
お腹すいてるなら帰ってきたらいいのにぃ!と叫びました。

すっかり、私には実家に顔を出すなんて選択はありませんでしたので

は?というような感じでした。

そうこうしてるうちに
なんぱされ、とんとんと結婚。

結婚した相手は7つ上の上場に務める
1級建築士を目指す人でした。

親は、思ったよりまともな人と結婚したと喜び安心したのでしょう。





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