【算命学】宿命と自然、について学ぶ。
算命学は「自然思想」をベースにしている。
初期に学ぶ、算命学の大切な礎となる部分でしたが、後戻りしてみてふと気づく、体得することもあるという…(^◇^;)
人間も「自然」物のひとつとして、カウントするということ。
だから「自然のまま」「ありのまま」で、過ごしたら良いのだと。
教材では、自然のままから遠ざかるほど、宿命から外れ、大きな事柄で気付かされることになる、とあります。
たとえば、その人の財運は決まっているのに、それ以上の富を手に入れてしまった時の、没落など。。没落によって、自身の本質を知る。
たしかに、そのままで生きることは、難しいけれど、何が難しくさせるんだろう?と考えました。
上記のような宿命以上の何か(大金を掴むなど。それも宿命のひとつなのかもですが…)が起きた時、自分を見失う、ということかな、と思いました。
さらに人の目が、自分のカンを鈍らせたり。。
だけど、自分を自然のままと例え、人の目を捉えていったら、見える世界が変わって来るのかも。
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簡単にいうと、ブレない、自分軸を定める、ということ。
私の場合は、自分を敵、ライバルと見立てて、昨日の自分よりできるようになる、という、ともすれば、ストイックなやり方を好みました。
おそらく、そのような内容の記事を読み、違う記事でも、そのように読み解いたと思います。
でも、苦しみがあるだけで、それ以上の発想がない。
どれだけ自分をしごいたり鍛えても、自分軸が育たない気がしました。簡単に、自分らしくない、のだと思います。
もしくは、自分らしさには、もうひと工夫、ひと手間のアイディアが必要なのかも、
もしくは、それをする刻は、過ぎ去ったのかもしれません。
新しい発想の転換が必要と感じました。
算命学を学び直し、「休む女」が、自分の要素の一つにあるなら、自分の本質は、休むことも大切だったり、休むために戦うことだって、あるのかもしれない、と思えるように。
「休む」ために人を動かしたり、「休んで」視野が広がれば、碁盤の目に人を置いて、静かに戦略を練ることも大切かもしれません。
いったん「休む」というところに主軸を置いてみる、こんなことすらも、動くことがベースと思っていると難しいことです。
休むことに罪悪感があって、それも驚きました。
気のかたちが「山」なら、動かざること山の如し。でも最近は気候変動で、地滑りだってある。自身に地滑りが感じられた時、どうしたらよいか? 自然の様子をよく見ることに、ヒントがある。
木剋土なら「自身はどういう木、植物を育てるか」で、土の養分をとっておくのも良い。園芸屋で、肥料も買える。いっけん「ゴミ」と思うものがコンポストで肥料になるかもしれない。
高尾山で、木がむき出しになった、荒れた山肌を見たら、それはなぜかと。来場客が多いから。
もしそう思ったら、少し人からは距離を置く。
占いは、たくさんの占術、占法、膨大なシソーラス、過去の偉人、市井の人々が残した知識、知恵が膨大にあると感じます。
そこから自分の発想をまた、肉付けしていく。
発想の転換、人生のヒントが満載で、なかなか次の教材まで読み進めませんd(^_^o)
素敵な夜を!