(かなり私的な)スケーターの世界について
ドラマや映画そのものではないけれど、これまでに観た映画と関連する話題について少し書こうと思う。スケートボードの世界の話だ。
東京オリンピックは、セレモニーも競技も何一つ見ていないし結果もほとんど知らないが、今回正式種目になったスケートボード競技で日本人選手が活躍したことはネットニュースで見た。堀米雄斗選手である。
自分ではスケートをしないし(というかできない。もっとずっと若い頃にできるようになっておけばよかったと常々思っている)、競技の情報を追いかけることもないが、スケートボードという遊び(あえてこう言います)と、スケーターたちに関心がある。
それについてはこの記事で少し触れた。
そういうこともあって、金メダルを獲った堀米雄斗選手についても興味を持ち、ネット上に散見するエピソードをいくつか読んでみた。
全てネット上の情報であるし、それについて真偽のほどを確認してはいないが、人物や境遇がやはり興味深く、時間を忘れてネットサーフィン(この言葉は今でも通用するのだろうか)してしまった。
堀米選手を巡る状況は、上に引いた過去記事で紹介している映画におけるスケーターたちのそれとは、大きく違っている。これは予想通りだ。
堀米選手は、最初は父親であり自身もスケーターである涼太氏に連れられてスケートを始めたそうだ。これは、日本の子どもたちが、たとえばサッカーや空手やピアノやバレエを始めるのと同じような感覚だと思う。それに対し映画の中の彼らは、親に連れられて何かを習い始めたりするような境遇にない。意識的にしろそうでないにしろ、むしろ親から離れた所に居場所を求めるような思いでスケーターたちの世界に入っていく。スケートを始めるというより、スケーターたちの世界に入っていくのだ。
これが実に不思議なことなのだが、一見違って見える“堀米選手のような人たちが属するスケーターの世界”と“スケーター映画(仮にそう名付ける)に見るスケーターの世界”は、分断されているようでいて実はそうではないのではないかという気がしてならない。堀米選手にまつわるエピソードを読んでいて、改めてそのように感じた。そして、それだからこそ私はその世界に惹かれるのかもしれない。
父親の涼太氏は、最初こそ堀米選手にスケートを教えたが、その成長につれて指導からは手を引いている。その後堀米選手は国内のプロ選手の手に委ねられた。この父親の引き際は見事だ。これは涼太氏個人のキャラクターによるのかもしれないが、私はここにスケーターの世界に通底する世界観のようなものを感じる。それは年齢や境遇を越えたフレンドリーな繋がり、ブラザーフッドやシスターフッドのようなものである。
親や教師といった固定的な教育者から固定的な方法で学ぶのでなく、単に上手な人から学ぶ。上手な人は学びたがっている人に教えてあげる。あるいは技を見せてあげたり、ただ一緒に過ごすことで学びをもたらす。そこにはブラザーフッドやシスターフッドの根底にある“ただの親切心”みたいなものがまずあって、人と人との繋がり合いの中の一つの形として学びというものがある、というような気がするのだ。これは他の、たとえば(日本の)野球などとは全く違った世界である。
堀米選手は、高校卒業とともに本格的にアメリカに拠点を移したが、高校一年生の時に一度留学している。その際、ロサンゼルスに住むフィルマー(スケーターの映像撮影者)鷲見知彦氏にInstagram経由で連絡を取り、数ヶ月泊めてもらった、というエピソードも、私が持つ世界観のイメージを強化する。フィルマーも含むスケーターたちの世界には様々な垣根が存在しない(か、あっても低い)のだ。
ちなみに鷲見氏の作品の一つがこちら。
年齢、境遇どころか国や民族といった隔たりすらスケーターの世界にはない。ただそれぞれのスタイルを持ったスケーターが存在するだけだ。だから複雑な手続きなしに繋がり合える。そして、そういうフラットな関係だから互いにリスペクトしあえるのである。
もしかしたら私は彼らの世界を理想化しすぎているかもしれない。外側から、遠くから眺めているだけに過ぎないから、間違った認識をしていてもおかしくないとは思う。
私は他者と、年齢や境遇、国籍や民族、性別や立場などに関わらず、個人対個人のフラットな関係を築きたいと常々思っていて(というか、そういう風にしか他者を見ることができない。肉親に対してすらそうだ)、それが簡単にできない社会は疲れるし生きにくいと思っているので、スケーターたちの世界に勝手に理想を見てしまっているのかもしれない。
少なくとも“日本の普通の会社員(私のことだ)が生きているような世界”よりは理想に近い世界にどうしても見えてしまう。そしてあの“特別な乗り物”に乗れない自分を恨めしく思うのである。
堀米選手は、ボードに乗る以外にトレーニングはしないそうである。また、スケートについて、競技と遊びでは遊びの感覚の方が大きいと言っていた。この二点を知って、ますます好感を持った。全く正しい。そのまま続けて行って欲しいと思う。
そして、スケートボードがオリンピック競技になり、コンテストが試合となることで、スケーターたちの世界が変な風に変わってしまわないことを切に願っている。
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