”女装”する理系男子大学生と「かわいい」の実践

私がかつて在籍していた電気通信大学には、ミスコンがあった。ミスコンと言っても、出場するのは男性だ。出演者は女性らしい服装やメイクとともにパフォーマンスを行い、観客は良かったステージに投票を行うというスタイルが中心で、ほかに写真映えも含めて票をあつめる写真部門もあった。おそらく女性率が10%代前半という理系単科大特有の環境ゆえにこのような形態になったのだろう。単純に容姿の「美しさ」で競うミスコンとはかなり趣の異なるイベントである。以前見たのが4年前なので詳細な記述ができるほどの記憶がないのだが、Googleで検索すればブログや地元紙等に断片的に開催の様子が紹介されているので具体的な内容が知りたい方はそちらを参照してほしい。

実はこの電通大ミスコン、コロナ禍以降中止になり学祭が対面開催可能になった今でも復活していない。私は当事者ではないのであくまで又聞きだが、大学自体が男子学生の異性装を含むイベントについてかなり強硬な対応を取っていて問題化すべきという話も聴く。本記事であえてこのようなセンシティブな話題を取り上げたのは、おそらく失われゆく特異なカルチャーの存在を書き残すと同時に、それが持っていたかもしれない可能性に光を当ててみようと思ったからだ。

”女装”というセンセーショナルな響きは本質ではない

性別に応じた容姿の規範が別に存在する今の社会で、「男子学生が”女装”をする」というのはセンセーショナルな響きをもつ。確かに知らない人にこのイベントを紹介するときはそういう説明になりがちだが、果たして出演者の意識も含めた実態としてそうなのだろうか。私の身近な当事者は「かわいい服が着たい」とか「かわいい姿を作り出したい」という気持ちがモチベーションになっていると話すことが多い。出演者のブログを読んでいるとステージパフォーマンスも力を入れるので、そちらを楽しみにやっているという側面もあるようだ。また、参加者の中には自らのジェンダーアイデンティティに基づいて戸籍上男性だが女性らしい装いをしている人(聴いた話でしかないのでどのようなカテゴリに入るかは知らないし、カテゴライズすることに意味はない)もいたことは書いておくべきだろう。少なくとも「男子学生の悪ノリで”女装”してやった」みたいな人は(私の観測範囲では)主流ではない。もっとも、学生時代も熱心にこのイベントを見ていたわけではないので断定はできないところだ。

参加者のほとんどが、普段は男性装をする男性であるため、ミスコンで発表する姿はメイクや衣装によって作られる。ステージパフォーマンスや撮影技術も含めひとつの「作品」を作り上げるような意識で参加しており自己表現の場として機能していたといえるだろう。また、この社会では性別に応じた容姿に対する異なる規範が存在し、男性が可愛らしい格好をして街を歩くと好奇の目にさらされることになる。そんな中、ジェンダーアイデンティティが男性であってもかわいい格好をしてみたいという人に対し、このイベントは年に一度その口実を提供する役割も果たしていたのである。電通大ミスコンにおける表現は常にジェンダー規範の問題と隣り合わせであり、その間での葛藤が少なからず含まれていたといえるだろう。

KAWAIIカルチャーとの類似性

ここで、男性によるかわいいの実践についての事例として、原宿発の「KAWAII」カルチャーについてみていきたい。日本で有名なところでいえばきゃりーぱみゅぱみゅを想像してもらうといいだろう。国内でポップシーンに現れたのは一時的であったが、海外にも広がり今なお根強く生き残っている文化だ。「KAWAII」カルチャーの中心地で活躍している増田セバスチャン氏がPLANETSのYouTubeチャンネルでしている解説は短くまとまっていて初めて触れる人にもわかりやすい。(私は詳しくないので歴史や表現についてあまり解説はできない)

この動画の中で、増田セバスチャン氏は、KAWAII文化は「ロリータファッションのような様式美ではないので正解がなく、様々な文化で自分たちの表現として取り入れている」「セックスアピールと結びついたギャル文化と対称的で自分に向いている」ことを指摘している。例には中東や南米といった海外が挙げられているが、当然ジェンダーの面でもボーダレスになっていて、実践者には男性も存在する。ほぼ日刊イトイ新聞で増田氏の運営するショップ「6%DOKIDOKI」をフィーチャーした記事で、アトリエのマネージャーの北村美佳氏は、コロナ禍になってはじめた世界中のKawaiiを実践する人とZoomでやり取りをする「Kawaii Tribe Session」を通してKAWAIIのジェンダー越境性を感じた話をしている。

最初、画面に映っている子のジェンダーがわからなくて、
「He」なのか「She」なのか「They」なのか……

(ほぼ日刊イトイ新聞,2021)

Kawaiiの子たちって、
自分のファッションやジェンダーに対して
ちゃんと意思表示してくれるので、
プロフィールに書いてあったり、
自己紹介してくれることも多いんです。
Kawaiiがジェンダーの垣根を超える感じは
昔からありましたけど、
「Kawaii Tribe Session」を通じて
あらためてそれを強く感じました。

(ほぼ日刊イトイ新聞,2021)

重要なのは「KAWAII」は自己表現であり、ボーダレスな実践だということである。日本で生活する上で一般的につかわれる「かわいい」という語彙と「KAWAII」はかなり離れた概念だ。しかし、アンダーグラウンドな文化の特定の様式を真似ることは必要なく、自分が「KAWAII」と思うものを追求することこそが「KAWAII」を実現するのであり、「KAWAII」の実践に体系的な知識は必要ない。電通大生の大半は縁がなさそうな原宿ストリートファッション発のカルチャーだが、思想の部分ではミスコン出演者が共感する部分も多いのではないだろうか。

正しい批判と代替案を考えてみる

最後に、もし仮に再びミスコンを開催するならどのような形がありえるかという思考実験から、電通大ミスコンが持っていた問題と可能性について考えたい。

一般的なミスコンの問題点やそれを克服するための実践について、ジェンダー理論を専門とする高橋幸氏が上智大学のソフィアンズコンテストを例にわかりやすくまとめている。

この記事では、今日のミスコン/ミスターコン批判の根拠にあるルッキズムの問題について、高橋氏は広すぎる意味をもつルッキズムという言葉を「画一的な基準で人の外見を判断すること」と定義して論じている。

電通大ミスコンは男性が女性装をして出演するので単純な性的魅力による評価とは少し違う点や、メイクや衣装だけでなくパフォーマンスや撮影技術によって演出された「かわいらしさ」という自己表現重視の評価である点において、既存の画一的な「女らしさ/男らしさ」イメージを強化する力は一般的なミスコン/ミスターコンと同じ形で持っているわけではない。だが、同時に持っていないとも言い切れない。その理由は、女性が参加できないというルールと男性が女装をするという認識である。

男性が、一般には女性のみがするとされているかわいい格好をすることはジェンダー化された見た目に対する規範を破壊する力を持っている。しかし、それを「男が女装するイベント」と認識されている枠の中でやるとその意味は変わってくる。高橋氏が取り上げている「男性はお金を稼ぐ力によって、女性は性的魅力によって、人間としての価値が決められがちであるという性のダブルスタンダード」があることを踏まえると、イベントを「社会の中で女性に割り当てられたかわいい格好をすることではじめて自己表現として認められ評価の対象になる」と読めばむしろその規範を強化する力を持っているといえるからである。出演者が求めている「かわいいの実践」は、本来「KAWAII」カルチャーのようにボーダレスなはずだが、イベントの枠組みが一般的なミスコンとは違う形で無理矢理ジェンダー化させてしまっているという状況がある。このことは、正しく批判の対象になるだろう。

つまり、実際に求められているのは特定のジェンダーと結びつかない形で、ジェンダー規範にとらわれない自己表現が可能なイベントだということだ。ただ、誰もが参加可能でどのような格好をしてもよいイベントだからといって問題が全くない訳では無い。高橋氏はソフィコン改革について、性別や性指向の違いなどをあたかもないかのように扱うだけではジェンダー公正な制度へと改善されていくことはなく、例えば(女性のほうが外見的魅力で評価される社会ゆえに)男性出場者が不利になったり男性参加者自体が現れずもとのミスコンに先祖返りしてしまう可能性を懸念している。しかし、男子学生が大半を占める偏った状況(理系大学の女性率の低さはそれはそれで問題なのだが)やミスコンによって醸成された自己表現として外見を演出する文化、創作系サークルが乱立するほどのクリエイティブで表現力のある学生の多さを考えれば、運営の配慮次第でイベントを成功に導くことができる可能性も十分にあるのではないだろうか。

ここまで「KAWAII」カルチャーやジェンダー論を引用して話を展開してきたが、特に若い世代であればこのような知識がなくとも倫理的な感覚としてこのイベントの何がまずいのか、どうするべきなのか考え妥当な案に行き着く可能性は十分ある。実際「UEC COLLECTION2022」というイベントの構想があり(このイベントは様々な”問題”から開催はされなかったようだ)、私が提示した対案とも一致している。

UEC COLLECTION2022 企画内容

この理系単科大で生まれた独自の文化が、社会によって与えられた「性別らしさ」を相対化し新しい外見的魅力のあり方を考えることのできるイベントとして成立するのであればぜひ見てみたい。
そして、議論の中で根拠ある批判をするのはよいが、力を持つものが性別によって服装を規制することの正当性がどこにもないことは再確認しておくべきだ。

参考文献
高橋幸,(2020),現代のミスコン/ミスターコンを、「ジェンダー論」の専門家はどう考えるか,(2023年11月28日閲覧,https://gendai.media/articles/-/74818?imp=0)
増田セバスチャン(2020)「いま(だからこそ)世界には「KAWAII」が必要  だ 」, Planets YouTubeチャンネル(2023年11月28日閲覧,https://youtu.be/YLPRceN9bYI)
ほぼ日刊イトイ新聞,(2021)「<第2回>Kawaiiの意味と、コロナ禍に出した宣言文」,ほぼ日刊イトイ新聞,(2023年11月28日閲覧,https://www.1101.com/n/s/parco_sebastian/2021-09-24.html)


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