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アニメ『スーパーカブ』を観ながら今を豊かに過ごす方法について考える

 年始からコロナにかかってしまった。今は回復してきたが、熱が多少下がったところでできることもないので、持て余した時間を使って気になっていたアニメを見ることにしている。面白い作品があれば都度noteに感想を書いていくつもりだ。

 今回はトネ・コーケンのライトノベルが原作である『スーパーカブ』について。2年以上前の作品で、当時それなりに話題になっていたので既に似たような感想は大方世の中に出尽くしていると思うが、今更ながら観て私もこう思ったということを書いていきたい。(※ここから先はネタバレを多分に含みます)

 美しくもどこか硬質で寒そうな印象を与える色味、ドビュッシーをはじめとするクラシックピアノの劇伴、言葉以外の描写で登場人物の暮らし向きの違いをはじめ多くを語る表現力など良いところは尽きないが、この作品の最大の魅力は「どう世界に接続したら生活が豊かになるか」という問題に真摯に向き合っているところだ。

 このアニメは第6話の修学旅行までの小熊がカブと出会って世界を広げる段階、第10話までの山梨の冬に適応していく段階、残りのカブで鹿児島へ春を迎えに行くまでの大きく3つに分けられる。

 小熊がカブを買ってから気づいていくのは、今までより遠くへ行けることと、快適に乗るためにはいくらか工夫が必要だということだ。そしてその工夫は、エンジン交換ができなくても改造で、シールドが買えなくてもホームセンターの保護メガネで代用できるように、高校生の力でギリギリなんとかなるレベルである。これはカブの高いカスタマイズ性があるからこそで、普通車や大型二輪ではそうはいかない。こうして、小熊はあくまで自分の手が届く形で北杜市から甲府へ、鎌倉へと行動範囲を広げていくことができた。

 一方で、既に知識も経験も豊富な礼子は、夏休みの間富士登山に挑戦していた。小熊にとっては甲府との往復すら新しい体験だったが、礼子は当然それでは満足しない。しかし、オフロードカスタムによって越えられない(が、越えられるかもしれない)壁である登山道と向き合い、カブが日常を少し拡張してくれる程度のものではない、はるか遠くまで世界を広げてくれるものであることをちゃんと示している。

 第七話からは少し方向性が変わっていく。秋を迎え少しずつ寒さが増していく中、もろに風を受ける原付乗りの二人は対策を考えなければならなくなった。ハンドルカバーにウインドシールド、チェーンを入手していくのは、世界を広げていくというよりは目の前の世界と深く関わっていく過程である。もちろんそれまでも冬の寒さは経験していただろうが、時速数十キロで走る山梨の冬はカブに乗って初めて知るものだ。妥協できること、妥協できないことを見極めながらあれだけお金がない、見た目がダサいと迷っていたウインドシールドを買ったり、椎との縁からニットを譲ってもらったりしていく中で、小熊はカブと、自然と、そして人とじっくり向き合っていくことになる。

 「世界を広げる」ことと「目の前のことと向き合う」ことのどちらか片方だけでは、このアニメは成立しなかったと思う。どこまでも遠くへ行きたいだけならならはじめからオフロード車や大型二輪を買えばいいし、日常を豊かな目で見るだけなら徒歩や自転車で十分だからだ。しかし、どうしてもカブでなくてはいけないのは、自分の手でチューニングすればはるか遠くへ行くことも近所を快適に走ることもできるからである。少し手を加えれば大抵のことはできるので、やりたいと思ったことがカブで解決できないかと考えるようになる。そうするうちに、自分のやりたいことにきちんと意識が向くようになる。これこそが小熊の一番の変化であり、礼子がずっとカブをいじり続ける理由ではないだろうか。だとすると、鹿児島行きの本当の意味は、「遠くに行くこと」ではなく「行きたいと思ったところに行く手段を作れると確信できる」ことだったように思えてくる。

 全体としてとても満足なアニメだったが、気になった点もある。修学旅行でこっそりカブを動かして、礼子と二人で鎌倉を走っているシーンである。小熊は「いつまでも走り続けよう、このスーパーカブと一緒に。」という。だが、それは本当だろうか。

 高校生にとって、カブは世界をどこまでも広げてくれるものに思えるかもしれない。しかし、大人になるほどその限界がよく見えるようになるはずだ。歳を重ね、地元で働けば普通車のほうが便利なことが多いだろうし、東京に出たら維持費や駐車場の無さから何も持たないほうが良いかもしれない。頑張れば大抵のことはできるが、どの使い方でも最適解にはならないカブをあえて愛用し続けるほどのこだわりを小熊が持っているとは思えないのだ。礼子はわざわざ改造してオフロードを走り、見た目のかっこよさというロマンのために防寒具を買うのを尻込みするほどのめり込んでいるし、モデルガンのような役に立たない趣味を楽しむことも知っている。ところが小熊はいつもあくまで「日常の移動を便利にすること」が先立っていて、その合理的な解決策としてカブがあったというだけだ。もちろん、その後長く乗っていく中でより愛着は湧いてくるのだが、アニメよりずっと先の世界の小熊にとってカブの影響力が相対的に下がっていくことはきっと避けられない。そうしてカブから離れることになったとき、今までカブが与えてくれた豊かさをくれるものは何になるのだろうか。

 そんなことを考えながら、ライトノベルも読まねばと思っているうちに、ふと評論家の宇野常寛がよくこの作品に言及していたことを思い出した。このアニメは観るつもりがあったので、関連する批評は読まないようにしていたのだが、積んでいた『2020年代の想像力 文化時評アーカイブス2021-2023』を開くとやはり文章が載っていた。どうやらライトノベル版はすでに完結しており、作品自体を読んでいないので私にはなんともいえないもののこのアニメにあった世界が広がるワクワク感を得られるような話ではなくなっていったようである。

 最近はGoogle検索ひとつでなんでも知ることができるし、SNSでリプライを送れば誰とでも繋がれるような気になってしまうので、私たちはすっかり世界との距離感がわからなくなっている。何だってできるようで、どうやっても世界は変えられないような無力感に陥ってしまう。この『スーパーカブ』的な、手の届くところから少しずつ変えていくやり方は、世界の広さに途方に暮れる前に目の前のこととひとつひとつ向き合っていくことの大切さを改めて教えてくれるようだ。私も中学生の頃、自転車で数十キロ走り都心や横浜、鎌倉を巡って小熊たちのような感動を味わったし、高校生からはハードオフや知人の家の押し入れに眠っていた楽器や壊れかけのPCを自力であれこれ直して使いながら音楽をやってきた。そういう原体験があるからこそ、小熊たちがカブに乗るという経験から得た豊かさを大人になっても手にし続けるためにはどうしたらいいかということを真剣に考えなければならないと強く思う。私は未だにそれを描けた作品に出会ったことはないし、創作活動で表現できたこともない。しかし、この難問とじっくり向き合っていけば確かに豊かさにたどり着けるだろうと思わせてくれたこのアニメは、とても清々しい気持ちで観終えることができた。

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