桜の園がようやくちゃんと読めた話
チェーホフの『桜の園』を読んだ。
2回目である。
前に読んだ時は名前が全く覚えられなくて主人公の兄が氷砂糖だかを舐めていたことしか覚えていなかったのだが、今回はちゃんと内容まで理解して読めたので良かった。
やはり翻訳ものは合う合わないがあるなぁとつくづく思う。
今回は翻訳に加えて注釈が同じページの左端に書いてあったので非常に読みやすかった。
それでも名前は覚えられないのでページを反復横跳びしながらの読了ではあったけれど。
ところでこの『桜の園』を題材に太宰治は『斜陽』を書いたそうだ。
『斜陽』は以前に読んだことがある。行間から溢れるブルジョワにやられて共感できる素養が全くない平民であることを痛感した。
そして今回『桜の園』を読んでみると、やはり共感できるところはあまりない。
しかしロパーヒンにはなんとなく共感できるところがあった。
おそらく彼が貧い出生から身を立てて、地に足のついた生き方をしているからだ。
平民なので平民の気持ちには手が届くということなのだろう。
その他の人物は全員どうしようもない。
この話のあらすじをさらに粗くまとめると、夫に先立たれたお金持ちの女主人とその仲間たちが揃いも揃って生活能力がなかったせいで住まいも広大な土地も売り払う、というもの。チェーホフ曰く喜劇である。
まぁ主人公もその子供たちも浮ついている。周りの人物も、みんなだ。全然共感できないどころかイライラしてくる。
女主人についてはもう本当に今までよく生きてこれたなという感じがする。
放蕩家で愛に生きており、まるで浮世のことが分かっていない。問題を起こしても解決策を考える術を持たない。そのままにしておけばいつか消えてなくなると思っていそうだ。
しかし可愛らしい。
とても可愛らしい女性である。
困っている人をほっとけない、愛することをやめられない。心の動きを止められない。なんて可愛い人だろうと思う。
まぁそのおかげで不倫をして、大切な我が家と敷地を手放すことになったので褒められたことではないのだけれども。
題材だけ見れば悲劇のような戯曲だが、まぁ喜劇だというのはなんとなく分かる。
主人公がぱたぱたと良く動き、脈絡のないやりとりに周りが短い言葉で応じていくその様は品のいいコメディそのものだ。
また浮ついた周りの人物、豪奢なセットのト書き、華やかなシーンもそれに拍車をかけている。
そこにロパーヒンがスッとひとつシリアスな筋を入れているような印象を受ける。恋心にしろ、現実的な算段にしろ、話に芯が通る。
それからこの混沌とした登場人物たちの思考回路と会話の中から何かを得て、若者たちが少しずつ「考える」ということをして未来を見据えていく。
そしてこの屋敷の擬人化のようなファールスが劇中はとぼけたような老いっぷりでありながら、最後に誰も居なくなった屋敷の中で桜の切り倒される音を聞きながら体を横たえて幕が下りることで過去の終わりを感じさせる。
侘び寂びがきいている。
そういうスパイスの使い方が上手い戯曲だと思った。
屋敷の住人たちが皆それぞれの想いを抱きながらその場をあとにして、最後に女主人とその兄の二人きりになった時に悲しみを分かち合うかのようにワッと抱きしめ合うシーンで「浮世離れしてるけれど悪い人たちじゃないんだよなぁ」と、可愛らしさを感じた。
こういう人間臭さのようなものが魅力的でチャーミングに伝わってきて、もう一度読んで良かったし、自分ならどんなふうに演出するだろう、というのを考えるのも楽しい。
チェーホフ作品が愛されていることがつくづくよく分かる作品だった。