クリスティーヌの心問題の話

オペラ座の怪人が盛り上がっている。
劇団四季の再演(というほど間が空いたわけではないが)もあるし映画も4Kリマスタリングという近代技術でどうにかされて再上映されるそうだ。すごいねー、という絶対分かってない反応しかできない。

さて、劇団四季四季のオペラ座の怪人といえばクライマックスでクリスティーヌがファントムにキスをするシーンで「今見せてあげる、私の心」と歌っていた頃と「今見せてあげる、女の心」と歌っていた頃があり、これが長年物議を醸している、と言ったら過言ではあるが、某きのこたけのこ論争くらい長年論じられている話題ではある。

私はプロのモブ観客なので与えられた舞台から解釈を得るだけではあるが、個人的には「私の心」派である。

「女の心」の歌詞を当てたことも解釈はできる。この時の状況を思えば、母性や娘心など、多面的な女性性がクリスティーヌの中で爆発してその複雑な気持ちに「女の心」と名前をつけて見せたくなる気持ちは分かる。

でもこの時ファントムが知りたいのは目の前にいる自分が狂おしいほど想いを寄せた「クリスティーヌの心」だと思うのであまり主語の大きい言葉を使うよりはピンポイントで「私の心」のほうがより欲しいものに近いのではないかな、と思う。

勿論、ファントムが欲しいものをクリスティーヌがそのままあげる道理はないのでそこのあべこべさというか、渡すもの、受け取るものの違いがあるのも二人の想いの交錯が見える醍醐味でもあるわけだけれども。

だが、私はこの作品のヒロインをファントムだと思っており、ついついファントムに肩入れして見てしまうため、その視点だとここのキスを「これが女の心か」と思いながら受けるよりも「これがクリスティーヌの心か」と受け取っていて欲しい、というのがある。

それに加えて、私の中のクリスティーヌ像が「いつも何かを夢見ているような子」と言及されている通りのふんわり天然女子なので、失礼ながらあの土壇場で「女の心」などという自分から遠く離れたような主語の文言が出てくるほど頭が回らないのではないかとも思っている。

なんせクリスティーヌは素性の知れぬオッサンをパパが送ってくれた音楽の天使だと信じて真面目にレッスンを受けているくらい人を信じて疑わない。墓場で「ここへおいで」とファントムに言われて「エンジェルかしらそれともパパの声なの?」と返すほどだ。

メグが「それは誰なの?」と疑問を持ち、ラウルが「まだ奴から逃げられる」と諭す相手に最後の最後まで憧憬を抱くほど、彼女の軸は常に「私」なのだ。
だからファントムと対峙し、ファントムに届けたい「心」は「私の心」になるのが自然なのではないかな、と思っている。

「だからこそあの局面でクリスティーヌが女として覚醒して「女の心」って言うのが滾るんだろうが!」と言われれば「まぁそれは分かる」としか言えない。分かる。それはそれで美味しい。

なのでつらつら言葉にはしてみたが、私たち観客は結局出されたものを咀嚼して味わい、美味しいものはおかわりして、口に合わなかったものにはお箸を置くだけなのだ。

美味しいものは多い方がいい。なので私はなるべく食わず嫌いはしたくないし、口に合わないところも自覚しつつ、美味しいところを見つけてお皿まで舐め回すような観劇スタイルでいきたい。いや皿を舐め回すのは下品だからやめた方がいい。

クリスティーヌが見せてくれる「心」はこれからも演出のたびに変わっていくかもしれない。
私はこれからもそこに出された台詞のひとつひとつ、お芝居のひとつひとつから物語を味わっていこうと思う。

ちなみにきのこたけのこについてはたけのこ派である。

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