幕間 その日はメイドにあらず
静岡県川根本町。とある温泉旅館にて。
キュポッ!ゴク、ゴク、ゴク、ゴクッ⋯
小気味の良い開封音と喉を鳴らす音が脱衣所に響く。
「「ぷはぁ〜〜〜〜〜〜!!!」」
「やはり風呂上がりの瓶牛乳は格別である!」
「美味しいね〜」
九重めいは濃いめの牛乳を、そして霧ヶ峰あおはフルーツ牛乳を、空いた左手を腰に当てて一気にグイッと流し込んだ。
「うむ。火照った身体に冷えた瓶飲料⋯まさに王道。至高のルーティンである」
「ふふ、お二方とも楽しそうでございますね」
風呂上がり後の格別の一杯を楽しむめいとあお。
その後ろから、2人の後に湯を上がった大井川りほが合流した。
「おお、りほ氏ではないか」
「ほっちゃんも一緒に飲むー?」
「ありがとうございます、あお様。ではお言葉に甘えて、コーヒー牛乳をいただきたいと思います」
あおはガラス張りの冷蔵ケースからコーヒー牛乳を1本取り出し、りほに手渡す。
「はい、どーぞ」
「ありがとうございます」
あおからコーヒー牛乳を受け取ったりほは、紙製のフタを取りながら、めいの方に目線を向けた。
「ところでめい様。川根の湯はいかがでしたか?」
りほはコーヒー牛乳を両手で持ってコクコクと飲みながら、温泉好きのめいに地元の湯の評価を伺った。
「うむ。吾輩の故郷、別府の湯と甲乙つけ難いほどに良き湯であった。それに見る景色が違うと、また違った色の泉が湧くというものよ。後でまた何度か入り直そうと思っているくらいだ」
「それはそれは、大変気に入っていただけたようで何よりです」
「ところでなーちゃんはー?」
あおはふと、いつまで経っても上がってこない比叡しゃなの様子が気になった。
「しゃな様は湯船ではしゃいでおられましたので、今は少々大人しくしていただいております」
「んー?それってどういう⋯むぐっ!」
しゃなほどではないが、あおも湯船の広さと外の景色に感動してはしゃいでいたことを知っているめいは、この後によく来る『お約束』の展開を予期して、とっさにあおの口を塞いだ。
(あお氏。それ以上詮索してはならん⋯)
めいは、りほの耳に届かないよう小さな声であおに耳打ちをした。
「んむむー?」
(なんでー?)
(とにかく、この場は吾輩に任せるのだ⋯)
「ん?どうされました?」
「い、いやなんでもないのだ。あお氏の顔に虫が付いてたものでな。ハハハ、夏は虫が多くて困ったものだ!」
「あら、そうだったのですね」
「ふぅ⋯」
「遠慮すんなって司令。ほら、あーんだ。あーん」
“あ、あーん⋯”
パクッ!
「へへへ⋯ウチら新婚旅行に来た夫婦みたいだな」
一方客間では、大石とゆすらがお茶菓子を食べながらくつろいでいた。
ゆすらが大石とのひと時を心から満喫している一方、大石の方はそうでもない様子だった。
「お、まだもうひと口分残ってるじゃねぇか」
“ゆ、ゆすら君⋯1人で食べられるからもう大丈夫だよ”
「だから遠慮すんなって司令。ほらもう一回、あーん」
(あちし今⋯なんか凄いものを見てる気がするぞ)
その様子を少し離れた席から見ている乙女が1人。
鷲羽もえみがいた。
もえみには恋愛のイロハはあまり分からないが、何かイケないものを見ているような感覚になった彼女は、顔を少し赤らめながら、黙ってお茶を啜っていた。
“も、もえみ君⋯ちょっといいかな”
もえみには恋愛のイロハはあまり分からない。
だがもえみは、大石のその言葉から『何か』を本能的に感じ取った。
(あちし、なんとなくわかるぞ。確かこういう時は⋯)
「ゴ、ゴメンだぞ司令。中国地方のみんなに、こっちに着いたら連絡入れるのを忘れてたんだぞ。ど、どうぞごゆっくりなんだぞ!」
そう言い放つや否や、もえみは素早く立ち上がって退室すると、襖を閉じて脱兎のごとく部屋を出ていった。
“もえみ君!?もえみくーーーーーん!!!”
大石の悲痛な叫びが聞こえたような気がしたが、もえみはとにかくあの部屋から距離を取ることだけを考えて旅館の廊下を進んでいくのだった。
しばらくあてもなく廊下歩いていると、もえみは反対方向から来るりほたちに気付いた。
「あ、もっちゃんだー」
「んー?3人揃ってどうしたんだぞ?」
「吾輩たちは今しがた風呂を出てきたところなのだ」
「お夕食までまだ時間はありますし、もえみ様もお入りになられてきてはいかがですか?」
「お風呂かぁ⋯今何もやることがないし、そうだな。いっちょあちしも入ってくるかな!」
先ほどの件もあり、気分転換にも丁度いいと考えたもえみは、意気揚々とお風呂へと向かっていった。
今日は8月1日。大井川りほの誕生日である。
普段、店に訪れるご主人様たちに奉仕精神溢れるサービスを提供し続けているりほにとって、誕生日はメイドではなくなる数少ない機会の内の1つである。
昨年は帝都の復興活動に本業にと忙しかったが、今はそれらもひと段落し、今年は大石や他の乙女たちと一緒に誕生日を地元の旅館で過ごすことになった。
旅館のキャパシティもあり、歌劇団総員で来館することはできなかったが、九州からはめい、中国からはもえみ、四国からはゆすら、近畿からはしゃな、北方連合からはあおと、各地方の乙女たちが集まっていた。
皆りほをお祝いしたい気持ちがあったのはもちろんだが、めいは温泉、ゆすらは大石目当てで来ている側面もあった。特にゆすらは一番乗りで旅館に着くほどに気合いを入れて今日に臨んでいた。
「しゃなちん、難しい顔してどうしたんだ?」
お風呂に入るべく脱衣所までやってきたもえみは、普段と似つかわしくない顔をして椅子に腰掛けているしゃなの姿を見つけた。
「メイド道、恐るべしでござる⋯」
「お風呂場で丸腰の状態だったとはいえ、拙者の忍術がいとも簡単に抑えこまれてしまったでござる」
「げっ!そんなに強いのか、りほちんって」
「気がついた時には湯船の外で倒れていたでござるよ」
「忍者を抑えこむほどの実力⋯あとで手合わせしてもらいたくなってきたぞ!」
「⋯ん?でもどうしてそんな事になったんだ?」
「いやぁ〜拙者、広いお風呂に感動してしまって、ついはしゃぎすぎてしまったでござるよ」
しゃなは事の顛末をもえみに語った。主に湯船で泳いだり水遁の術をしていたことが、どうやらりほの逆鱗に触れてしまったらしい。
「それは自業自得なんだぞ⋯」
(あちしも昔、ありのんに同じようなことをされたからなぁ⋯)
「そういえばあちし、一度忍者と戦ってみたかったんだぞ、しゃなちん」
「剣士と忍の真剣勝負、ということでござるか⋯」
「怖気付いたか?しゃなちん」
「むむ、それは聞き捨てならぬでござるな。望むところでござる!」
しゃなの合意を得たもえみは、お風呂に入るのを一旦止めて、しゃなと共に旅館の近くにある川原へと場を移した。
そうして各人各様の時が過ぎて夕食時となった頃、今日集まって全員は一堂に会し、食卓を囲んでいた。
“じゃあ改めて、りほ君⋯”
『お誕生日おめでとう』と
「はい、ありがとうございます」
「半ば華撃団ではないような私のために、今日はお忙しいところを集まっていただき、大変感謝しております」
“いいや、りほ君は今や立派な帝国華撃団の一員だよ”
「そうそう、関わった時間の長さは問題じゃねえ。あんまそういうのは気にすんなって」
「それにあの戦いの時に、1人で帝都に特攻をかけてたって話を聞いた時から、ウチはりほのこと尊敬してんだぜ?生半可な気持ちでできるもんじゃねえよ」
「うむ。吾輩もその話を聞いた瞬間に、一本の長編が書けそうなくらいのインスピレーションが湧いたものだ」
「ゆすら様、めい様⋯」
グウウウゥウウゥウゥゥ⋯⋯
会話を遮るように、方々から大きな腹の音が鳴った。
「あら⋯!」
「えへへ⋯だんちゃん。あお、お腹空いてきちゃった」
「実はあちしも、ちょっと前までしゃなちんと勝負してたから、お腹ペコペコなんだぞ」
「拙者も同じくでござる」
“そうだね。お料理が冷めちゃうと勿体ないし、そろそろいただこうか”
「ふふっ、そうですね」
りほは屈託なく笑った。
それはメイドとして主に見せる気遣いを含んだものではなく、1人の人間としての純粋な感情だった。
メイドの仕事は、りほにとって人生をかけて打ち込む価値のあるものだが、それが全てではない。
仕事の顔ばかりしていては疲れるし、当然、時には落ち込むこともある。
けれど帝国歌劇団はどんな自分も受け入れてくれる。心配することは何一つない。
明日からまた始まる日々を元気で迎えるために、今日は心置きなく羽を伸ばそう。
だって今日の私は、脇役ではなく主役なのだから。
りほはそう思って、だから今日は、自分から話の音頭を取る。
「では皆さん、いただきましょう!」