菅首相“最終的には生活保護” 何が問題か

○2021年1月27日、参院予算委員会で菅首相は「コロナの影響を受ける人々に政府の支援が届いていないのではないか」という立憲民主党の石橋通宏氏の質問に対し、「最終的には生活保護がある」と答弁しました。この答弁に石橋氏はびっくりした様子で、テレビの中継を見ていた私も強い違和感を感じました。しかしその違和感の中味がはっきりしないまま、その場では議論は煮詰まりませんでした。

○翌1月28日の予算委員会で共産党の小池晃氏は生活保護の制度は運用が悪く、十分利用されていない、と追及しました。特に生活保護を申請できる立場なのに申請しない人の三分の一は、申請すると、親族に扶養照会がされ、親族に生活が困窮していることが知られるのが嫌で申請をしないケースだという。小池氏の質問は、生活保護の実態は、最後のセーフティネットと言うような格好いいものではないことを明らかにした点で、大いに意味がありました。しかし菅首相の“最終的には生活保護がある”と言う発言の違和感は、これだけでは説明しきれません。

〇菅発言が問題になるのを待ち構えたように、日本経済新聞が1月29日から3回シリーズで、「あるべきセーフティネット」の連載を始めました。菅発言を考えるヒントを探して、熟読したところ、ありましたね。2月1日のシリーズ2回目、阿部彩東京都立大教授の論考です。

○その論考には「生活保護には『無差別平等の原理』があり(生活保護法第2条に明記)、身分や信条などと共に、生活困窮に陥った原因による差別を禁じている。すなわち『なぜその人が困窮しているのか』という問いそのものを問わないのである」としています。
そして「困窮の原因がコロナ禍による休業要請でも、それ以前の失職でも、健康問題でも、対応に変わりはなく、その人の困窮の度合い(ニーズ)だけを見る。これは、憲法がすべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障しているからだ」としています。

○これに対して、今大きな問題になっている、コロナの影響を受ける人々が政府から受ける支援は、困窮しているからだけの理由で受けるのではありません。コロナの感染拡大を減少させるため行政側から求められる休業や営業時間の短縮などへの支援措置として受けるものです。生活保護法で保護を受ける問題とは理由が違うのです。菅首相はそのあたりを一緒くたにして、最後は生活保護がある、と言っているのです。そのことにみんながあきれました。

○もちろん私は、このことで生活保護による保護が軽い、と言っているのではありません。生活保護による保護は生活保護法の第1条で、いきなり、「この法律は、憲法第25条(生存権、国の社会的使命)に規定する理念に基づき・・国が生活に困窮するすべての国民に対し・・その最低限の生活保障する・・ことを目的とする」と謳い上げている、極めて重い国民の権利です。

○私はただ、休業要請への支援と生活保護の保護とは性格が違う、と言っているわけです。例えば、休業などへの支援を受ける飲食店主などは支援額が少なすぎると思えば、「もっと増額しなければやっていけない」と、「声高に」言うこともできるでしょう。しかし、生活保護を受ける人は、「額が少ない」とは中々言えないのではありませんか。

○菅首相は何を考えているのか、それとも、何も考えていないのか。1月3日の朝日新聞「多事奉論」で、高橋純子記者は、菅首相が「これほど『出来ない』人とは想像だにしていなかった」と喝破しています。私は、出来ない、という能力の問題より、国民がどんな立場に居て、何を考えているのか、想像できない人なんだろうと思います。そして、想像力のない人にはコロナ対策を担うことは不可能です。

○休業要請などの支援措置について、「経営への影響の度合いを勘案し、必要な支援となるよう努める」と付帯決議に盛り込まれました。しかし、具体的にはこれから。緊急事態の延長でますます苦しい立場に追い込まれる飲食店主らの求めに沿ったものになるか、要注目です。##

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?