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能面のふしぎ

能楽の一番の特徴は仮面劇であることだと思いますが、この能面がまことに不思議なものです。能楽の世界では、能面のことを「面(おもて)」というそうです。もちろん面を付けずに(「直面=ひためん」といいます)演じる役柄もありますが、多くの主役(シテといいます)は面をつけて演じられます。この面を味わうのも、能楽を観る面白さだと思います。

能面は室町時代から江戸時代のはじめまでに基本型が六十種完成し、現在では二百種類もあるとか。その能面には、造形物として様々な工夫が凝らされています。

その中で最も分かりやすいのが、目の掘り方ではないかと思うので紹介します。よく見ると、瞳が四角形に開けられている面があります。特に女面に多いようで、若い女性を表す面ほど縦の線が直線に近くなり、老女の面になるにつれてこの線が丸みを帯びるようです。この技法は、つぶらな瞳を表現する効果があるそうです。それで思い起こされるのが、少女漫画で描かれる瞳です。キラキラと瞳が輝く人物の顔は、黒目がちで、瞳が四角くなっていることはないでしょうか。

正確には、手元の能面の本を見ると、慈童(じどう)など子供の面だけでなく、笑尉(わらいじょう)や中将(ちゅうじょう)など、老人やおじさんの面でも黒目の縁が縦に掘られているものもあるので、若さだけを表すということではないようですが、丸く掘られているものもあり、何らかの作り分けがなされていることは確かです。

また、横から見ると、生身の人間にはありえないほど角膜に角度が付いています。顔は正面を向いているのに、瞳だけが下を向いているような感じです。これは遠くからでは分かりませんが、美術館など近寄ってみる機会があればよく分かります。

このように目の掘り方ひとつとっても工夫が施されていることが分かります。

そういう様々な技巧の施された能面は、かちっとした固体のようでいて、角度によって印象が変わり続ける流体のような揺らぎがあります。妙なものです。

そして、この能面にシテの動きが加わると、もっと不思議なことが起こります。稀に舞台上で動くことがあるのです。ここで僕は、面の陰影で角度によって表情が変わって見える、ということを言っているわけではありません。そういうことがあることは了解しています。能面は演技によって様々な表情に見えなければならないので「中間表情(無表情に近いもの)」で作られていると説明する専門家がいます。しかし、個体であり、無表情であるはずの面が動くことがあるのです。

最初は、面がゆらゆらと揺らぎ始めます。あれ、なんかおかしいな、と目をこすりこすりまた観続けます。すると、頬が上がったり、眼に力が入ったり、確実に筋肉のように動いたことに気づきます。「あれ、今、あの面動いたよね。えっ、みんな気づいた? ほら、動いたよね」と一人で客席で動揺することになります。きょろきょろと他のお客さんの様子を見た後、目をしばしばと瞬いて、また見入るのです。

そんな、薬のせいでしょ。あ、間違いました。そんな、気のせいでしょ、と思われるかもしれませんが、そう、気のせいなのです。この、気持ちを動かしてしまう作用が、能舞台で使われる能面の不思議な力だと思います。

脳には、自分の見たいものを見せるという性質があり、また能面にはそれを引き出す妙があるとも説明できます。これが割とリアルに起こるので、脳の危うさをまざまざと感じます。

特に女面や般若はよく動いて見えるので怖いです。嘘だと思ったら、能を観に行ってみください。


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