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私塾でのアクティブラーニングの活用

 私塾でアクティブラーニングをどのように活用すべきかということについて僕の意見をここで書き留めておきたい。

 アクティブラーニングを私塾でというと、半ば不可能だろうとたかを括りがちだ。僕も半ばそのうちの1人であったわけだが、それはアクティブラーニングの目的を主体的な学びの定着と考えていたことに起因する。否定派であった僕の主張は、主体的な学びなど万人に提供できるわけもなく、成績優秀な生徒の資源を無駄に食うだけであるというものでしかない、であったわけだ。しかも、学習塾の基本的かつ、本質的な役割は生徒の成績を上げることであり、主体的に学べるようにすることではない。主体的に学べるようになろうが受動的であろうが、ようは成績を上げれば良し、下げれば悪しなのだ。そう考えると、アクティブラーニングなるものはゆとり教育と同じく、大人の一方的なエゴからくる教育感の押し付けでしかなく、形骸化した「新しい教育」の一つでしかないという結論だった。

 しかし、実際、アクティブラーニングというものは主体的な学びの提供が目的ではないという気づきが得られた。それは、社会心理学について学んでいたときのことだった。社会心理学では、人格という概念、主体性という概念、さらに自由意志という概念すらも虚構であるとする。他者が個人の中にそれらを見出さなくては近代社会を維持できないからであると考えるのである。近代社会とは、資本主義、民主主義、国家主権の3点を支点とし、構築された社会であるわけだが、それらの全てが上の3つの概念を基本としている。個人に人格を付与し、主体性がある個人を想定し、自由意志に基づく取引を想定するからこそ、人々は生まれながらの自由を享受しているように感じることができ、それが故に、自己と共同体の選択・決定に対して暴力に訴える必要がなくなるのである。幻想の繭の中にいる、自由を享受していると錯覚している個人。それが近代の個人モデルであり、その根底には疑問を持つことさえ許されない、根源的な神話がぬるりと横たわっているのである。

 すると、アクティブラーニングの求める主体性とは何か、という問いが自然と浮かび上がってくる。ここからは僕の解釈だが、アクティブラーニングとは主体的に学んでいると認知させるための装置として有効なのである。自分が家で教科書を読んできた、問題を解いてみた、親に質問してみた等で得た知識を、他者と共有することによって、主体性が発揮された(と信じられる)ことが根拠となり、主体的であると感じる(あるいは、錯覚する)ことができる。ここが重要なのだと。真に主体的であることなど必要なく、問題は主体的であると錯覚するかである、と考えられるわけだ。

 そう考えると、アクティブラーニングを私塾で取り入れる余地は存分にある。例えば、宿題は暗黙理に「主体性を発揮していない」と錯覚させるものであるから避けたほうが賢明だ。それに対して、自由裁量の課題は「主体的に勉強した」と錯覚させうるものであるから取り入れるべきだと。調べ学習も取り入れることを検討するべきだし、本人の興味に従って深く掘らせることも時と場合によっては学習への主体性を向上させる。主体的に行動しているという錯覚してもらえるかということに焦点を当てて考えてみると色々と面白い。

 僕たちは皆、自分の感情を後付けで認知している。嬉しいと思うはずの状況だから嬉しいと思うし、悲しいと思うはずの状況だから悲しいと思う。全ては個人というブラックボックス、関数の弾き出した結果でしかないのだ。実際には何も思っていないし、何も考えていない。そう思った、考えたはずだの連続である。生徒たちもそうなのだ。勉強を嫌いと思っているはずだ、勉強が苦手だと思っているはずだ、やらされているだけだ、そんなことを自分の行動と認知整合性の高い感情、感想を抱いているに過ぎない。だからこそ、どのように行動をデザインするかということによって勉強自体への価値観を揺さぶることができる。それがうまい塾講師が良い講師なんだと思う今日この頃である。

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