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語学学習の原点を考えたとき、マーティン・ルーサー・キング牧師の演説と夕方の階段教室が頭のなかに浮かび上がる


高校時代、学校にたくさんの英語教師がいた。

他コースとの入れ替わりで担当は1年だけの場合もあったし、副担任になって付かず離れずの距離で3年間そばにいたケースもあったけれど、思えば4人の英語教師は常に在籍していた、と記憶している。彼らが受け持ったのはたった2クラスで、生徒は4〜50人程度。私立高校の特別進学コースにおける英語教育と考えると、人数体制からうかがえるように学校としても力を注いだプロジェクトだったのかもしれない。そもそもコース自体、大学進学を目指すために新しく設けられた実験的なものでもあり、試行錯誤の3年目がわたしたちの代だった。

この充実した教員数や教育をもって「英語が好きになった」生徒はどれほどいたのか、また「使える英語を話せる」生徒がどれほどいたのかは、卒業後15年以上が経過した今も、正直なところわからない。

ただ、いくつか明確なことがある。周りはどうであれ、わたし自身が英語を話せるようになりたい、と強く感じたそのひとりだったということ。先生たちのおかげで、新たな世界への扉を開いた手応えがあったということ。

個性が強くバラエティ豊かな英語教師4人の中で、いちばん好きだったのは真面目か不真面目かわからない、温厚な雰囲気をあちらこちらにばらまきながらも時折厳しさを見せる、たまに猿みたいにくしゃっと笑うおじいちゃんの倉田先生だった。とりわけ先生の授業は、印象に残っている。

「マーティン・ルーサー・キング牧師の演説の暗唱。これを次の小テストにします。覚えたひとから私に声をかけて、みんなの前で読み上げてください」。

1955年12月のローザ・パークスの逮捕を発端にはじまったアメリカの公民権運動。仕事を終えたローザ・パークスがバスの黒人優先シートに着席中、車内が混雑しはじめ、そこに着席できない白人がいたことから「席のない白人に譲りなさい」と運転手が彼女に命令した。しかし彼女はシートを譲らず抗議をして逮捕された事件である。その後マーティン・ルーサー・キング牧師がモンゴメリーに住む黒人に呼びかけ、路線バスを利用しないというボイコット運動が起きた。出来事のあらすじがB5サイズほどの三省堂NEW CROWNだっただろうか、当時の教科書には掲載されていた。背表紙の内側にはキング牧師の演説文が一部抜粋され、背景には演説中の写真がある。

倉田先生が課した「英文を暗記し読み上げる」テスト、それ自体は難しいものではない。文は簡素であり、一節であるゆえ短いものだ。暗唱も数分で終わる。だからこそ先生の前で、かつ他の生徒の前でおこなうことが必須だったと記憶している。ある時は授業の最後に10分程度時間を設けて、挙手制でやりたいひと、できるひとはいないか、そう尋ねて実施を促した。いなければ10分間は暗記のための時間にあてる。そもそも試験はクラスメートに聞かれることが前提だったので、演説の雰囲気を生徒自身に感じさせるためだったのか、周囲になんども言葉の意味を聞かせることを狙ったのか、何かしら教育方針や意図が背景にあったのかもしれない。

案の定、暗記は数日でできた。ただし文章を読めば読むほど、覚えれば覚えるほどに、こころが大きく揺さぶられてわたしは動揺を隠せなかった。キング牧師の一文の重みを理解するだけでも膨大な情報が裏側に垣間見え、次々に浮かぶ疑問に自分自身が追いつけず、答えも見つからず、やるせない気持ちが満ちる。

なぜ黒人として生まれただけで差別をされなければならないのか。
どうして同じ国で生きる人間なのに、当たり前の権利が得られないのか。
どうしたらひとは、我々は、共に手をとりあって生きられるのか。

演説者の覚悟を確かめるように、時間をかけて向き合い、丁寧に言葉を理解しようとつとめる。少なくとも「課題だから」とその場しのぎの学習にすることはできなかった。

試験は、ふだんの教室のふたつ隣にある階段教室で行なわれた。倉田先生は「夕方の時間、階段教室にいるからテストをやりたいひとはいつでも来なさい」と言い、教壇の前に置いた椅子に座りながら、本を読むなどして生徒の挙手を待った。教室にはテスト期限が迫っているもうひとつのクラスの学生で席が埋まり、黙々と暗記に勤しんでいる。当時、彼らと交流がなかったわたしは階段教室の扉をガラガラと開けた瞬間、「誰がきたんだろう」と彼らから鋭く厳しい視線を受けた。違うクラスのやつに先を越されるのか。こっちはまだ覚えていないのに。漂う空気に構うことなく「準備ができたので、お願いします」と、わたしは先生に宣言する。


I have a dream that one day on the red hills of Georgia ・・・


己の身体を借りて再現する演説。なんて力強く、美しい宣言なのだろう。どうしてこの言葉は時間を超えてこころに届くものなのだろう。Segregation, Discrimination という単語と出会い、Alabamaという街を知り、歴史的背景を学び、抑圧された人々の重みを背負いながら「わたしには夢がある」そう理想を掲げる。世界のことをもっと知りたい、アメリカの現在を見てみたい。英語学習に没頭する理由とモチベーションは、ただそれに尽きた。

数年が経ち、アメリカの大統領はブッシュからオバマへと変わった。政権交代に心底感激し、アメリカの良心がようやく取り戻され、世界はキング牧師の夢に一歩でも近づけたのではと嬉しかった。

そして今、2020年。白人警官が乱暴に黒人を押さえつける動画がSNSで流れ、CNNのレポーターは放送中に拘束され、スーパーや商店での暴動は各地で発生し、炎にまみれた街中の光景がニュースを通じて配信される。日々眼前に映り込む惨状、おそろしいほど過去と類似するような現実に、夢はやはり果たされなかったのかと悔しく、かつて感じたやるせない思いが溢れ、無力感にさいなまれる。

倉田先生は教養のあるひとだった。自主的な活動として本を読んだら英語の成績評価とは関係なく手作りカードにスタンプを押して(それが集まったところで結局何になったのかは覚えていない)「どんな本だった?」と楽しそうに感想を尋ねた。多様な価値観を知るために、自ら考える知性を育むために、いろんな本を読むことが高校生にとって大事な要素だと考えていたのだろう。ある時にはお気に入りの星新一の一冊を貸して感想を語り合った。彼だけでなく、他の英語教師もみな素晴らしいひとたちだった。共通していたのは懐と教養の深さ、そして何より「言語という世界の扉をひらく鍵」を持っていたところ、そこに深く、魅了された。

言語を知ることは、扉の向こう側に足を踏み入れるための鍵であったし、歴史につながる手段であったし、よりよい未来を作るための前提条件である。さらにいえば混沌とした世界に飛び込むための必要不可欠な装備でもあった。

いまわたしは、弱いとされる立場のひとたちに寄り添うNPO法人の一員として働き、ヨーロッパや海外文学に傾倒し、権利意識の高いフランスに言語共々熱中しているけれど、そもそもフランスに興味を持った理由も高校時代に始まったイラク戦争がきっかけだったことを何人かの先生は知っていた(はずだ)。戦争に対するフランスの政治的主張が自分の考えに近いものだと知り、その姿勢がSophisticatedなどと英語の授業中に発表した記憶もある。そんなふうに政治や社会問題に熱かった16歳の女子高生を、いったい先生はどんな風に眺めていたのだろうか。

公民権運動やキング牧師の演説文は、今も中学か高校の英語の教科書に掲載されているらしい。過去の出来事に対してどのような向き合い方を、あるいはどのような教え方と出会うかは、ひとそれぞれきっと異なるだろう。ただ、わたしは語学学習について考えたとき、キング牧師の言葉を演説したあの高校の階段教室を思い出す。暗唱するときに感じた悲しみややるせなさ、未来に向けて生きようと覚悟を抱いた自身の姿が浮かんでくる。そして鍵を手にした現在、扉を開いた先の世界をどのようにつくっていきたいのかも同時に想像する。アメリカの現状も、世界情勢も、日本の政治も、人種差別も、当たり前に生きる権利も、あらゆる社会問題を前にするとキング牧師から「あなたはどの時代に生きているのですか。わたしたちの夢を果たしてはくれないのですか」。そう問われている気がする。

あらためて演説文を読み返す。言葉は色褪せることなく現代も、現代においてこそ、広く力強くひとのこころに響きわたる。歴史は繰り返すとか差別意識はなくならないとか、言い訳はいくらでもできる。それでもわたしは執拗に尋ねられている気がしてならないのだ。

今のあなたは、いったいどんな行動をするのですか」と。



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