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心のなかにある切実さと向き合う。もぐら会に入って1年が経ちました。

紫原明子さんが主催するサロン「もぐら会」に入って1年が経ちました。2019年6月の開催当初から参加していたひとりとして、ひとつの区切りでもあることからこの1年間で自身がどのように変化したか、何が起こったかなどを振り返ってみようと思います。

そもそも、「もぐら会」とはなにか。

もぐら会は2019年6月に開始した約100名規模のオフラインサロンで、他者との会話を通して、自分と世界とを"自分自身で"掘り深めていくための集まりです。そうはいっても具体的に何をするのかと疑問に感じられる方もいるかもしれません。実施するのは、月に1度「お話会」というイベントに参加して他者の言葉を聞き、かつ自分も何かしらを話す。内容は自己紹介、体調、最近あったこと、考えていることなど基本的に自由です。その後ワークショップを実施し、皆でひとつの文章やテーマを取り上げて考えを深めていきます。書くことによって自己と向き合いたいひとには、毎月コラムを執筆することで考えを深めていくこともできます(紫原さんの添削がついています)

お話会はオンラインでも実施していますが、感染症が拡大する前までは渋谷のある場所にオフラインで集まり、円になって一人ひとり話をする形式をとっていました。そのためオフラインサロンという呼称をよく使います。

募集開始直後に掲げられたコミュニティのあり方は、1年が経った現在も変わっていません。

様々な立場、異なる背景をもった他者は新たな発想や考え方を突如、投げかけます。直接的なボールの投げかけではないにしても語りから間接的に受け取り、かつ同時に誰かに受け取られることもあります。「そんなふうに感じたことはなかったな」「わたしだったらどうするだろう」。そのような思いが、各々頭の中を巡ります。

多様な価値観の他者の前で自分自身について話すこと。整理されていない、まとまらない、未完成のままの語りでもかまいません。ひとが発する何かしらの思いや感情は誰かへの問いとなり、答えとなり、各自それぞれが必要な分だけを持ち帰る。その繰り返しがもぐら会です。

これまで、どのようなイベントがあったのか。

大きなイベントでいうと、もぐら会設立1周年の日である2020年6月1日に『もぐらの鉱物採集 2020.01.22~2020.03.29 あの人今、泣こうとしたのかな』を発売しました。制作については以下のnoteをぜひ読んでいただきたいのですが、当初参加に躊躇していたわたしは、お話会に参加し制作メンバーの言葉に心を動かされ、「今の思いを残しておきたい」と決心、エッセイのなりそこないのような文章を一編寄稿しました。皆さんの原稿が素晴らしく、本の構造自体も面白い仕掛けになっています。

参加者による自発的なイベントもあります。落語寄席ツアー、ピクニック、リモートラジオ体操、ひたすらもくもくと原稿執筆をする会...わたしが参加したのは防災地下神殿への遠足です。2019年12月、埼玉県春日部市にある首都圏外郭放水路に訪れ、防災について考える社会見学を大人とこども含めて20人近くで実施しました。

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もぐら会に企画部があるわけではなく、イベントの立案者が企画者です。気の合う仲間たちで何かをしたり考えたりしてみたい、どこかへ出かけたい、楽しいイベントを企画したい方には面白い機会に溢れているのではないでしょうか。

参加して、どんなことが(自分自身)変わったのか。

さてここからが本題です。そもそも、わたしがもぐら会に参加する動機に「ひとの話を聞きたい」という気持ちが強くありました。普段何気なく生活していると、まわりにいるひとたちは属性が近く、似たような考え方を抱きがちです。例えばわたしの事例でいうならば【30代・女性・独身...】等々。似た属性の集団は居心地のよいものでありながら、反面、そこにい続けると想定の範囲内で物事を捉えることにより思考の幅が狭くなってしまうかもしれない、というちいさな危惧感がありました。

年下や年上の世代のひとたちが何を考え、何に問題意識を感じ、日々をどう過ごしているのかを知りたい。もっと異なる属性をもったひとと出会い、思考を深めてそこから大きな生きるヒントのようなものを見つけたい。始まりは社会学的な関心や好奇心でしたが、継続的にひとと会うことで興味深く感じる観点は変化します。他者が変わりゆく(あるいは、変わらない)姿に立ち会うことの面白さに魅了されるようになったのです。

さらに不思議なのは、自分自身の変容です。変わらず「ひとの話を聞きたい」気持ちはありつつも、語りが明らかに違うものになったときに大きな驚きを感じました。意図的に変えようと思ったのではありません、ある日のお話会で語り始めたときの口調が、なにか雲をつかむような、まだ実体として捉えられていない感情や言葉を探りながらひとつひとつ集めることを実践し始めたのです。普段は整理立てて話を展開するので、たまたま気が向いたのか、そういう時期だったのか。「このような話で適切なのだろうか」と疑問に抱く隙もなく、とりあえず目の前に単語で、文節で、区切りながらもゆっくりと感情を取り出してみました。

それはとても切実な作業でした。胸がつまってうまく話すことができず、支離滅裂な内容だったと思います。周りのひとの目を見ることすらできません、何を話しているかもわかりません。ただ内側からずっと発したくて、外に引っ張り出してあげたくて仕方がなかった気持ちだったのかもしれません。それらがひょこっと身体から外に出てきました。

終わったあとにふっと身体は力が抜けて今のわたしはなんだったのだろうと呆然としました。帰り際、「あの話はとてもよかったよ」とひとりの参加者が声をかけてくれました。はじめて知る自分の姿に気恥ずかしさを感じ、同時に高揚しながら渋谷から帰路についたことを今もはっきり覚えています。

これから、どうしていきたいか。

先日、ある参加者がもぐら会についてこのように語りました。

もぐら会の人たちをみていると、優しさにいろいろな形があるんだなと思います。

魚を与えるのではなく魚の釣り方を教えよ。という言説があります。しかし、もしそのひとが途方にくれて、力をなくしているひとだったら。釣るための道具がなかったら。涙を流して悲しそうな表情をしていたら。だんまりと、何も語る言葉をもっていなかったら。

大丈夫ですか、と声をかける、手を差し伸べる、隣に座ってお話をする、魚ではないけれどお菓子をあげる、今何がしたいですかと尋ねる。寄り添うにはいろんな方法があります。釣り方はあとでゆっくり学べば十分。そういう多様な優しさをもって誰かしらがそのひとを受け止め、支えるのがもぐら会なのです。

わたしが見ている会の姿は、ひとつの側面であり、かつ断片的です。ほかのひとがどのような出会いをし、どのような考えを持って参加されたかは様々ですし、もしかすると期待する優しさには遭遇できない(遭遇できなかった)かもしれません。だけれど、わたしはこの居場所で包み込まれるようなあたたかさに触れることができたと同時に、今後の人生について悩みあぐねて不安を抱くなかでも誰かしらに「大丈夫だよ」「行ってらっしゃい」「やってみる価値はあるよ」と笑顔で送り出してくれた、そっと背中を後押ししてくれた1年間の日々だったように思います。

もぐら会はこの先何年続くコミュニティなのかはわかりません。わたしがこの会に所属する期間がどのくらいなのかもわかりません。

ただ、知り合えてよかったと思える素敵なひとたちに囲まれて、これから不確定な未来や人生をも楽しんでいこうと前向きになれる契機となったのはまぎれもない事実です。

ひとつの居場所を作り出してくれた紫原さんにあらためてこの場を借りて感謝の気持ちをお伝えするとともに、2年目を迎えるもぐら会の活動にどうぞこれからも、ご期待いただけると嬉しいです。

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