見出し画像



 早朝の教室にはありさ一人がいて、ちょうど花瓶の水を換えているところだった。私はそれを気に留めず、一言「おはよう」と声をかけた。ありさは「今日は早いんね。朝練?」と涼やかに笑って自分の席についた。それきり二人の会話は途切れてしまった。窓はひとつだけ開いていて、ちいさい風がちょっと吹く。百合の甘い香りが教室を通り過ぎていく。それが一通り吹き去ってしまうのを待ってから、教室を飛び出した。朝練の準備を始めるにはまだ早い時間だ。でも、そのまま教室に居座っていても、手持ち無沙汰があるだけだった。
 次の日、昨日までの百合は小さな白菊に代わっていた。野球部の堀田がスマホをいじっていて、私が「菊だね」と声をかけると「ああ、菊やな」と顔も上げずに言う。音を切っていないスマホから、パズルゲームのコンボ音が小さく鳴る。堀田は、赤や青や緑の石が、つながり、消えて、落ちるのを、口をぽかんと開けたまま眺めていた。そのうちチャイムが鳴って、他のクラスメイト達がちらほら教室に入ってくる。誰も何も言わないで、自分の席につくと、手帳を開いたり、机に突っ伏したりして思い思いにふるまっていた。
 三日目の教室には薔薇がいた。それも一本や二本じゃなくて、花瓶は花束のようになっていた。ひいふうみと数えると十五本。これには鈍感な担任もさすがに気が付いたようで、ホームルームの折「あれは誰かが持ってきたんですか」と呟いた。手を挙げる人はいなかった。でも、軽音でベースをやってるミズキが少し強張った様子でうつむいたので、薔薇は彼女のものだろうと思った。
 私はこの日になってようやく理解した。これはそういうゲームなのだ。その日一番に教室に来た生徒が、誰にも言わずにこっそり花を入れ替える。入れ替えるだけで何も言わない。他の生徒も花のことには触れない。花はただ、毎日少しずつ色を変え、教室から季節感と、あたりまえとを奪っていく。はじめは単なるいたずらだと思っていた。誰かが放課後ノリで思いついた、特に意味のないいたずら。けれどもそれから二日、三日、一週間と経っても、花の入れ替わりは止まらなかった。教室の主は朝顔、ガーベラ、桔梗と続き、やや花瓶に不釣りあいな蓮の花が咲いたとき、私はふと、いずれ自分の番がくるんじゃないか、と思った。
 そうなれば、ぼうっとしてはいられない。退屈な古典の授業中、先生に隠れてこっそり花のリストを作ってみる。種類が被るのをなるべく避けたいので、これまでに登場した花には小さく印をつけた。
 手に入りそうな何種かにあたりをつけて、放課後、町から離れた小さな花屋に立ち寄った。町中だと他のクラスメイトに遭遇するかもしれないと思ったのだ。
「第二中学の子だね。最近お花、流行ってるの?」
 花屋の主人は機嫌よく尋ねた。私は黙って首を横に振る。以前にも誰か来たのだろうか。
「贈呈用ですか?」
「いいえ」
「自分用?」
「……自分用です」
 主人はそれ以上何も聞かずに、竜胆の花を何本か見繕って渡してくれた。家に帰って花瓶を探すが、なかなか見つからないので使っていない貯金箱に水を張る。それから数日、なんだか部屋が明るくなった気もしたけれど、やっぱり気のせいだったかもしれない。
 ある日の私はとびきりの早起きだった。目が覚めて、手元のスマホで時間を見て、今日しかないと直感した。まだ弁当を作ってないのにと焦る父親に、今日は部活が早いからとだけ言って家を飛び出す。朝の空気が冷たくなり始めた時期だった。私の足は自然と登校を急いた。なんせ鞄の中には花がある。今日は私の番なのだ。やっと私の番になったんだ。
 校門で待ち伏せするカメラとマイクを避けながら、足早に教室へ向かう。まだ暗いというのに体育館はほんのり明るく、すでに朝練をはじめている運動部員もいるようだった。先を越されてないかしら。そればかりが気がかりだったが、教室の扉を開けると誰も居なかった。昨日の花は秋桜で、秋桜はまだそこにいた。
 私は抱えたエナメルバッグからそっと竜胆を抜き取ると、秋桜と入れ替えて花瓶にさした。そこで初めて気が付く。この秋桜はどうしよう。廊下にはいくつか足音がする。私は焦って秋桜を鞄にしまう。
 鞄にしまった秋桜の重さを思いながら、これまでのことを考えていた。私が何となく過ごしてきたここ数日、このクラスの、誰かの鞄には必ず、誰かが持ってきた花が潜んでいたのだ。普段使わない国語便覧の上に。シーブリーズとゴムの間に。親に見せていない赤点のテストの脇に。花たちは一日そこにいて、入れ替えたものだけに秘密を背負わせていたのだ。
 私にはそのことがたまらなく愛おしく、授業中、机の脇に置かれた鞄のことがいっとう特別に思えてくる。同時に、私の中のもやもやが、少しずつそぎ落とされていく。肩の荷が下りる。そうか、みんなこんな気持ちだったんだ。みんな、順番に肩の荷を下ろしていたんだ。
 放課後、誰も居なくなった教室で、私は花瓶の置かれた席に座って、身頃の上から自らの身体を抱く。竜胆のいいにおいがする。ようやくこの席が、ただの机と椅子になる。明日は誰が救われるんだろう。はじめの花は何だったろう。よく思い出せない。この席に誰が座っていたのかも、もうあんまり思い出せない。

●2021年 ブンゲイファイトクラブ3 一回戦の作品です
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?