六枚道場1E


第一回の最終になります。ここまで感想をひねり出しこねくり回して、ものすごく勉強になりました。次は参加したいな。では。


草野理恵子さん「おはなし皿」

 生まれてきた子にとっても今の僕たちにとっても、外から聞こえ入ってくるほとんどの事物には「おはなし」が内在していて、おはなしは素直に受け取ればたいてい快不快に分けられる。いま世にあふれている「物語」はそういうおはなしの無垢を、良くも悪くも汚した先にある。あくまで一つの見方だけれども、赤い液体=言葉として、それを濁す行為=物語を作る行為として受け取りました。
 三頁目の冒頭、確かに物語を作るとき、おのおのの経験からは引いた目線でいなければそれを切り取れない側面がありますが、それにしても「清い心を保ち続けなければならない」というこだわりの、少し強迫じみたところがなんとも面白い。何でもかんでも逆張りして斜に構えていても世の本質は捉えられないけれど、だからといってイノセントのままでは様々なおはなしと対峙することが出来ない。両親の居ない今、悪い魔女や化け物を取り払ってくれる人はもう居ないけれど、そういうおはなしはわたしの周りに存在し続け、消えてはくれない。これはつまるところわたしの(世界と対峙するための)成長とも読めます。そしてわたしは清らかを意識的に制御し、耳を塞ぐでもなく同調するでもなく、折り合いを付けながら物語を作る道を選ぶ。
 私の生み出した恐れを欲している名無しの誰かは、私の計略的な無垢に思い至るのか、それとも恐怖だけをおいしくいただいて、好き勝手にあれこれ言いまわるのか、読後じわじわと気になってきます。メアリーセレストの寓話は単に静かの象徴でしょうか、それ自体がホラー的な雰囲気を形作ることで、私の恐怖がその場を恐怖に満たすことを暗示するものでしょうか、それとも史実に基づいて、物語が尾ひれを付けて広がる事への皮肉でしょうか……まあこの部分は風景としても静かで綺麗で、あまり難しく謎解き的に考えない方が、すっと心に入ってくるかもしれないけれど。


中能茜さん「困ったな」

 フルスロットルの優しさですね。状況が飲み込みやすくて読みやすい。
「ごめん」でも「やめて」でも「ご苦労様」でも、文字を離れて口に出される言葉には文字以上の広がりがあって、それを大方間違いなく受け取るためには語気や表情やシチュエーションや、言葉とは別の所にヒントを求めなくちゃいけない。作者はそのことにちゃんと思い至っていて、存分に生かせていると思いました。
 はじめに「困ったな」で(何か困っているのかな)と思う。でも次には「嬉しい方です」と続いて、数多ある「困ったな」の言い方のうち、ある程度の方向性が親切にも示される。読む人はここから先、繰り返される言葉にハラハラすることなく「困ったな」という言葉そのものを愛でることが出来る。どんな風に言うのかな。うれしそうに言うのかな、ちょっと照れくさい感じかな。やさしい想像が広がる。
 しかもこの詩では発音される事だけじゃなくて、紙面に並ぶことにも回路が繋がっている。「困」と言う字が画数も少なく素朴に四角くて、それが等間隔に冒頭に並ぶと、変な言い方ですが見栄えもとてもおもしろい。欲を言えば全体を俯瞰して、「歌詞」と言う時が画数が多くて浮いているので「山本リンダみたいだな」でも十分よいのでは。ちゃんと理由があるならいらないお節介で申し訳ないです。
こういう発音される言葉と書き起こされ得る言葉の両方を上手に使う詩人として、谷川俊太郎が思い起こされます。

6○5さん「朝」

 前とはうってかわって、すっと頭に入ってこない(マイナスの意味ではない)。ほとんど段落のないビジュアルと主述の交錯した文体はさながらコンクリートブロックのようです。それに殴られた。痛い。そして殴られた後の一言ってすごい心に残りますよね。それが「ここにいることほど大事なことはないんじゃないか?」です。この一言が十分な質量を持って僕の前に現れ、心に残るのはだから、それまでの4ページがあるからに他なりません。
 いやそれだけで4ページ分をスルーしてしまうのも不親切な気がしますね……ところでこの4ページ、決して読み手を考えずに無軌道に書かれたものではなくて、それがまたすごいです。主述の交錯やずれはおそらく意識的で、あまりに難しい漢字や単語も出てこない。想起されるイメージには概念的な存在である等高線や力点から観念的な言い回し、カエルや椿といった自然と、信号や電柱といった人工物がない混ぜになっていて、そのバランスも決して偏ってはいない。この文章は塊であるだけでなく均質だ。まさにコンクリートブロック。それもゆっくり読むとちゃんと情景が想起され、時間の流れのようなものも朧げに見えてくる。これを「詩」の枠で提出されたことも含めてすごい。

●ハギワラシンジさんのキャスを聞いて、朝から連想される様々な風景、物事を、ある一つの朝に凝縮したような心地の良い響きがあるのに気が付く。朝は人の営みの鈍い分、自然や空想の入る余地が多分にある。読みが甘かったよ。反省するよ。そうか、物事の考えるプロセスにもいろいろあるんだ。僕はひょいひょいと散漫に興味が移るタイプなのだけれど、一つの出発点からぐーっと奥に入ってく行くような思考が出来るのはうらやましいな。そういう目で世界を見てみたいと思いました。

池亀大輔さん「にんげんきらいしぬほどきらい」

 俳句なのか、俳句の形をした何かなのか、それで全くイメージが変わってきます。僕は俳句をやるわけでもなく、俳句の範疇がどのくらいのものを許容するかも疎いのでなんともいえません。とりあえず原理主義者ではないので、無季や破調も面白く読めるのだけれど、イメージとしては俳句や川柳は写真のように一瞬を切り取ってその内に情報の広がりを見せ合い、そこから想起される物語は聞き手に任せているようなものと思っていて、それにしてはこの句には時間の流れというか、物語がはじめから存在しているな、と言う印象です。
 と、タイトルの「にんげんきらいしぬほどきらい」が7/7なのに気がつく。もしかしてこれは六枚道場という場所を借りて行われたアクロバティックな「倒置短歌」ではないだろうか。つまり
「ネコズキに仔を連れ去られ蝉捨てる にんげんきらいしぬほどきらい」と。短歌には時間の流れや物語が存在しているイメージなので、すこしだけとっつきやすく思えてくる。下五の「蝉捨てる」の読みも、(おそらく)猫視点の「俳句」の形だと読みづらいけれど、「にんげん」にかかるとすると幾分か風景が見える気がする。ひとつの短歌に別な題名をつけるのも変なので、この形にするのも理にかなっているように思う。
 短歌として読んだとき、下の句がタイトルなのは面白い。僕ら人からすれば、野良猫なんかの「にんげんきらい」的な挙動はよく目にするわけで、視点の出発はそこからになる。タイトルは人間から見て、仕草から想像した言葉なので、すべて平仮名で書かれる。それで、どうして「にんげんきらい」なのかという想像の部分で今度は猫に視点が移って、その実情が語られる。ネコズキ(猫好きよりも括弧付きの存在としての)人間と、意思を持ったものとしての猫とのコミュニケーションのとれてなさが、タイトルと俳句の形をした本文の分断として表現されいる、と深読みできなくもない。もちろん勝手な想像だけれども。
●キャスを聞きつつ、蝉捨てるが季語だとすると「蝉生る」という季語を意識したものだろうかとも考えた。「蝉生る」は時間をかけてようやくの羽化、成長と関連付けられるが、それに対応する形で「蝉捨てる」には長く育てた我が子の成長が自分のもとから急に離れる、それも第三者によって意図せずに阻害されるような響きがある。なんて。


このグループは特にそれぞれ毛色が違うので、結局のところやはり好みでの選択になってしまいそうです。もちろん(そしてこれまでのグループも)、時間を空けたり、人の話を聞いたりしているうちに評価の基準やウエイトが変わってくるかもしれませんが……連日あれこれ考えて、疲れた頭に潤いと前向きさをもたらしてくれた「困ったな」に一票。

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