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プラヌラ

 それははじめ天啓にも似た、けれども自分の内から小さく沸き起こるような衝動だった。
 僕はその日、ボーレ・ビルの理髪店前に傾いているガムボールマシンに一セント硬貨を込め、今度こそオレンジ色のガムが出てくるのを待ち望んでいるところだった。銀色のつまみを時計回りに回すと、硬貨が詰まったのか、四時のあたりでゴツッと音がして止まった。まじかよとため息をつき、理髪店の親父にばれないように、マシンを掴んで左右に揺すった。赤、青、黄色、黒、いろんな色のガムが球形のガラス瓶の中で飛び跳ね、そのうち今度は子気味いい音がしたので、どうやらコインは正常に戻ったようだった。ガラスの球面を反射した陽の光がなぞり、僕は思わず顔をしかめた。乾いた砂を含んだ微風が頬をなぞり、僕の舌と髪の毛をざらりとさせた。そのときはじめて、僕はこれからなにかを求められるのかもしれないと予感した。
 ガムは三つとも黒色だった。僕は道を間違えないよう、慎重に家に帰った。10歳の誕生日に買ってもらった自転車は、先週歩道の縁石をむりやり乗り越えてから、きいきいと音を立てるようになっていた。庭先に自転車を止め、玄関へと勢いよく飛び込むと、バスケシューズや縄跳びのかかったコートフックを眺めた。兄が階段の踊り場から顔を出して、何か探しているのかと聞いた。僕は帽子を知らないかと聞いた。
 兄は顎で僕を二階へと引き寄せ、クローゼットの中を二人してひっくり返した。父の海軍時代の帽子、母のパーティー用の豪奢な帽子、子どもの頃に被っていた気がする、耳の付いた帽子なんかが掘り起こされた。
「目当てのものは見つかった?」
 兄は聞いたが僕は黙って首を横に振った。
「もしかしてお前が探しているのは、学校の帽子かい?」
 兄は僕の目をまっすぐに見て聞いた。僕は答えに詰まった。
「あれは空からやってくるもんだ、こんなとこ探しても見つからないよ」
 兄の手に導かれて僕は再び表に出た。陽は少しだけ傾いていて、昼間の日差しの下よりも、幾分か空を仰ぎやすくはなっていた。
 幼いころによく遊んだ公園の芝生にたどり着くと、僕と同じくらいの年頃の子が何人も、立ち尽くして空を見上げているところだった。名前くらいは知っているやつも、どこの生まれか分からないやつも、同じ顔して空を見上げていて、まるでUFOを探している変な団体みたいにも思えたけれど、木陰のベンチに座っている老夫婦は「そんな時期かね」と言い合ってほほ笑んでいた。
「これから一緒に生きる子たちだ」
 兄は肩をポンと叩いて、僕に、彼らの輪に加わるよう促した。僕はたどたどしく歩いて、頭は仰角、空を見つめたまま、青い、柔らかい芝生を一歩、二歩と踏みしめた。
 遠くの嵐が砂を巻き上げたような、薄黄色い空の中に、ぽつぽつと、黒い点のようなものが見えた。点は四方に吹かれてくるくると回りながら、それぞれに別な軌道を取りながら、こちらにやってきているようだった。
 はじめは一塊の黒い点に見えたそれらは、地面に近づくにつれて、色と形を様々に変えた。昼間のガムボールのようなそれらは、目を凝らしてみればやはり帽子で、僕は振り返って兄の頷くのを待った。兄はただ自分で決めるんだと言いたげにほほ笑んでいるだけだった。やがて子どもたちのうちの一人が手を伸ばした。空に突き出された両手は一組、二組と増えていき、僕もそれに加わる頃には、芝生は潮にゆられるイソギンチャクのようになった。
 一人の手にすっぽりと吸い込まれるように、最初の帽子が落ちた。白い、ピカピカの、球団のロゴが入った帽子だった。隣の女の子の手には浅いグリーンのニット帽が、町医者のニックの手には真っ赤なベレー帽が納まった。
帽子を手にした子たちが少しずつ帰路に就く中、僕は自分の帽子の来るのを待ち焦がれた。期待が焦りに変わり始め、もうだめかと目を瞑った時、両手の中指の先に、滑らかな手触りを感じて、目を開けるとそこにはオレンジ色の、柔らかいフェルトの帽子が納まっていた。
「お前らしい帽子だ」と兄が言った。
「今だけのおまえらしさだ」とも言った。
 僕は兄の卒業式のことを思い出していた。皆一様の、四角い、黒い帽子が一斉に空に解き放たれるところを。どれが兄の帽子だか、区別もつかなかったことを。
「お前はその柔らかさを守れるか」
 帰り道、兄はひとりごとのようにつぶやいた。
「まずは名前を書かなくちゃ」と僕が言って、「そうだな、刺繍してやるよ」と兄が返した。

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