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オセロ

衣替えのお話です。

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オセロ

 水っぽい空気は重たくも冷たい。
 空気は、たちまち野暮ったい風になって、慇懃無礼に正門の隙間から押し入ってくる。すると今度は、空気の入った分だけ入れ替わるように学生が出ていって、舗道に飛び出すなり、蜘蛛の子を散らすように分かれてゆく。
 こういう時、子どもたちは群をして個とならしむきらいがある。妙に生真面目くさった男子生徒が、通学用ヘルメットのあごひもをきっちり付けて真っすぐ帰路につくのをのぞけば、大抵は校門の脇に立ち止まってお喋りをしていたり、ふらふらと横に広がって歩きながら、やっと使えるとばかりスマートフォンを取り出して、写真や動画で遊んだりもする。
 酔っぱらいの千鳥足みたいに軌道の読めない男子生徒を避けながら迷惑そうな顔をしているのは直帰中のサラリーマンだろうか。ちょうど犬の散歩の時間が重なったらしい上品そうな夫人は、彼らを通して遠い学生時代に思いを馳せている様だ。
 通りすがる人々の目に、学生服は風景のように映る。道辺の女郎花(おみなえし)は晴れやかだ。中秋の名月も近い。今衣替えを終えようとしている子供たちは、そういう風物詩の一つとして、町を駆ける。

 誠一は、そういう光景の一切合切を、ぼんやり内側から眺めていた。人肌の残る教室の窓辺に頬杖をつく彼は、まだ教室に残っている女子生徒からしてみれば、ちょっと気障(きざ)で様になっているようでもあった。事実彼は同学年の生徒の間で、少しは知れた人気者であったし、それに無自覚と言う事もなかった。
 教室には誠一の他に、彼のことを噂に上げている女生徒が二人と、スマホを眺めたり本を読んだりと落ち着かない男子が一人いるばかりだった。
 やがて二人組の内、相方に目で押された女生徒が一人、おずおずと窓辺に歩み寄った。
「ねぇ、誠一君、なに見とん。なにたそがれとん」
「え? 空気見ちょったわ」
「うっそぉん、絶対違うじゃろ」
 女生徒は肩を小突いて笑う。
「え、てか、女子見ちょったんやないん。気になる人とか見ちょったんじゃろ」
「それそれ、あのばあさん、あのばあさん見ちょって」
「はぁ、うけるんですけど」
「あれ俺の初恋。初恋の人じゃけ」
「うわっ、おもんなぁ」
 大体そう言った会話を一通りしてしまうと、あとは互いに話題の種も尽きて、女生徒はおずおずと自らの机に戻っていった。机に腰を乗せていた残りの女生徒は一連の会話を動画に収めて、話が終わるや加工を始めた。冗長な部分は切り取って、エモーショナルなエフェクトを全体にまぶした。ハッシュタグに青春と打ち込んで、その雰囲気、瞬間を自分の中で再生産する。
――なるほど、これが青春というやつなんだ。
――私たちは今青春の真っただ中に居るんだ。
 満足げなクラスメイトを余所目に、誠一は再びたそがれ始めた。窓の下で校庭に向かう同級生が手を振ってはやし立てた。試験期間で部活もない。一度家へ帰ってしまうと二度手間だが、直接塾へ行くには早い時間だ。自習室の椅子は硬くて妙に集中できない。風景ばかりが綺麗で、そのくせ物事はどうしてか、ぴったりと嵌まってはくれない。夕焼け前のうすぼんやりした時間は、誠一にとってそういう時間でしかなかった。

「帰らんのん」
 教室に声が戻ってきた。誠一は大袈裟すぎない程度に振り返った。声の主は二人の女子の内、先ほど動画を撮影していた方で、それは誠一にではなく、二つ後ろの席の成宮という男子生徒にかけられた言葉だ。
「あ、ごめんね、帰って欲しいとか、そういうんじゃなくって」
 沈黙に耐えかねて、女生徒はそんな言い方をした。成宮は曖昧にはにかんで「ん、もう帰すぐる」とだけ返した。
 成宮を取り巻くクラスの環境はあまりいいものとは言えなかった。彼に特別大きな瑕疵(かし)があるわけではなかったけれども、どうやら女生徒と喋ることを苦手としている様だった。それは姉のいる環境で育った誠一にはいまいちピンとくるものではなかったけれども、きっと知らない者と話す時、言葉と遠慮が頭の中にいっぱいになって、上手く口に出せないのだ。誠一も、知らない大人と話す時や、親戚の小学生と話す時なんかにそういう事があるから、全く分からないという訳でもなかった。
 それは多かれ少なかれ、誰にでもあることなのだ。事実、成宮の方でも親しい友人の二、三はいたし、別に気にする素振りを見せていなかった。
 とにかく成宮がそういう話し方で躓(つまづ)いている間に半年が過ぎ、クラスの女子や、誠一を含め、女子と仲良くできる男子との間にはうっすらとした膜ができた。必要なものだけ透過して、それ以外の感情が行き場を失う透明の膜だ。クラスメイトは成宮を嫌ってはいなかったけれども、自分たちと同じものとして捉えはしなかった。そしてこういう、今のような時に、そんな不寛容は形をもって現出するのだった。
 女子の二人組は一度話しかけてしまった分、話を続けないわけにはいかないという様な素振りで中腰に立ち上がった。
「成宮君、何読んじょるん」
「別に……まあ、こういうの」
「あ、あれじゃ、里穂がアニメ見ちょるやつ。面白いん」
「まあ、面白いよ」
「そうなんじゃぁ。なんかさ、おすすめとかある?」
「……ワンピースとかも読むよ」
「ワンピース? めっちゃ好き! なぁ、優衣しゃんも好きやんなー」
「ねー、エースん所ね、めっちゃカッコええし――」
 それからの会話を、誠一はあまり聞いていなかった。彼は、自分の中に生まれた小さな不愉快のやり場に困っていた。誠一は、この春に入学してからのち、ずっと成宮になることを一つの幻想として抱えていた。それが今、彼の世界への近づき方を見るに音もなく崩れ、後には曖昧な憧れだけが残されていたのだった。
(所詮幻想は幻想なんだ。僕に勝手に幻想を抱かれて、成宮もたいそう迷惑だろう)
 成宮は誠一の気にしているのに気が付いたようだったけれども、別段話に加えると言う様な事もなく、居所の悪そうに机の角なんかを見ている。女子生徒は男子二人を半ば無視して喋り終えてしまうと一言「邪魔してごめんね」と言って再び自らの席へと戻っていった。成宮はそれきり本を閉じて開かなかった。
 女生徒のうち一人が友達と会うと言って鞄を持った。つられてもう一人も立ち上がった。二人は去り際、誠一と成宮の両方に手を振った。誠一は慣れた風に微笑んで、成宮は曖昧に挙げた手を止めたままゆっくりと下げた。
「ワンピース好きなの?」
 教室の、前側の扉が閉まってしまうが早いか、誠一は椅子の足を傾けて成宮の方を振り返った。成宮は虚を突かれて、誠一とまっすぐ視線を合わせたまま硬直した。
「まあ、普通」
 先ほどとは違う答えは誠一をさらに苛立たせた。誠一は、こちらは意識して、視線を外さなかった。少し意地悪をしようという気になったのだ。
「アニメとか見る」
「……まあ」
「おすすめは」
「……言ってもわかんないよ」そこで成宮は初めて目をそらした。「どうせ馬鹿にする」
 同級生の視線を追って、誠一は今しがた自分の投げかけた言葉が誰のための物だったのか、思い出すのに逡巡した。僕の言いたいのはそういう言葉じゃなかったのに。それは客観視すればするほど幼い感情でしかなかった。少年は小さく、自分にも聞こえないくらいに「ごめん」と呟いてからアプローチを変えた。

「俺、小さいころはアカレンジャーになりたかったんよ」
「……そうなん」
「今は消防士になりたいんよ。ここ卒業したら……まだ入ったばっかやけど、消防士の学校行きたい」
「そうなんだ」
 誠一はそこで言葉を止めた。成宮は二席前のクラスメイトが言葉を続けないものだから、少し興味が湧いて再び顔をあげた。それは相談事のような響きと間を持っていた。成宮からしてみれば、そういう込み入った話、他人の奥底にまで触れるような話を振られたことなんてなかったものだから、少し浮足立ってしまった。
「それで、消防士の勉強でもしてんの」
「いやー、まだやね。中学の勉強せんにゃいけんし。それにまだ親に言っちょらんのよ」
「親に反対されるん」
「バカ、まだ言っちょらんて言いよるやろ……でもまあ、うちの親なら反対はせんと思うけど」
「なんだ。頑張れ……その、ヒーローにでもなりたいん」
「ちょっと違うかな」
「じゃあ、人助けが好きなん」
「それも違う」
「じゃあなんで」
「言ったら絶対バカにするけん」
「せんよ、絶対バカにせんから……いや、言いたくなかったらええんじゃけど」
「赤いのが好きなんよ」
 成宮は反応に窮した。答えがあんまり唐突だったものだから、何か自分には解けない謎かけがされているのではなかろうか、バカにされているのはむしろ自分の方ではなかろうか、そんな卑屈な想像が脳裏をかすめたのだ。けれども誠一は語るのをやめず、だいたい次のようなことを言った。

 小さいころに憧れた戦隊ヒーローのリーダーはいつもレッドで、だからレッドというのはとにもかくにも強く、誠実で、熱血で、正義感にあふれた男の子の理想を体現したものだった。太陽、燃える炎、火山のマグマ、新幹線のこまち、消防車だって赤色をしている。赤色っていうのは、まさに俺のような男のためにあるものだと信じて疑わなかった。
 そればっかりに、小学校の六年間、俺はどうしても納得のいかないもやもやを抱えていなければならなかった。ランドセルも、上履きも、筆箱も、身の周りの赤という赤は女子のもので、しかも誰もそのことを不思議に思ってなかったのだ。
 四年生のころ、担任の先生に「どうしてランドセルは女子が赤なのか」と聞くと先生は「別に決まってないよ、みんな好きな色のを持ってるだろ」なんて言ったけれどもそれは嘘だ。確かに女子はチョコ色とかラベンダー色とか、リボンの刺繍のついたピンク色のとか、好き勝手な色を選んでいる。でも、俺が赤いランドセルを背負うのはどうだというとみんな一揃いに「キモい」というのだ。
 それはだって自分勝手じゃないか? 自分は好きな色に好きな名前つけて背負ってきているのに、ひとが好きな色を背負っていたらキモいだとか、不公平が過ぎるだろう……でも、それも昔の話なんだ。俺自身も、六年間学校に通っている間、いつの間にか、本当にいつの間にか、そういう色分けに慣れてしまったんだ。中学に上がって好きな鞄を買う時、俺は気が付いたら赤い鞄を避けていた。別に赤でもよかったんだろう。赤は今でも好きだから。でも、いざ選ぶ段階になった時、俺は急にクラスの色使いのことが気がかりになって、頭から離れなくなったんだ。俺はクラスにとって何色なんだろうって、それだけがずっと気になって、そういう見えない物に引っ張られて……みんなそういうのを気にしてるんだ。俺はそれが何だか、健康じゃない気がするんだよな。でも、そうしていた方がどうしてか上手くいくんだ。それがなんだか、どうしても許せないときがあるんだ。

 話が済んでしまうと誠一は「わりぃ、変な話して」と言いかけて止めた。成宮は一言「分かるよ。でも俺は好きな色買えばいいと思う」と返した。それは最短の模範回答だったけれど、成宮の方では全く別なことを考えていた。
(相談をこなした。クラスの陽気なやつからの相談を……どうだ、僕は相談を受ける役回りなんだ。まだ僕の居場所は残されてるんだ……)
 成宮の表情にある種の羨望と目論みを見て、誠一は今しがた自分のしでかした長話が、ほんの少しも伝わらなかったのにがっかりした。誠一は成宮に、そういうふうに思ってほしくはなかったのだ。誠一にとって成宮はもう一人の自分を見ているようで、彼の不器用さはいつも気がかりなところがあった。けれどもそれは一方通行の、ちょっと不遜な願望だったかもしれない。

 誠一は下校道に流れる生徒たちを再び見下ろす。誠一がここ数日熱心に追いかけていたのは、もちろん空気でも通行人でもなく、自転車置き場の脇で何やらおしゃべりをしている三人の女生徒だった。彼女らは二日に一度くらいはそうしていて、校門脇の教師や一階の職員室からは見えないのだろうが、ぼんやり外を眺めることの多い誠一にはよく目につくのだ。
 彼女らはクリーニングから下ろしたばかりの冬服に、おそろいの紺色のカーディガンを合わせている。しかし昨日まではそうではなかった。女生徒の内、真ん中の、内気そうな眼鏡の娘は、十日間ある服装移行期間のうち、六日間を夏服で過ごしたのだった。
誠一はふとオセロゲームを想像する。新しい制服に挟まれたクラスメイトが次々と裏返っていく。白い盤面は少しずつ黒くなる。移行期間中なら自分に合った方を選べばいい。けれども仲良しの二人がおそろいのカーディガンを見せ合うその真ん中で、一人だけ違うものでいる事に、言いようのない怖れや、恥じらいがあったに違いないのだ。彼女はそのぎりぎりまで抵抗して、あと二日というところで遂に耐えられなくなって、今日は冬服で立っている。
 三人組は校門で別れて、お互いが見えなくなると、彼女はふと立ち止まって、自分の手をじっと見た。少し大きめの、余ったカーディガンの袖をじっと。それは下校の喧噪の中にあって、真に一瞬の出来事だった。
(昨日までは白だったんだ。昨日までは……)
 表情は見えない。誠一は、あの娘となら仲良くなれるかもしれない、などとぼんやり考えている。


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