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真理子が知らなかったこと

 予習が不十分のまま授業は始まった。
 画面の右上にボタンが表示される。マークの意味は分からない。右にある方が「通話開始」だと、入学したての頃に教わった。教わった通りにボタンを押すと画面が展開し、先生の顔が大うつしになった。
「みなさん、ご飯はちゃんと食べましたか? 食後は眠くなると思いますが、あと1時間、頑張っていきましょう。では今日は、教科書の21ページから」
 教科書は閉じたままだった。私はカメラ越しに先生の話を聞くふりをしながらWikipediaを開く。今日扱うはずの、日本の詩人のページを開く。競馬が趣味。劇団を結成。そういう、高校生が知らなそうなことを削って、私は私の知識をカスタマイズする。
「『海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり』。この詩について……」
 先生が名指しする。オンラインになった40人の子ども達の元へ等分に、私の名前が配られる。
「真理子さん。本条真理子さん。では次の詩の感想をお願いします」
 マイクのミュートを解除して、カメラの方をまっすぐに見る。
「なんだか、私たちと同い年か、作者が若いころに作った歌なのかなと思いました」
「あら、その通りですね。この歌は作者が18歳の頃の作品です。私には懐かしい記憶が思い浮かびますが、感性の近いみなさんなら、違った印象を覚えるかもしれません。素晴らしい気づきです」
 先生は「素晴らしい」を繰り返す。そう教えるように教えられてきたのかもしれない。もしかしたら、私が詩の鑑賞なんかしてなくて、ただ反射的に画面で拾った情報を画面に返しているだけなのを、一番よく知っているのは先生かもしれない。でも素晴らしいと言ってくれる。言ってくれるから、ズルがやめられない。
 けれどもその日の授業には少しだけ続きがあった。
「……ですが、昔と今とでは、環境も随分違いますよね。みなさん、海を見たことはありますか」
少し間をおいて、生徒のアイコンのうちのひとつに、Noのスタンプが点灯した。それを皮切りにNoはぽつぽつと増えていき、やがて画面を埋め尽くした。先生は全員が反応し終えるのを待って話を続けた。
「そうだと思います。“相互汚染”を避けるため、保全価値の高い地域へ無許可に立ち入ることは禁止されています。この国の海岸線のほとんどが保全区域に指定されたのが30年ほど前。ですからみなさんが自由勝手に本物の海を見る機会は、ほとんど存在しなかったはずです。でも歌が詠まれた当時はそうではなかった。海を知らないのは少女の個人的な事情だったわけです。すると少し読み方が変わってきませんか」
 何人かの生徒のアイコンに、Sureのスタンプが表示された。けれども今度は、スタンプがクラス全体にまで波及することはなかった。それを受けて先生が「あまりピンとこないかと思います」と言い、やがて画面には課外学習の案内が表示された。
「来週の日曜日に、保全区域での課外学習が予定されています。もちろん参加は強制ではありません。けれどももし、今日の授業で興味を持った人がいたら、ぜひ海に行ってみてください。何か気づきがあるはずです」
 先生はそう締めくくるとマイクをミュートにした。先生がマイクをミュートにするのは授業後の復習タイムの合図だったが、私たちにとっては専ら放課後のお喋りタイムだった。ミカが私に話しかけてきて、そこに山本も加わった。二人は私のことを本条真理子と呼んだ。普段ハンドルネームで呼び合う私たちの間で、その日フルネームを呼ばれた子をはやし立てるのがちょっとしたブームになっていた。
「本条真理子は海行くの」
「わかんない。気にはなるけど」
「えー、マジメ。だってさ、興味なくない? 動画見ればさ、わかるやん」
「別に行かんくてもいいよ。てか保全区域って汚染とかヤバイらしいよ」
 2人が話している間、私は先生の、斜め線が入った物言わぬマイクボタンをじっと見つめていた。進学の有利と友情の有利の両方を勝ち取らなければならない私は、始終曖昧な返事を繰り返しながら、やがてまどろんで瞼を閉じた。
 脳裏に海が広がった。青い海。広げた右手の端から左手の端まで、なだらかな水平線を描きながらつながる海。沖には船が横たわり汽笛をならす。寄せては引く波が心地よい音を立てる。白い砂浜には貝殻や流木や、異国の瓶が寝そべっている。ほら、ちゃんと想像できるじゃない。ちゃんと海のこと知ってるじゃない。
「真理子」
名前を呼ばれて顔を上げた。画面に「海」と表示されていた。私は思わず、直接海に語りかけられたような気がしたけれど、それはクラスメイトの名前だった。クラスルームには私と海と、先生の三人しか残っていなかった。思いのほか長い間眠っていたらしかった。
「真理子は海に行かないのかい」と海は聞いた。そして私が最適化された答えを探すよりも早く「僕は行くから一緒に行こう」と続けた。先生のアイコンにExcellentのスタンプが表示されて、私の逃げ道は絶たれてしまった。

 よく晴れた日曜日は久しぶりだった。外出用の動きやすい服を着て、私はバスを待っていた。月一の登校日に使うような錆ついたバスが来るものとばかり思っていたけれど、目の前に現れたのは古いスパイ映画に出てくるような、窓のない黒塗りの車だった。バスが到着するまでの15分で滝のように汗をかいていた私は、車内の涼しさにやられて少し眩暈を起こした。くらっとした先に座って、微笑んでいるのが海だった。
「ずいぶん待ったんだ」「たった15分」と言い合って、しばらく沈黙が続いた。結局、課外学習に参加したのは私と海だけだった。窓が無いので景色を眺めることもできない。車内はグレーの一色で、移動の間、私は私の存在が溶けていくような不可思議の感触に揺さぶられ続けた。沈黙に耐えかねて海に話しかけようとしたけれど、口を開くのは海の方が少し早かった。
「真理子、いつもいい子の振りしてるでしょう」
「はい……え?」
「この前の授業だって、詩を読み込んだふりしてた。上手く隠してるようだけれどさ、大方こっそり、詳しく書いてあるサイトとか探して見てたんでしょ」
「……あの、それさ、そんなこと言うために誘ったの」
 声が震えていた。図星をつかれて混乱したのかもしれない。海は私の問いかけには直接答えず話をつづけた。
「ああいうのってさ、真実は全部画面の中にあるって、信じてなくちゃ出来ないと思うんだよね。だから真理子に来てほしかったんだ」
「ふ、ふうん……じゃあ海は、私は何も知らないんだって言いたいの」
 そこまで不遜じゃないけど、と海は言った。スタッフらしい人が座席までやってきて、私たちにゴーグルとマスクを配り着用を促した。“相互汚染”対策。人類が環境へ与える負荷と、環境から授かる負荷とを同時に減じるための処置。授業でも何度も取り上げられ、知識はあったけれども装着するのは初めてだった。隣を見ると、そこには銀行強盗みたいになった海がいた。私たちは表情を欠いたお互いの顔を見て思わず笑った。

 バスが止まり、促されるまま地面に足をつけた。駐車場の白線は消えかかり、割れたアスファルトの間から雑草が伸びていた。案内スタッフが旗を振って、私たちはそれに続いた。駐車場から伸びる小道をたどり、ひとつ丘を越えるとそこはもう海だった。
 海は、画像検索で見た通りの青さと広さを持っていた。白い砂浜に穏やかな波が打ち寄せる。水は、近いところでは透明で、遠くに目をやるほど深い青を呈した。それでも空の青との境界ははっきりと弧を描いていた。私は少し得意げにさえ思った。「感動しました」と先生に話し、ミカや山本に「こんなもんかって感じだったわ」と話題を提供するところまで想像していた。
 そんな私の手を海がつかんだ。海は私の手を引いてぐんぐんと岩場の方へ向かう。スタッフが両手を口に当てて「あまり遠くへ行かないように」と言い、海が「大丈夫です」と返事をした。大人の目の届かない木陰に来ると、海はおもむろにゴーグルを外した。
「なにしてるの!」
 叫ぶ私の口元を抑えて、海は「ここに来るのは2回目なんだ」と言った。
「優等生ちゃんに質問。環境から授かる負荷って何だと思う? 毒? 光? ずっとわからなかった。試してみたかったんだ。それで以前ここに来た時、こっそりこれを外してみた。……でも僕は生きている。びっくりしちゃうよ。これ、ただ彩度を落とすだけのものなんだ」
 彩度を落とすだけ。でも、何のために。混乱する私の口元から、頬を伝って耳元へと移る海の手。
「色彩が感情に及ぼす影響についての研究は、もう随分前から政治利用されてきた。想像だけれどね、僕らの町の色彩は調整されたものだ。人が考えすぎないようにするための工夫だ。でも、自然の中ではそうはいかない。人は自然の色までは操れない。保全区はね、人が自然の大きさ、あまりの鮮やかさに感化されて、その多様性や、人間の小ささや、自らの思考停止に気づいてしまうのを防いでいるんだ」
 海の告白はいささか信じがたいものだった。スタッフが様子を見にやってくるのも時間の問題だ。私は逡巡した。けれども、最後には好奇心が勝った。そっと添えられた手に促され、私の手はゆっくりと、ゴーグルに伸びた。

 先生が私の名前を呼ぶ。私はもうWikipediaを開けない。
「では本条真理子さん。実際海に行ってみて、何か見え方が変わりましたか?」
 私は答えに窮していた。画面のことしか知らない級友たちに、海の色を語るすべを持ち合わせてはいなかった。私は咄嗟にカメラをオンにして、両手をいっぱいに広げてみせた。両手は画面の中には収まらないで、手首から先の部分が切れてしまっている。
 生徒のアイコンの1つに「LOL」と表示された。やがてその数は増えていき、笑いは瞬く間にクラス全体に広がった。笑っていないのは先生と海だけだった。私は泣きそうになりながら、ちぎれんばかりに両腕を広げ続けた。

●かぐやSFコンテストの応募作品です。



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