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紀里谷和明:「世界の終わり(CASSHERN)」から「世界の終わりから」まで

映画監督・紀里谷和明と、彼の最新作にして最終作「世界の終わりから」についての感想文を書きます。

しかし実はこれは感想文というより、ほとんど「思い出話」です。そういう話し方にして、自分の個人的な記憶と感情を常に鏡に映さないと、僕にとっての紀里谷和明とこの映画のリアルな感触が、どうしても出ませんでした。

1年前に映画「世界の終わりから」を観てからずっと、何かこの映画について書きたいと思っていました。「紀里谷和明とこの映画は、自分の人生に関わっている/関わっていた」と感じたのでそう思ったわけですが、何百本、何千本映画を見ても、なかなかそこまで思うことは少ない。なのでこの文章は同時に「僕の話」にもなってしまいました。

そしてできる限り正直に書きたいと思います。正直に書かないと、この映画が一体何なのかちゃんと表現できない。僕は、紀里谷和明についていまだ何もわかっていないくせに、極めて失礼なことも含めて、正直に書く必要があります。紀里谷和明監督に対する僕の考えは、どうしても複雑なので、キレイごとだけ書いているとすぐ嘘だとバレる。

ということで、僕にとっての紀里谷和明を振り返りつつ、唯一無二の映画「世界の終わりから」について書きたいと思います。

◆紀里谷和明の最初の印象


僕は、宇多田ヒカルが紀里谷和明というミュージックビデオディレクターと結婚した、という報道で、彼の存在を初めて知りました。僕以外もそういう人が多いと思います。写真家・MVディレクターとしての彼を先に知った人の方が少ないでしょう。

僕は自分の人生に関係ない有名人について、なんとなく好きになることはあっても、わざわざ嫌いになったりまではしないタイプです。何しろよく知らないんだから、誰でもそれが普通かもしれません。

そのはずが、しかし、彼の存在を知って後、断片的に入ってくる彼に関する情報が積み重なっていくと、よく知らない癖に、彼は自分にとって「どちらかと言えばいけ好かない方」に属する人になっていきました。

どこのインタビューだったか忘れましたが、「このまま灘高行って東大入って、なんて人生はバカらしいなと思ってアメリカ行ったんです」みたいなことを言って、キラキラのミュージックビデオを撮って10代のディーバと結婚するようなギラギラのいかにも業界人な男を、当時20歳前後のとんがっている文学青年が、わざわざ好きになるわけがなかったのです。「はぁそうですか」と僕は思った。

というか当時の僕は今より更にバカなので、MVディレクターとか広告クリエイターとかは大衆に媚びて瞬間的な快楽だけ充足させて金儲けしているくせに芸術家ぶっている連中で、個人というよりカテゴリーとして、みんなバカだとその頃は思っています。勿論バカなのは僕の方で、当時は、自分がめちゃ凄いと思っていた映画「ファイトクラブ」の監督がCMディレクターでMV監督出身だったことすら知りません。

中学生の彼がどういうリスクを取ってアメリカに渡ったのか、どれほど苦しんだのか、それとも別に大して苦しまなかったのか、その時わざわざ想像していない。もちろんそれは今も分かりません。

そういう、「どうでもいいけど別に好きじゃない人」紀里谷和明が、映画を撮る、というニュースを知りました。2003年か2004年かのことで、これが「CASSHERN」です。

◆CASSHERN


今では全く感想は変わっていますが、当時の僕のこの映画に関する感触は、率直に言って観る前からネガティブでした。

まず、これは明らかに「コネ」だろうと思った。宇多田ヒカルの夫じゃなかったら、MVしか作ったことない、今まで映画を一つも作ったことない彼がこんなキャストで映画作らせてもらえないだろう、と僕は思った。それは特にオリジナリティのある発想ではなく、たぶん割と多くの人がそう思っていた。
コネを持たない学生は、コネを忌み嫌うものです。作品を完成させるということは常にとてつもなく困難で、それにあたっていかなる手段をもってしても金を集めて作るやつがめちゃくちゃエライ、という発想は、当時まだ学生だった僕にはありません。彼がそれまでの仕事を通して、日本のエンターテイメント界でどう信頼を積んできたかも知りません。企画書の中身も、それを通すにあたってどんな困難があったかも知りません。

しかし僕は結局は観ました。予告編で、THE BACK HORNの「レクイエム」をバックに、白色の超人が鋼鉄のロボット兵の大群を切り裂くビジュアルだけはすでに強烈だったからです。THE BACK HORNの楽曲は絵に完璧に馴染み、ずっと昔から存在した音楽のように、初めからクラシックでした。

そして観た結果ですが、古い、と僕は思った。

当時、2004年です。もう、いろいろとみんな次に進もうと試みている時代でした。
庵野秀明がTHE END OF EVANGELIONをやってから5年以上経っています。
村上春樹がデタッチメントからコミットメントへ、とかなってからも何年も経ってます。
宮崎駿がハウルの動く城で、ドラマツルギーよりも己の精神と印象に忠実なイメージによるポジティブでサバイバルな映画を作ったところです。
三浦健太郎がベルセルクで蝕を描いてから5年以上経って、グリフィスが受肉したところからも数年経ってます。

当時それまでに僕たちは、「エヴァフォロワー」を死ぬほど見ました。薄暗くて憂鬱で殻に閉じこもった陰惨な物語たちです。僕はとにかくそういう「絶望ゲーム」な物語が嫌いだった。当時、「失われた何とか年」とか言われていた最初の10年が経った、とてつもない就職難の時代です。うだうだ言ってないでサバイブしなければならない時代です。そういう時代に大人が余裕こいて「絶望」とかぬかしているのはバカバカしくて本気になれません。
全く共感なんかしない。
もう21世紀なのにいつまでこんなことやってんだよ、勝手にやってろ、俺は職を探す、と僕は思いました。

僕にとってCASSHERNはそういう「既に古い」カテゴリーに属する映画でした。

加えて、やたら戦争に苦しんでいる人々の描写にもリアリティ的な違和感がありました。
日本の創作物において、戦争は常に重要なファクターです。しかし、僕の観測範囲が狭いせいですが、日本のフィクションにおける戦争は、表面的に戦争から遠ざけられていることに対する苛立ちと欺瞞に抗議するものであったり、平和な状況から戦争に巻き込まれていく物語であったり、完全に別世界で戦争を立ち上げる物語をアニメーションで描くということが多い気がします。つまり、いったんは「非戦闘状態の現実社会を前提にし、何らかの回路を通じて戦争にアクセスするもの」であることが多かった。

CASSHERNもそれらと同様の、架空戦記として戦争へアプローチする作品なのですが、どうも対立概念としての「非戦闘状態という欺瞞」が感じにくい。今戦争が起こっていない日本、ではなく、今戦争が起こっている世界、としての認識が先立ち、ダイレクトに現実の戦争を自分事にし過ぎていると感じられました。極東の島国の、いちミュージックビデオ監督が描く話にしてはあまりにもシリアスすぎる。僕はこの時、紀里谷監督に対してそういう大問題を扱える人というイメージを全く持っていません。現実には俺たちは戦闘に巻き込まれていないのに、そうであるかのように過剰に虐待的で安易にトラウマを乱発する映画に見えました。当時、海の向こうで戦争しているのはアメリカとイラクおよびテロ組織でした。少なくとも表面的には、僕たちはそれから遠ざけられていました。

それは登場人物の顔にも表れています。キャストは全員、普段テレビのバラエティ番組ではしゃいだりドラマで平和に恋愛に興じている日本人のため、ガチ戦争の当事者としてどうあがいても違和感があります。伊勢谷友介が戦争に行って罪のない人を撃ち殺して苦しむことにも、麻生久美子がなぜ人は戦うのかな、と言うのにも、当時の僕にはそこまでリアリティがなかった。
それが映画のストーリー上、戦争どころかとんでもない大破局まで行くので、全体的にちぐはぐな感じを受けたのです。

と、こういう当時の率直な感覚を振り返ってみると、まるでこの映画のことを全然面白いと感じていなかったように自分でも読めます。しかし、実際に思ったことは、もっと複雑でした。

僕は初めて見たときからすでに、「CASSHERN」のことを古いとかちぐはぐなところがあるとは思っても、ぜんぜん嫌いではありませんでした。古かろうとなんだろうと、エヴァフォロワーだろうとなんだろうと、欺瞞だろうとなんだろうと、この映画の真剣さはかなり伝わってきたからです。作品において真剣さは一番重要なもので、たとえその思想が自分と合わなかったとしても、真剣さは真剣さです。真剣であることは、自ずから真実性を帯びます。

それに、今から考えればCASSHERNがやった、「コミック(的)ヒーローをハードな実写化で語り直し、新たなリアリティで問題を問い直す」というのは、2008年にクリストファー・ノーランが「ダークナイト」で完成させることを思えば、古いどころか潮流の端緒と言えるわけです。そんな視点は当時の僕にありませんが。

なのでCASSHERNは、そうした、古い感覚と新しい感覚とクラシックな感覚とちぐはぐな感覚が混ざり合った、複雑な歯ごたえを僕に残していました。そういう複雑さ、割り切れなさは、次の作品への期待となります。

そのため、僕は次回作の「GOEMON」は、劇場に公開初週に見に行ったわけです。2009年のことです。

◆GOEMONとその後


ところがこのGOEMONが、当時の僕にとっては酷い映画でした。公開当時に一回しか見ていないのでもうちゃんと覚えていないのですが、とにかくひどかったという記憶だけははっきり残っています。

GOEMONは簡単に言って、
・悪意に満ちた恣意的な物語(=愚かな主人公は悪役よりも遥かに呪わしい)
・実写とCGの融合が上手くいっていない(=CASSHERNより面白い絵がない)
という映画でした。

今観たら別の印象を持つかもしれません。僕が、「愚かな主人公の愚かな物語」は、「神話の中で神に翻弄される哀れな人間の悲劇」とみなせる場合があると知り、そしてそういう主人公に共感できるようになったのは、30歳を過ぎてからです。自分のことを賢いと思っている若いうちは、そういう物の見方はできません。

しかしとにかく当時28歳の僕にとってGOEMONがきつかったのは事実です。こりゃいかん、となった。それこそGOEMONの公開は、くだんのノーランの「ダークナイト」の1年後です。海の向こうでノーランが本物のトレーラーをさかさまにひっくり返しているときに、彼我の差が半端じゃない、と思った。

そしてそう思ったのは僕だけではなかった。僕はあの頃から現在に至るまで、まだ、GOEMONを評価する人間に会ったことがありません。
この映画の決定的な失敗によって、紀里谷和明は日本の映画界において完全に干され、誰からも馬鹿にされてよい存在=ネットリンチの対象になってしまったと思います。

GOEMON以降数年間、ネット上のあらゆる言説や批評サイトにおいて、紀里谷和明はバカにされる存在でした。

僕が最も印象的に覚えているのは、製作者自身が駄作と悔恨する、あの「ドラゴンボール・エボリューション」の次回作を紀里谷和明が監督する、というガセネタが広まった時のことです。
CASSHERNとGOEMONを観たやつも観ていないやつも(見ていないやつの方が多かったに違いないですが)みんなでこの弄りがいのあるネタを消費していた。
そしてこれに対して紀里谷和明は本気で怒っていた。彼は決してスルーしなかった。それもまた火に油を注ぐ結果となりました。

これは100%ただのイジメですが、僕もそれをどこか仕方ないと思って見ていた。
誰かを寄ってたかって殴る行為は常に最悪です。今となっては、この時自分がこれを最低な行為だと指摘できなかったことが悔やまれます。悔やまれますが、しかし無理だった。何しろ僕自身が実際に見たGOEMONに怒りを覚えていたのだから。単に加担しないことしかできませんでした。

そして日本で紀里谷和明は忘れ去られました。彼はハリウッドに行き、「ラストナイツ」という映画を作った。僕はその制作のニュースをネットで見ましたが、映画を観てみようとは思いませんでした。

GOEMONのショックが残っていたし、その少し前にポン・ジュノの「スノーピアサー」を観て、あのポン・ジュノですらハリウッドで映画を撮ったらこの程度の脱臭されたものにしかならないのだ、と思ったからです。ハリウッドは外からの文化を受け入れる仕組みがないのだ、と思った。紀里谷和明が撮るものがポン・ジュノよりすごいものになるというイメージがなく、興味が持てませんでした。

そして僕も紀里谷和明のことをほぼ忘れました。
CASSHERNをもう一度観るまで。

◆CASSHERN再び


僕が久しぶりにCASSHERNを観たのは2023年の3月です。最初に観たときから20年近く経っています。特にきっかけとか理由はありません。なんとなくもう一度見たくなりました。久しぶりに映画を観返すときは大体そういうもんだろうと思います。

久しぶりに観るCASSHERNは、昔観たときとかなり印象が変わっていました。
というか、ただひたすら、めちゃくちゃ面白い、と思った。

自分が、レイアウトや色彩や演出のカッコよさを昔よりもさらに理解できるようになったのは確かですが、根本的なところで何かが変わったはずはありません。僕は僕で、CASSHERNはCASSHERNです。

しかしかなり違う映画に見えました。
とにかく、昔感じた違和感が全くないのです。

古いとも思わないし、戦争描写に対する違和感もない。あるのは真剣さと深刻さだけです。
当時僕は不可避的に、この作品を同時代の作品および現在の自分の状況と比較して観ていました。しかしもうそれから20年経ちました。ある程度長い時間が経って、時代との照合が必要なくなった。それに加えて、まだ実際に手を変え品を変え戦争が続いている。CASSHERN世界の人々が戦争にうんざりしているのと同じように、僕らも本当にうんざりしている。そういう状況により、この映画の説得力が増して真摯さだけがはっきり強調されるようになったのだと思います。

時を経て、当時感じたセリフの説教臭さや仰々しさや嘘くささがほとんど消え、願いと真摯さと虚しさ、どうしようもなさのイメージだけが煌々と残っていた。そして僕自身も若いころと違ってそれを受け入れられるようになっていた。それにはビジュアルの力もあります。

そう、当時はそこまで関心を持たなかった、都市やキャラのグラフィック・美術のカッコよさにしびれました。この映画のグラフィックはすべて、この時代の特有の技術と紀里谷組のセンスの融合です。とてつもなくかっこいいうえに、今ではもう再現不可能です。イモータン・ジョーの如き黒い呼吸器をつけた悪の大滝秀治が観れるのは世界でこの映画だけです。そんなことは観た当時は分かりませんでした。

20年経って、日本で漫画が実写になることに違和感がなくなっていたことも大きいと思います。後発の「ダークナイト」もそうだし、日本でも「るろうに剣心」他のコミックの実写化の成功もそれを後押ししていた。CASSHERNが達成していた「実写化」は、これだけでも偉大だったのだと分かった。

時が経ったことで、とにかく何もかもが美しく、現在に至っても真実性を保った、古い絵画のように完成されている。
20年ぶりに観るCASSHERNは完全に見事なカルトムービーと化していました。

そういうCASSHERN再鑑賞をして、たまたまなのですが、ちょうどその翌月、紀里谷和明の久しぶりの新作が公開されると知りました。

そういう流れで、僕は「世界の終わりから」を観に行くことになりました。

◆世界の終わりから


「世界の終わりから」を観た数週間後のGW、僕は横浜の磯子に行きました。劇中に登場した「浜マーケット」を見に行くためです。

しかし、実際のところは何かを見に行ったというより、とにかく映画に衝撃を受けたので、熱を冷ましに散歩しに行ったという感覚です。

和菓子屋で饅頭を買って、マーケットと街を散歩して、海を見て、それ以上特に何もせずに帰ってきました。磯子の街を眺めて饅頭食いながら僕が思っていたことは、「紀里谷監督、映画また作ってくれないかな」ということでした。紀里谷和明は「世界の終わりから」で監督業引退を表明しているのですが、それをあまりにももったいないと思った。

同時に、その気持ちはわかる気がした。
何故かというと、本当に、心底から、嫌な気持ちになっていないと、疲れ果てた末の最後の全力でないと、こんな映画は作れないだろうと思ったからです。

「世界の終わりから」の映像的な印象を一言で言うなら、とにかく、映画全体に満ち満ちた切迫感、迫力が半端じゃない、という作品でした。こんな迫力に満ちた映画を観たのは久しぶりでした。
世界が崩壊しかけているCASSHERNの世界をそのまま現代日本に持ってきたような感じです。

キャストの顔がまじで凄い。特に伊東蒼と夏木マリと冨永愛は、この3人がそろわないとこの映画成立しないというくらいの顔面力で、全編、彼女たちがこう言ってるんだからしょうがない、と思わされる説得力です。冨永愛のベラボーなスタイルでないと、女が何もない荒野に特殊スーツで佇む姿に納得できなかっただろうと思います。彼女たちを筆頭に、キャスティングが凄い。日本だろうと海外だろうと、こんな顔の人たちが揃うことは今までなかった気がします。
(そして僕の一番のお気に入りは若林時英です。ああいう空気を纏う人間にとてもあこがれる)

何より「迫力」は、技術の結果です。
映画公開後に紀里谷監督が開いてくれたTwitterのスペースでも説明してもらったことですが、まず音がすさまじい。冒頭、何の変哲もない夜の街を歩いているだけなのに、そして遠くから都市のざわめきが聞こえてくるだけなのに、それが不穏に鳴り響いて現実と非現実の境のような音です。カメラアングルは低く仰角で、人物を挟んで上方にそびえるコンクリートアーチは、黄色と緑色の光で内側を照らされています。現実にあり得る光だけれども、僕たちが生活空間で微妙に目にしない光です。

四の五の説明されなくても、これは迫力のある絵だ、と、見れば誰でも分かります。ただの街頭と、それに続くマンションの入り口が、崩壊する世界の兆候と象徴に見える。この映画ではCGが今までの作品に比べてあまり使われていません。そのせいで、撮影監督としての紀里谷和明の嗜好やセンスがようやくはっきり分かった気がします(撮影監督は本作では別の人ですが、監督の意向は十分伝わって来る)。

そして編集(カット)は常に音楽的です。セリフと情報に合わせてばさばさカットが切り替わる。この映画は夢と現実を激しく往復する映画なので、躊躇ったらあっという間に冗長になり緊張感がなくなってしまいますが、この映画は説明するよりも早くカットを切り替えて現実に起こっていることを見せるので、主人公と同様、こっちも疑ったりまごまごしている暇がありません。
全編、映像として退屈しようがない造りになっています。

しかしなにより、僕がこの映画にやられてしまったのは、技術的なことよりも、その精神のところです。

「世界の終わりから」は、本当に世界が終わる映画です。
そしてまた始まる物語です。

僕はそれを見て、全然変わっていない、と思いました。
CASSHERNの時と全然変わっていない。

勿論、厳密に言えば、紀里谷和明にも変わったことはたくさんあります。時間が経ってまったく変わらないものなどない。

しかし、映画全体を包み込む「根本的に人間の世の中というのはどうしようもない」という認識に基づく、諦めとも怒りとも悲しみとも一言では言い難い感情は、あの時と全く同じで、まるで変わらずずっと維持されていることに僕は驚きました。

世の中はどうしようもないものだ、と心底思って生きていくには、20年という時は長すぎる。ずっとポジティブでいることも極めて難しいですが、ずっとネガティブなままパワーを保つことはそれより更に難しい。ポジとかネガとか単純なモノでないことは分かっていますが、何にしても、明らかに神経に極度に負担を強いる考え方です。
しかも、その感情は、何らかの希望とともに形にされないことには作品になりません。希望を消さずに徹底的に暗く重くいなければならない。

「世界の終わりから」の公開は、2023年です。
庵野秀明は、かつて「全員死ね」と言っていたエヴァンゲリオンをすっきり大団円で終わらせました。
村上春樹は、かつて蓮見重彦や柄谷行人をはじめあらゆる批評家からバカにされていたのが、今や最強になって相手になる敵が誰もいなくなりました。
宮崎駿は、引退したり引退撤回したりするうちに、生きながらほとんど伝説上の人物になりました。
三浦健太郎は、怒りを維持できずに、物語を終えられずに、結末を友に託して死にました。

みんな状況や心情が変わっています。

紀里谷和明の状況は変わっていない。彼はぜんぜん偉くもなっていないし、評価もされていない。

そして心情も変わっていない。何で変わっていないかと言えば、僕はここでようやく気が付いたわけですが、紀里谷和明がCASSHERNを作った時の考えは、はじめからずっと、現在に至るまで、「本気」の考えだったからです。そして彼が感じた世の中の問題が全く変わっていないからです。

僕が初めてCASSHERNを見た時に感じた違和感は、「深刻すぎる」ことでした。極東のいちMV監督が抱く絶望としては重すぎるのではないか、と。しかしそれは僕の勝手な感覚で、紀里谷和明からすれば「状況は極めて深刻だ」という認識は、あの時点ですでに彼の真実だったわけです。「世界の終わりから」を観てやっと僕は分かったのですが、紀里谷和明だけは、あの時「絶望ゲーム」に興じていて、今やもうそれを忘れた人たちの中で、多分ただ一人、ゲームではなく本気で絶望していたのです。

いや、絶望という言葉は正確ではないかもしれません。彼の映画は、ほぼ100%絶望としか思えない中に一縷の希望がなくもない≒たぶんない≒あるかもしれない、を往復し続ける映画だからです。CASSHERNから20年間、他の人たちがそこから遠ざかっても、彼だけその極限にずっといる。
未来になっても変わっていないことによって、過去の行為の真実性が証明されることになった。

この映画の主人公の志門ハナは、誰に何を訊かれても言われても、常に本当のことしか言いません。分からないことはすぐ分からないと言い、知っていることは敵でも味方でも全員にすぐに明かしてしまう。彼女は嘘を絶対につかない。それは明らかに紀里谷和明自身の投影です。
他の人から頭おかしいと思われても、自分は本当にそう思っているのだから誤魔化すことができない。

繰り返しですがもちろん、紀里谷和明も「変わって」います。この映画を20年前に作るのは無理でしょう。
単純に映画の作り方について言えば、舞台を(ほんの少し先の)現代に持ってきたことによって更に紀里谷和明の意図が明確になったと言えると思います。
これまでのCASSHERNにしてもGOEMONにしても、基本的に架空の世界の物語です。舞台が現実世界になったことによって、われらと同じあるいはわれらの隣にいる存在が破滅に挑むことになり、設定的に映画全体のリアリティがこれまでとかなり違います。加えて舞台がほんの少しだけ先の未来であることで、何かがかすかに現実と違っている世界に見える方がむしろリアルと感じられる。何らかの回路によって日常から非日常にアプローチする、という手法は、おそらく物事を一段俯瞰で観る視点を獲得することによって可能になります。

しかしそういうこととは別に、彼自身が蓄えていた怒りと悲しみとか哲学とかは、驚くほど変わっていない。紀里谷和明がどれだけ人からバカにされてきたかを思い起こし、僕はこれは凄いことだなと思いました。「世界の終わりから」という映画がどうのこうのという以上に、全員からバカにされても彼はそれを大切に守り続けてきた、あるいは大切にせざるを得なかった、という事実に衝撃を受けました。

人が不変であることは別に重要ではありません。重要なのはその人の一貫性、ストーリーの方です。生きざまが物語として理解できるものになっているかどうかです。あの時ああだったから今俺はこうなっている、と死ぬまで言い続けられることが重要です。

そうだとしても、紀里谷和明のように、まるで偉くならないまま、人間一人の負担としてはかなり重い物の考え方での不変性と一貫性を共に保った例は、僕は初めて見たかも知れないです。普通の人間は炎が途中で燃え尽きる。

ということで、僕にとっての紀里谷和明の思い出を総体として一言で言うと、それは、「偽物だと思っていたものが本物だと判明するプロセス」となります。みんなから偽者だと思われていたやつが、一番本気だった。これは、物語だったら一番かっこよくてしびれる展開ですが、現実にこんな体験はなかなかないです。

紀里谷和明がすべての洗礼に耐えうる無欠の「本物」なのかどうかは僕には分かりません。しかし少なくとも「本気さ」「真剣さ」においては、さっき名前を挙げた他の誰にも負けていなかった。

だから僕はやはり紀里谷監督の次の作品がどうしても見たい。次こそは、本物と判明した状態で作る真の紀里谷和明映画が見られる、と思っているからです。

そこで僕はその作品を気に入るかもしれないし気に入らないかもしれませんが、そんなことは大した問題じゃないのです。今の僕は去っていくヒーローに対して「シェーン、カムバック!」と言っているような状態です。

ヒーローというのはやっぱり、物語の最後に去っていくものなのかもしれません。それともいつか戻ってくるものなのかもしれません。紀里谷和明自身の映画を観ても、そのどっちの可能性も解釈できる。
僕の思い出の通りだとすれば、「何かが本物になった瞬間」の今が最後だというのは、物語の終わりとしてふさわしいと言えばふさわしい。

でも僕は思います。人生は長い。短いこともあるけど、長い場合がある。「CASSHERN」から20年後に「世界の終わりから」にたどり着いたように、この状況が当時全く想像できなかったように、今から20年後になって何が起こっているかは分からない。

あと単純に、「世界の終わりから」はめちゃくちゃ世界が綺麗にカッコよく映っている映画なので、こういう風に世界が見えている人は作品を作り続けるしかないのでは、と感じます。劇中で主人公のハナが厭世的な幼い子供に「そんなことないよって言えなかった」と言います。しかし、映像の方は既に、そんなことないよ、とずっと言っている。僕には、そうとしか受け取れませんでした。


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