【短編小説】トーク・ライク・トーキング

 60秒だけ話せ、とその男は言った。
 何を話せばいい? と俺は訊き返した。
「今ので1秒だ。残り59秒」と男は言った。「それで充分すぎる。テレビCMは15秒だし、それどころか最近のYouTube広告は6秒だ。そしてスキップボタンの連打。あるいは倍速での動画再生。お前も知っている通り、本なんか今誰も読まない。人の話なんか誰も聞かない。ある調査によると現代人は、たとえ本を開いても10秒間興味のない話が続くと読むのを止めちまうらしい。いくら綺麗な紙に印刷しても、いくら綺麗な装丁を施しても、いくら偉い人の話でも、分け隔てなく10秒で判断される。特にお前の話なんか誰も長々聞いていられないんだよ。だから60秒はお前にとっては長すぎるチャンスだ」
 俺は無言で頷いた。分かるよ、とか何とか相槌を打つのはやめた。それも1秒にカウントされて貴重な時間を削られそうだったからだ。
 そしてもちろん俺には分からなかった。60秒でいったい何が伝えられる? 昔、ニコラス・ケイジが60秒で車を強盗する映画があったが、あれも確か映画自体は2時間あった。人間が物事を考えて、理解するには、まとまった時間が必要だ。一方的に60秒話して何もかも解決するならいいが、そういうわけにいかないから人生は60年とか80年とかあるのだ。
「時間を稼ごうったってそういうわけにはいかんぞ」と男は言った。「お前は今考えている。ゆっくり時間を使って考えて、いかに残り59秒に言葉を凝縮するか。当たり前だが、俺はその59秒のために1時間も待ったりせんぞ。15秒以内に話し始めろ。さっきも言った通りテレビCMは15秒しかない」
 男はスマートフォンの画面を俺に見せてスクリーンをタップした。ストップウォッチが起動し、数字が増えていく。3秒経過、4秒経過。
 俺には無限の選択肢があった。俺は何を話してもいいし、話すべきことはいくらでもある。解決しなければならないことは山のようにある。俺の残り人生60年を使っても全く間に合わないほどに。
 しかし実際には俺には選択の余地はまるでないように感じる。話すべきことと話せることは違う。俺が今この男に話せることは何か。俺達には信頼関係がない。俺は男のことを知らない。男は俺のことを知らない。何を話しても無駄かもしれない。
「俺は長いこと、街の潰れた店の張り紙の写真を撮っている。店が潰れるたびに、入り口の扉やガラスに貼られた閉店の告知紙を撮るのが趣味なんだ」
 俺はそう話し始めた。話すしかない。男は俺の目を見ず、テーブルの上に置かれたスマートフォンのタイマーの数字が増えていくの見つめている。
「昔からそうしている。理由は分からない。見かけるたびに写真を撮る。そのほとんどの店に、俺はこれまで立ち寄ったこともない。その街を訪れたこと自体が初めてなんだ。人間がやがて全員死ぬのと同じように、潰れた店はいくらでもある。閉店の張り紙は生きるとも死ぬとも違う何かを俺に伝えてくる。俺はそれに惹かれる。俺はそれを覚えていなければならないような気がする。しかしほとんど覚えていない。写真を撮ると、実際にはそれを忘れるんだ。
 俺が今たった一つ思い出すのはコンビニだ。東京の端っこにあったコンビニで、その店はは俺と同い年だった。32年間のご愛顧に感謝いたします。コンビニは日本中で一日100軒以上潰れていく。そして1日150軒以上新しいコンビニができる。誰も消えた100軒のことを思い出すことは無い」
「タイムアップだ」と男は言った。
 そしてスマートフォンの画面をタップしてストップウォッチを停止した。61秒。
「何を言いたいのかさっぱり分からんかったな。お前は話が下手くそだ。結論を最初に言え。学校でそう習わなかったのか?」
「10秒残ってる」と俺は61秒の表示を指さして言った。「ストップウォッチが動き始めてから話し始めるまで10秒間、俺は無言だった。だから実際には俺の話す時間はあと10秒残ってる」
「だとしても今その10秒を使った」と男は言った。「今のお前の話には、お前の人生の問題が凝縮されている。回りくどく、無駄が多く、意味がない。わざわざ余計に誰もお前の話を聞かない方に向かって行ってどうする? 潰れたコンビニがどうした? 10秒残っていると言ったな。50秒で俺は飽きたんだ。俺がお前の話をもっと聞きたいと思ったらそれを延長することもできる。しかし俺がお前のためにそんなことをすると思うか?」
「あなたは初めから俺の話を聞くつもりがない」
「今更気が付いたのか?」と男は言った。「それを何とかするための60秒だったんだ。しかし考えてみろ。自分のガキや女や社長の話ですら、人間我慢して聞いているのは難しい。お前の話を我慢して50秒聞いてやった俺は優しいと思わないか? よく分かった。その通りだ。コンビニは潰れていく。100軒潰れても150軒がすぐにまた建つ。お前の言う通りだ。その通りだからもう帰れ」
 分かった、と俺は言って立ち上がった。「俺は、結論は最後に言えと教わったんだ。その方が盛り上がるからと」
「間違った教育だったな。ゆとり教育ってやつだ」

 また駄目だった、と俺は壁に向かって話した。「あの男の言うとおりだ。問題は俺が自分から駄目な方に向かって行ってることだ」
 俺はそれ以上何も話さなかった。壁はいい。いつも俺の話をじっと動かずに聞いている。話さなくても永遠に黙って待っている。
いい壁はどこにでもあるものではない。壁自体はどこにでもあるが、壁に向かって話すときはひとりでなくてはならないからだ。壁と自分が一対一である必要があり、そういう場所は街中ではなかなか見つからない。いつも誰かがすぐ近くを歩いているか、壁の向こう側に誰かがいる。一番使いやすいのは橋の下の壁だが、そこだって酔っ払いやランナーがしょっちゅう通りかかり、俺達は簡単に一対一になることができない。終電を過ぎた後のビジネス街は悪くない。新宿や大手町。暗闇の中で、巨大なビルの壁は俺達の言葉を黙って聞いている。話し終わった後、家に帰るためには始発を待つか歩いて帰るしかないこと以外は何の問題もない、いい壁だ。
 俺には昼間から通える好きな壁があった。俺はその壁の場所を明かすことができないが(言えば誰かがやってきて俺は壁と一対一になれなくなるかもしれない)、東京にも探せば壁はある、とだけ言っておこう。そこにはいつも誰もいなかった。男も女も子供も老人も誰もいない。車も通らなければ犬もいない。放置されたエアコンの室外機に腰掛けて、俺は壁と向かい合っている。大してデカい壁ではない。高さは10メートル程度で、幅も同じ程度。こじんまりとしたものだ。真の良い壁は別にあるかもしれないが、毎日総本山のデカい寺に通うわけにもいかないので自宅の小さな仏壇で念仏を済ませるのと同じような感覚だ。
 その壁は汚い。誰も訪れないのになぜこうまで汚れるのか分からないが、少なくとも太平洋戦争時代から排気と埃とゴミと血と汗と涙をたらふく吸い込んだと思しく徹底的に汚れている。あまりに汚いのでインスタグラマーも訪れない(世の中には美しい壁を背景に写真を撮りたがる奴らがいる)。と言うかこの壁がある街自体、ほとんど誰も訪れない。周辺の店が全部開いていないのだから、来る道理がない。
「お前の話は別に間違ってない」と壁が言った。「言いたいことは俺には分かる」
「お前に分かってもらえるのはありがたいが、お前に分かってもらってもしょうがない。何しろお前は壁だからな。手足も無ければ口もない。表情はある気がするが、基本的にいつ見ても同じで、10年単位でしか変化がない」
「それはお前も同じことだ。お前には手も足も口もあるが、それを全く生かすことができなければ俺と変わらない」
「生かすって言ったってどうやればいいんだ? 俺には始めたい商売も無ければ、特別な能力もない」
「そうは言っても何かあるだろう。何しろもう30年以上生きているんだ」と壁は言った。 
 もちろん壁は実際には一言も口を利いていない。壁が口を利くはずがない。喋っているのは全部俺だ。無人島で一人でチェスをやっているようなもので、俺が喋った後、俺は頭の中で壁の向こう側に回って、俺自身に言葉を打ち返す。あるいはそれは、鏡の中の自分に向かって「俺に言ってんのか?」と話しかけたロバート・デ・ニーロにも似ている。つまり誰もが時々やることだ。しかし数年前から、明らかに壁は俺の意志を超えて勝手に話し始めるようになった。
 俺はそれがいつからなのか覚えている。コンビニが一日に100軒潰れ、150軒新たに生まれる。しかしそんなものが永遠に続くわけがなかった。いつか究極まで到達して俺達全員の家がコンビニになったとしても、そんなものは長くは続かない。死が再生を上回るタイミングがいつか来ることは全員分かっている。そして俺は、すでにその日が来たことを知っている。コンビニが100軒潰れ、99軒しか新たに生まれなくなった日を知っている。その日から壁は語り始めた。
今でも、話しているのは壁ではなく俺だということは理屈では分かっている。しかし直感はそうではないと思っている。
話には、60秒で語り切れない続きがある。
「俺にボールを投げてみろ」と壁が言った。
 壁の言った方向を見ると薄汚れたソフトボールが転がっていたので、俺は立ち上がってそれを拾い、壁に向かって投げつけた。
「全く効かんな」と壁は言った。「もう少しビシッとした球は投げれんのか?」
 俺は壁が跳ね返したボールを拾い、振りかぶって再び投げつけた。やる気のないくすんだ音とともに跳ね返るボールを拾い、また投げる。
「こんなことをして何になる?」と俺は訊いた。
「何になるかだと? 壁にボールを投げて、何にもなるわけないだろう」と壁は言った。「質量保存の法則を知ってるな? たとえ木が燃えて崩れ落ちても、灰と大気になって全体の質量は変わらないというアレだ。お前は潰れた店がこのままどんどん増えていけば、やがて世の中からすべての店が消えてしまうんじゃないかと思っているらしいが、大きな間違いだ。質量は残っている」
「しかし灰だけ残っているんじゃ何にもならない」
「別のところに行ったんだ。風に吹かれて飛んでいった。それは長い時間をかけて俺達と混ざり合うだろう」
「俺はどうもそうは思えん」と俺は言った。「店はつぶれ、いなくなった人たちは単に消滅したように感じる」
「時間が掛かるんだ。待つしかない」
「俺が待てるのはせいぜい30年とか40年だ。それ以上時間が経つと俺は死ぬ」
「誰がお前に待って欲しいと言った? お前の人生があと50年続こうが100年続こうが、どうせお前も風に吹っ飛ばされる側の存在だ。お前が待つんじゃない。別の誰かが待つんだ」
「じゃあ俺はどうしろって言うんだ? こうやってお前に向かって死ぬまでボール投げてろって言うのか?」
「心配するな。死ぬまでそれができた人間は1人もいない」と壁は言った。

 ボールを投げているばかりでもいられない俺は、働く必要があった。俺にも仕事がある。自転車便の仕事だ。1時間以内にたどり着ける場所ならどこへでも、何でも、荷物を運ぶ。俺はハンバーガーを運ぶし、ポスターやテープを運ぶし、請求書を運ぶし、プレゼントを運ぶ。俺は一日中東京を走り回っており、その途中で数多くの物事や人々に出会う。もちろん何も起こらないことも多い。その方が多い。しかし、試行の回数が多すぎるために、不規則な間隔で、紛れとかトラブルとか偶然とかが必然的に現れるのだった。そしてそれらも基本的には誰かに伝えられるような事件ではなく、意味があるのかないのかもよく分からないのような、一瞬で通り過ぎていく何かでしかない。俺達のような仕事をしていると、全員がそういう偶然を大量に抱えている。
 会社の休憩室で同僚がそれに関することを俺に話した。滅多にないことだ。俺が会社に出ることも、同僚が俺に話すことも。
「この前夜勤でケーキを届けた。女だ。送り主も届け先も女だった。時間は午前2時を過ぎていた。これはよくあることか?」
「まあ時々ありそうな配送だ」と俺は言った。
「俺もそう思う。少しずつ奇妙な話になっていくんだ。まず、距離が異常に近い。ケーキを受け取った女の自宅から届け先までは300メートルくらいしか離れていない。そしてケーキは異様にでかい。どれだけでかいオーブンがあるのか知らんが、一般家庭で焼けるケーキの限界の大きさだろう。もう少しでかければ結婚式に出しても恥ずかしくないくらいだ」
「でかすぎて女一人で運べなかったんだろう」
「まあそういうことだろうな。俺もそう思った。結局俺も歩いて運んだよ。崩しちまったら大変だからな。届け先の女は若くていい女だった。肌色も髪艶も服装もまともだった。よくある午前2時の客の感じとは違った。だが表情が無かった。何て言えばいいのかな。甲子園のウグイス嬢の声みたいな感じだ。バッター、セカンド、森崎君。機械とも人間とも動物ともつかないような顔に、変化がない感じだ。俺が巨大なケーキを渡して受け取りのサインをもらって立ち去ろうとすると、このケーキを食え、と女が言った。一人じゃ食べきれないから頼む、と」
「それで食ったのか?」
「これがおっさんだったら断ったが、いい女だったからな。それに俺は腹が減っていて、次の集荷依頼はまだ入っていなくて、ケーキは作り立ての良い匂いがした。まずいことになる可能性ももちろん考えたが、まあ普段の配送でも、茶を出してもらうことはなくはないだろ。俺はそれで女の家のリビングに招き入れられて、ケーキを食ったよ。半分な。ものすげえでかいケーキだったから、それが限界だった。それでどうなったと思う?」
「どうせ何も起こらなかったんだろう」
「そうだよ。何も起こらなかった。けど逆だ。起こらなさすぎたんだ。俺はリビングのテーブルの椅子に座って、女が出したお茶を飲み、ケーキをでかいフォークで直接掬って食べた。俺はケーキを食いながら女が戻って来るのを待った。だが女は戻ってこなかった。消えたんだ。俺にお茶とフォークを出して、そのままどこにもいなくなった。どれだけ待っても女は戻ってこない。俺は途中で立ち上がって、下田さん、と女の名前を呼んだ。反応は無い。大して広いマンションじゃない。俺がいるリビングのほかには、寝室とバスルームとキッチンしかない。そのどこにも女がいる気配はない。女は家を出て行ったんだろう。しかしそんなタイミングというか隙間は全くなかったはずだった。俺が茶を一杯飲んで、ケーキを一杯掬ったらもう女は消えていた。女一人じゃケーキを食べきれない、なんて話じゃない。俺だけが夜中の2時に一人でケーキを食ったんだ。どう思う?」
 よく分からん、と俺は言った。
「俺は女に電話をするべきだったのかもしれん」と同僚は言った。「届け先の連絡先ってことで、女の携帯の番号は分かっていたわけだからな。もしもしケーキをたらふく食べたんで帰りますよ、と。しかし止めておいた。面倒になるかもしれないからな。そうだろう? お前は電話するか?」
 しないだろう、と俺は言った。「もう受け取りのサインはもらっている。仕事は終わっている」
「俺は、ケーキごちそうさまでした失礼します、とメモだけ書いて立ち去った。もう腹いっぱいで、これ以上食いながら待ち続けることはできない。女のマンションを出ると、ちょうど次の配送依頼が入った」
「ケーキが気になるな」と俺は言った。
「何がだ?」
「気になるのは残りのケーキだ。俺はケーキが気になった。この糞暑い時期にそんなでかいケーキを部屋に放置しておいたら、1日で腐ってしまうだろう」
「そりゃあ女が家に帰ってきて食うか、冷蔵庫に入れるかどうにかしただろう。いつかな。俺が言いたいのはだな、いきなり消えたってことだよ、女が。全く気が付かなかった。あんなことは初めてだった」
 俺は適当に相槌を打ちながら、なるほど、と思った。
俺の場合、受取人は五回に一回は存在しなかった。そういう時は大体の場合、受取先の家の扉には鍵がかかっておらず、俺は荷物を玄関先に置くか、ポストに入れる。仕方が無いので俺は受け取りのサインを自分で書く。サインをもらって玄関扉を閉める瞬間に受取人が消えることもたまにある。俺は配送完了連絡を差出人に入れる必要があるが、その場合はメールではなく電話した。しかしそうすると差出人も電話に出ない。メールをしても反応がない。やむを得ず直接差出人を尋ねても、もうそこに誰もいない。俺は訝しむだけで、理由を解き明かすことができなかった。しかし、そのような差出人及び届け先であっても、必ず配送料は振り込まれ、どこからもクレームはやってこないので、俺はやがてそれが普通なのだと思うようになった。俺は一か月で300件くらいは配送をしている。そのうち60人くらいが消えるのは普通なのだと思うようになった。コンビニは一日で100軒潰れる。一か月で3000軒。それと同じようなものなのだろう。
 だが俺は同僚にそれを話さなかった。お前もこれからそれと同じように客が消える体験を何度もするか、あるいはすでに客が消えているのに気が付いていないだけだろうと言わなかった。それは彼を混乱させるだろうし、話が長くなる。
今の同僚の話は、偶然でも奇妙でもない。もう俺達の普通だ。俺は今の俺達の本当の偶然について話したかった。しかしそれは難しい。数分もしないうちに、俺も同僚も次の配送連絡がやって来る。

 数日後、俺は巨大な白い箱を差出人から渡された。こちらの中身は何でしょうか、と俺が尋ねると、ケーキですと彼女は言った。俺は箱を抱えながら、伝票の内容物記入欄にケーキと書き込んで、女の顔を見た。女はサングラスをかけてマスクをしているので、表情も年齢も何も分からなかった。
「お届け先はずいぶん近いですね」と俺は言った。「ここから300メートルくらいしか離れていない」
 ええそうなんです、と女は言った。「大きいし、それにこの気候でしょう」
 俺は頷いた。まあ女の言うとおりだった。ケーキが入っているというその箱はやたらでかいし、夜中の2時を過ぎているというのにあたりは恐ろしく蒸し暑い。
 承りました、と俺は言って、女に伝票を渡して会釈した。女が、じゃよろしく、と言ってドアを閉めるまで俺は女の顔を見つめていた。しかし角度的に、彼女が消えたかどうか確認できなかった。
 俺はケーキを抱えてマンションを出て、そのまま配送先まで歩きだした。300メートルしか離れていないのに自転車に積むのは手間だし、ケーキが崩れてしまうかもしれない。誰もいない無音の道を無言で歩く。抱えた巨大な白い箱から甘い匂いが立ち上って来る。車も虫さえもどこにもおらず、街灯の明かりだけがぎらぎら輝いている。
 俺は配送先のマンションの入り口のパネルで、受取人の部屋番号のボタンを押した。数秒後に相手先が出たことを示すランプが点灯した。自転車便です、お届け物でお伺いしました、と俺は言った。
 無言で風除室のロックが解除され、俺は自動ドアを通ってエレベーターに乗り、7階まで上がった。
 俺は受取人の部屋の前に立ち、インターホンのボタンを押した。10秒待って反応が無いのでもう一度押す。
 誰も現れない。俺はドアをノックした。それでも反応がない。俺は耳を澄ましたが、扉の向こう側も、今俺がいる廊下も、耳が痛くなるほど完全に無音だ。妙に蒸し暑く、俺は全身に汗をかいている。
 俺はケーキをそっと床に下ろし、胸元からスマートフォンを取り出して受取人に電話した。しかし反応が無いので、今度は差出人に電話をした。ただいま電話に出られません、もう一度おかけ直しください。
 一連の儀式を踏まえたので、俺はケーキを再び抱えて、目の前のドアノブに手をかけた。鍵のかかっていないドアノブをゆっくりと回して引いた。音もなくドアが開いていく。そして部屋の明かりがこぼれて廊下に差し込む。
 ごめんください、と俺は小さな声で部屋の中に向かって行った。反応は無い。
 俺は小さく鼻で息をして、おあつらえ向きの下駄箱の上に巨大なケーキ箱を置こうとした。
 黄色い正方形の付箋がメモ書きとともにそこにあった。

  配送業者様へ
  部屋にお上がりになって、ケーキを食べながらお待ちください。
  まもなく戻ります。

 俺は再び鼻で息をした。そして眉間に皺を寄せて考えた。まだ次の配送依頼は入っていない。それまで待つことに問題は無い。
 俺は靴を脱いでリビングまでケーキ箱を運んだ。誰もいない部屋は明かりが点きっぱなしで、テレビも無音のまま点きっぱなしだ。ダイニングテーブルに置かれた小さなサボテンの横に俺はケーキを置いた。俺は立ち尽くして無音のテレビを見つめた。腹に貼り付けるだけで腹筋を鍛えられるという装置のセールス番組をやっている。居並ぶ出演者たちが笑顔でその装置を腹に取り付けて何かしゃべっている。
 ケーキを食べて待て、とメモ書きにはあったが、そんな気にはなれなかった。俺はとりあえずテレビを見つめ、その腹筋強化装置が幾らなのか表示されるまで待った。35800円。腕立て伏せを補助するバーもおまけで付いてくるらしい。
 俺はチャットアプリを立ち上げ、同僚にメッセージを送った。俺もお前と同じようにケーキを届けたぞ、と。奴も今日は夜勤だったはずだ。俺がアプリを閉じるよりも早く、メッセージはすぐに既読になったが、返信は無かった。
 電話が鳴って、俺は振り向いた。
 俺のスマートフォンではない。部屋にあった置き電話だ。クリーム色の電話機が青色のLEDを点滅させて、着信音が部屋中に鳴り響いた。
 俺はそれを無視した。10回、20回と呼び出し音が鳴り響いて、やがて止んだ。
 だが沈黙は5秒も持たなかった。ふたたび激しく電話が鳴る。子供が泣き叫んでいるような激しさでがなり立てる。俺がネグレクトする親のようにそれを無視しし続けると、やがて電話は泣き止んだ。
「なんで電話に出ないんですか?」
 俺は振り向いた。女がテーブルの向こう側に座っていた。
 女はケーキの箱を開いて、上から覗き込んだ。それにケーキも食べてない、と俺を見ずにケーキを見つめたまま言った。
 俺は首を傾げた。
「お届け物をいただくのは抵抗がありまして」
「なんで電話に出ないんですか? こっちはあなたを呼んでるわけで」
「失礼しました。そうとは分からず」
「とりあえず座ってください」と女は言った。
 俺は頷いて、言われた通り椅子を引いて女に向かい合って座った。
「受け取りのサインを頂けますか」と俺は言って伝票とペンを女に差し出した。
 女はそれを無視して、ケーキにナイフを入れた。白くたっぷりとしたクリームの上に山盛りのフルーツが盛り付けられた直方体が8分割され、その一つがブルーの皿に載って俺に差し出された。
 女は俺にフォークを渡して、召し上がれ、と言った。
 俺はフォークを受け取って、いただきます、と言った。「受け取りのサインを頂けますか」
「私ひとりじゃ食べきれなくて。こう大きくちゃね」
 俺はケーキを掬って食べた。スポンジは弾力があって歯切れがよく、クリームは甘く柔らかく、桃とパインは活き活きとしている。悪くないケーキだった。
「いかがですか?」と女が言った。
「おいしいです」と俺は言った。
 俺が一気にケーキを食うと、女は俺の前にグラス入りのお茶を置いた。そのジャスミンティーは良く冷えていて、俺の喉を柔らかく滑り落ちて行った。
「たくさん食べてくださいね。見ての通りいくらでもありますから」
「ありがとうございます。しかしもう行かないといけません。次の配送がありますので」
「まだ大丈夫でしょう」
 女はそう言って、空になった俺の皿を引き取って、次の8分の1のケーキを盛り付けて俺に渡した。
「お仕事お疲れさまでした。今日も1日疲れたでしょう」
「いえ、今日はそうでもありません。夜勤なのでまだ4時間しか経っていませんし、注文も少ないんです。最近はずっとそうです」
「どうしてだと思いますか?」
「人間の数自体減ってきてるんです。それに加えて誰かに何かを送る人が減ってきてるから、だいぶ厳しいですね。歩合制のところがあるので、この仕事はだいぶ厳しいです」
「私のことを覚えていますか?」
 俺は首を傾げた。「お客様にお伺いするのは初めてだと思います」
「しばらく前にも同じようにケーキを届けてもらったんです。あの時はすみませんでした。突然いなくなってしまいまして」
「それは私ではなく、私の同僚ではないでしょうか。きっとそうだろうと思います」
「いえ、あなたです。よく覚えています。あなたは今と同じようにケーキを食べていました。そして壁の話をしてくれました」
「覚えがありません」
「あなたはよく、独りで壁に向かって話していると。一人きりで話せる壁というのは簡単には見つからないんだと。壁はいつの間にか勝手に話を始めるようになって、あなたはそれと対話するのだと」
「よくある話です」と俺は頭を掻いて言った。「私にも身に覚えがありますが、東京で一人暮らしが長いと、みんなそんなようなことをやるんでしょう。それは私ではない別の誰かだと思います」
「そんな区別はできないでしょう。あなたが壁に向かって話していて、あなたが今ケーキを食べているなら、それはあなたと変わりがないのではないでしょうか」
「確かに私達は似たようなものです。私と同僚は。似たような年齢で、似たような帽子を被り、似たようなリズムで生きている。しかしとは言えそれで誰かと誰かが同じ人間になってしまうのであれば、ほとんどの人間の見分けがつかなくなる」
「そんな一般論をお話しているんじゃありません。あなたは以前私と会った人です。あなたと私が会うのは二回目です。あなたは今と同じようにそのケーキを食べた。そして私と話をした。あなたはいろんな話をしました。あなたは自分の人生には問題があって、誰かに60秒以上話を聞いてもらったのは本当に久しぶりだと言っていました」
「受け取りのサインをいただけますか」と俺は言った。「私はもうここを出なくてはいけない。このまま同僚と同じようにケーキを半分食べるわけにはいかない」
「早くケーキを食べてください」と女は言った。「それまでサインを書くことはできません。あなたがケーキを食べるか、永久にサインをしないかのどちらかです」
 俺は再び頭を掻いた。女から視線を外してテレビを見ると、まだ自動腹筋トレーニング装置のセールス番組は続いている。誰かがあの装置を買わない限り、出演者たちは夜明けまで笑顔で腹筋を鍛え続けるだろう。
 俺は再びケーキを食べ始めた。
 黙って部屋を出てもいい、と俺は思った。受取人がサインを拒否することは稀にある。面倒ではあるが、そのやむを得ない理由をうまく上に報告すればいいだけのことだ。しかし俺はこれまで俺なりに真面目に働いてきた。テレビの中で腹筋装置を売っている人々と同じように、それが仕事となれば余程のことがない限り全力を尽くす。客の前で不機嫌な顔は見せないし、無礼な口は聞かない。配送が遅れた時には罵倒を甘んじて受けるし、出された茶は飲むし、出されたケーキは食う。
「あなたは何年この仕事をしているんですか」と3皿目のケーキを差し出して女が訊いた。
 俺は首を傾げて、5年か6年だと思います、と言った。「よく覚えていませんがそれくらいです」
「何故曖昧なんですか」
 俺はケーキをもぐもぐ食べてから、おそらく、と言った。
「おそらく毎日があまり変わらないからです。あまりと言うか、ほぼ全く変わらない。少しずつ変わっていっているはずですが、スローすぎるので私はそれを目で追うことができません」
「変わらないのはつまらないですか?」
「いえ、そうでもありません。性に合っています」と俺は言った。
「私には耐えられません。私があなたのような人生なら、我慢がならないと思います」
「しかしそう言っても仕方ありません。じっくりやっていく以外にやりようがありません。辛抱強くやっていこうと思っています」
「同僚の方から返事はありましたか?」と女が言った。
「いえ、特に」
 女は4皿目のケーキを差し出した。俺は額の汗をぬぐい、ケーキを食べた。全身にけだるい甘さが充満して、毛穴から吹き出しそうだった。俺は目を見開き、ケーキのスポンジの細部を見つめた。それは遥か昔に見た美しいビーチの砂に似ていた。歩くたびに足が柔らかく包まれる。俺は風に吹かれていて、汗だくで、頭の中は空っぽになっている。
「明日から雨になるそうですよ。せっかくの週末が残念ですね」
「そうですね」と俺は言った。「吐き気がする」
 俺は手を震わせてケーキを一口ずつ食べた。ジャスミンティーをどれだけ飲んでも重苦しい甘みは消えない。俺は何度も深呼吸を繰り返して、ケーキを食べきった。
 俺は空になった皿を前方に押し出しながら、サインをお願いします、と言った。
顔を上げると、そこに女はいなかった。
 俺は部屋の中をぐるりと見まわした。誰もいない。テレビが点いていて、テーブルの上にはサボテンが置いてある。最初にこの部屋に入ってきた時と同じ光景だった。下田さん、と俺は女の名前を呼んだが、反応は無い。
 俺はケーキの箱を覗き込んだ。
空だ。残りの半分どころか、白い空洞があるだけで、クリームのかけらもない。
 俺は深く息を吸い込んで吐いた。何度深呼吸しても鼓動が収まらなかったが、収まるまで繰り返した。テレビのショップチャンネルはまだ続いていたが、売り物が美顔ローラーに替わっていた。
俺はテーブルの上に置きっぱなしだった伝票に、下田、と書いて立ち上がった。マンションを出ながら同僚を電話で呼び出したが、どれだけ待っても誰も電話に出ない。

 俺は同僚に会って話すことはできなかった。彼が仕事を辞めたからだ。会社に問い合わせて同僚の状況を問い合わせると、俺と同じように連絡が全くつかず、完全に蒸発したらしい。退職の手続きすらできないため、むしろ俺の方が彼について知っていることがないかと会社から聴取を受けるありさまだった。
 俺は奴が住んでいた街に行った。詳しい家の住所までは知らない。どの街に住んでいたのかだけ聴いていたので、特に目的もなく駅を降りてその周辺を散策した。週末いつも適当な街でそうするのと同じような感じだ。
その街にはほとんど何もなかった。ごくわずかな数の老人だけが歩いていて、店が何もかも潰れていて、張り紙だらけだった。レンタルビデオ屋、本屋、クリーニング屋、スーパーマーケット、八百屋、靴屋、定食屋、酒屋、ラーメン屋、パチンコ屋、文房具屋。挙句の果てに郵便局まで潰れていた。ありとあらゆる軒先に、長年のご愛顧ありがとうございましたの貼り紙がしてあり、俺が幾ら写真を撮ってもキリがなかった。1時間も歩いていると俺は疲れ切った。
 目の前に壁があった。取り壊された建物と建物の間にあったコンクリートの壁で、大して高くもなく、薄い。俺は荒れた敷地に立って、この街はヤバいな、と壁に声を掛けた。「何もない。街自体消えかけてる。何がどうなってここまで来た? これからお前たちはどうなる?」
「なんだお前は」
 そう言ったのは壁ではなかった。俺は声がした方に振り向いた。老人がそこに立っていて、俺を睨みつけている。
「なんだお前は」と老人はもう一度言った。「ここは俺の土地だ。勝手に入ってんじゃねえ。勝手に入って何をぶつぶつ喋っていやがる」
 すみませんでした、と俺は言って荒れ果てた敷地の外に移動した。
「お前ここを買いに来たのか?」と老人は言って、煙草に火を点けた。
「いえ、違います」
「じゃあ何しに来た?」
「いろいろ理由があって」
「何がいろいろだ。はっきり喋れ」
 分かりました、と俺は言った。
 それで俺達は移動した。潰れたタバコ屋の前に塗装が極限まで薄まったベンチがあって、俺達は腰掛けた。それはきしんだ音を立て、座っている間に砕けそうだった。
 俺達は長い時間話した。二人とも時間だけはいくらでもあったのだ。俺は習慣的に潰れた店を写真に撮って回っていることから同僚が消えたことまで一通りを話し、老人はこの街がいかにして寂れていったかを話した。かつてここには紡績工場があって栄えていたらしい。しかし全ては海外に流出し、それに伴って人間もいなくなった。老人は元工場長で、この街には60年住んでいる。
 この街は死んでない、と老人は言った。「お前、壁が喋り出すと言ったな。そんなもんまだまだ始まりでしかない。あと40年生きてみろ。すべてが喋り出すぞ」
「みんなどこに行っちまったんですか?」
「とにかく天井があるところに住むことだ。最悪それでどうにかなる。床があればなおいい。砂利は痛えからな。壁ももちろんだ。風がきついときがある。扉も欲しい。出たり入ったりするには必要だ。あとは絵を描くなり文字を書くなり好きにやればいい」
「あなたは絵を描くんですか?」
 老人はズボンのポケットからペンと小さなリングブックを取り出して、何か描き始めた。その間、老人が俺に煙草を勧めたので、一本受け取って吸った。吸い終わる前に、老人の絵は完成した。
 そこに描かれた絵は、人間の男の顔だった。
 これは俺ですか、と俺は言った。「俺のようだけど、あまり似ていないようにも見える」
 そんなことはどうでもいい、と老人は言った。「重要なことは、描いた絵は消えないということだ。これは重要なことだ。何よりも重要かもしれん」
 老人は絵をリングブックからちぎって俺に渡した。俺はそれを受け取って折りたたみ、ポケットにしまった。俺は礼を言って立ち上がり、駅に向かって歩き出した。老人と別れるとき、俺は途中で何度か振り返った。人と別れるときは毎回そうするのが習慣になっている。俺は老人が消えると思っていた。
 だが最後まで消えなかった。

 俺は家の壁に老人の絵を貼り付けた。俺は毎日、その俺のような誰かの顔に向かって語り掛けた。行ってきますとかただいまとかそういう単純なあいさつだけで、複雑な話はしなかった。
 そして毎日自転車に乗って東京中に荷物を配って回った。差出人と受取人は消えたり消えなかったりした。一日中汗をかいて、俺はぐったり疲れ切って毎日眠った。
 ある日、俺は部屋の掃除をした。隅から隅まで掃除して、全ての壁を磨き、部屋中から埃が消えてなくなった。床に横たわって天井を見上げると、窓の外から金木犀の香りが漂ってきた。永遠に続きそうだった夏が終わりを迎えるところだった。
 部屋のインターホンが鳴り、俺はのっそり立ち上がった。無言で玄関扉の前に立ち、ドアスコープを覗き込んだ。
 男が立っている。俺と同じ年恰好で、俺と同じような表情で、まっすぐ立ってこちらを見つめている。
 俺は首を傾げた。覗き穴を見て、俯き、また覗き穴を見た。何度かそれを繰り返した後で、俯きながら俺は部屋に戻った。そして壁に貼られた俺のような誰かの顔の絵を剥がして、また玄関に戻り、ドアの向こうの男の顔と見比べた。
 男の顔は、絵にそっくりだった。俺よりも遥かに絵に似ている。俺は何度も見比べるうち、二つの顔が似ているどころか全く同じであることを認めた。
「何の御用ですか」と俺は閉じたドアに向かって言った。
「お話をしたいんです」と男は言った。
「どれくらい話しますか?」と俺は訊いた。
「1分で結構です。たった60秒」
 俺は頷いた。俺の番が来たのかもしれないと俺は思った。
今この扉を開けると、俺は消えるのかもしれない。
「60秒じゃなく、俺達はもっと話し合うべきだ」と俺は言った。「もっと長い時間、そして一度でなく何度も」
 俺は鍵を開けて、ドアノブに手をかけた。秋風と光が差し込んできた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?