第2章:また時が流れ出すまでだいすき
繭のなかで、カイコガの幼虫は、大人になろうとトぷトぷに半分居なくなって、がんばって一生懸命にまもられているらしい。本当かどうかは知らないけれど、私はそれに似ている。
幼虫だった頃は、まるで大人になる前とは、多分ほとんど違う。私も、今のよわよわに溶けてしまった流体の私とは、子どもの頃は天と地ほどにも違かった。
打たれ強い子だった。繭のなかでまもられている私とは違い、子どもの私は居ないものとして扱われれば、微笑み返す自分の強さに惚れていた。一方で事態に大いなる危機を覚知し出すと、途端に怒りやすくもある。それを深く恥に思っても、何食わぬ顔で怒られて、また威張り返す勢いで微笑み返した。
「へんなこへんなこだね、」私は睨んでは微笑み返す、『変な私』にまだ少し傷ついている。記憶の滲出液のように、また別のある記憶が、子どもの私を宥めるため蘇って、液体か糸かのように迫り上がってくる。
「永遠に来ない波を信じて、恐ろしく静かで平坦な波を、心の中で数える。数式を用いる時、こんな光景に佇んでいる感覚がある。美し過ぎて、でも、時がないんだ。少し怖いよそれは。」
あの人の声がするから、私の中の『子ども』はあの人の佇む浜辺で、少し隣に立って彼を見つめ、見上げている。なにも来ない、”あの人の中の秒針”を数えながら、少し小指をあの人の小指に、近づけるふりを飲み込んでしまう。驚くほど手懐けられ、だいすき、だった。
「少し変かもしれないけどね、黒い海なんだよ」と、彼は続ける。「何処までも光を薄めた黒って言うと、凡庸になってしまうかな。黒って、影とかの印象になるだろう。でも、この海の黒は違う。
地球の自然、宇宙の自然、いやもっと天界の自然があるとするならば、あらゆる煌めきを宿す、黒い海だ。月に、星の光に隠された、樹々に花、その中に隠された、動物や虫の命に、その中に隠された細胞の煌めき…とまぁ、続く限りを儚く優しく包容した光なんだ。」
私はただ、微笑んで彼の睫毛に降る光を、静かに覗き込んでいる今に居る。この巻いた栗毛を掻き分けて額を撫でたら、この頭の良い人は、どのような解答を差し出してくれるのだろう…そんなやましいことを考えて、はっと我を、我にかえす。
「それって所謂共感覚?」と、この話題が私たち三人の間でのぼった時、照(みつ)はたしか訊いていた。
「違うかもしれないけど、そう言われたことがあるね。」
照(みつ)と、彼すなわち絲緒里(しおり)が、親密げに言葉を交わす音の波が木魂する。照は彼の瞳に心に映る景色がみえるのだ。私が希(のぞ)んでも手が出ない、その光景を共有している感覚がある。
私には、絲緒里の心に波打つ海が、みえない。だけれど、その海に隠された畏れや、失くしたくない大切な煌めきの意味を、私なら共にもっと正しい位置に戻せると信じた。だから、ただ、微笑んでいる。
照(みつ)とこの会話をしていた時よりも、絲緒里(しおり)は何処か含蓄のある言葉に、一つ一つ遠のく心細さを投影している。そう見える。まるで、「平坦な波」に小石を投げつけて、それが背中を丸めて震えながら、遠くとおくに滑って微かな音を立てて、消えてゆくかのように。
「それが、薄い」と、彼は続ける。「和紙を光に透かすと、柔らかい光になるだろう。そんな感じに温く毛羽だったような波を、心の中で数えている。そんな感じさ。」
途端に可笑しくなってしまう、可愛い人だ。「和紙?どこから出てきたの」と私は目を細める。
「いや、最初から私の中では、黒い光る和紙の海だよ。その『ちぎりえ』の海とでも言おうか、の透かした光に瞬く揺れる、命の種、その微動が波の奥で数式に数を与えると言うかな。」
「変なの。」
「そう、変、変だ。実際は、この海は動かないんだよ。ただ時をのんで静まり返っている。
これ程までも美しいと感じるのに、その不自然に穏やか過ぎる海を、無理矢理、突き動かして計算するのは、私なんだよね。
波を心で数えるたび、どこか懐かしいけれど哀しく、遣る瀬無い憤りすらをも感じるよ。
本来は美しい、自然から生み出された、一枚のひろいひろい和紙を、自分が千切っていって、自分が満足する画を求めて、千切り続ける感覚に似ているかな。」
滔々と語る彼が、ふっと片方の口端を上げて、優しく目元を緩ませる。それを受けて私は「絲緒里ちゃん、一生懸命過ぎて、ちょっと変になっちゃう。ちぎ、ちぎ、ちぎ、うわぁぁんって裂きながら波数えてるんでしょ。ちゃんと深呼吸して。すぅはぁだよ」と、媚をうる。
ふふ、と彼は小さく笑い、 「そうだね」と鷹揚に相槌を打つ。「深呼吸だね。すぅ…動かない海を突き動かすとき、それは微かに軋み、裂けた空間のように見える。裂け目の中で光が徐々に消えてなくなることを計算と言う。」
その寂しげな海で、つぎには淋しげな流し目を、私に送り出してくる彼が、何故、今その話をしたのか解らないでいる、私が居る。
つらいの?絲緒里。
やりきれないの?
こんなに一緒にいるのに、独りなの?
本当は立ち止まりたいの?
彼の心情を汲もうと、眉をたらし一層瞳を丸くする。見つめる私に、彼は解らないだろうと言わんばかりに、私の頭を撫でる。
まだ、思い出せば頭に落ちる彼の手の温もりや、程よい重みを思い出せる。打たれ強い子どもだった。打たれ強い若者だった。時折、私は黒ずんだ海辺に佇み、あの時代の只中に生き返る。あの頃、彼に、絲緒里らに、出逢っていなかったら。私はあのまま、打たれ弱くなど決してない、正しく、くるいのない大人になどなれていただろうか。
吸収されてしまった。毛羽だった光として。彼の計算式のなかで。そう溶けて、居ない。蚕の繭のなかで私は透明に近い、墨色の雫のような煌めきを海から貰って、ちいさく小さく包まっている。背中を丸めて震えながら、柔らかい繭の白い優しさのような枕に、濡れた瞼をおしつけながら、「ママだいすき」と自分の世界の太陽の匂いを嗅いでいる。
もう、あの人たちと過ごした時代は過ぎ、私はこの繭のような小部屋で安全な、大人。なのに、思わず「だいすき」が大きくなる、泣き喚く声が、命を持った流れのように喉から逃げ出し奔る。
「だいすき!だいすき!」と叫ぶ、埃くさい部屋の空気を吸った、長毛ジュゴンの『くてぃ』を布団に叩きつけ、小さないっぴきの逃げ惑う羽毛の困惑で一杯な、可哀想な私だ。『だいすき』の声は膨らんで、階段を響き降りていったらしかった。
「ごめん、ごめんね、くてぃ。」
埃のなかの微睡みから気づけば、其処は化繊の摩擦だ。そのうえで息を吸う私がいて、涙で濡れた私の肌と母の胸のあいだに、紅茶色の『くてぃ』がくたっと、可愛くへちゃ潰れている。繭にまもられて何度も「ごめんね」と幾多の存在に縋る間にも、三十代の幾つ目かの刻み目が、人生の針によって数え上げられ、私は「大人になりきれない立派な大人」になった。
ー誕生日。
繭の中で透明に近い、墨色の雫のような煌めきを得て、大人になれたと信じた時期もいつか。あっただろう、男の人の目線が街ゆく中で優しかった時も。でも、母の胸の匂いを嗅ぐたび、繭はまだ硬く閉ざされたままで良いと、握る両手でぎゅっと背中の布の弛みをたぐり寄せてしまう。
絲緒里の黒い海は動かない。どう足掻いても、動かない。絲緒里もあの頃から、動きを見せたことはない。連絡は、会って、笑い合って、期待を抱いたたび、絶えた。それが彼の計算式だ。心のなかの子どもが、彼の小指に内緒に触れる。
(海の中に漂う私の星は、絲緒里の潮には引き寄せられなかった。ただ、それだけのすれ違いだ、)
(それだけのことなのに、その事実が心に波紋をよこすよ、)と思わず「すれ違いだ…」とだけ唇を動かして、本当は彼の黒い海が、怖いよ。その海の煌めきを信じられたら…涙を一粒、絹混紡の毛玉の靴下に落とした。
「すれ違い?また、あの子のこと。大人は割り切るために、性格の不一致と言うのよ、」隣に腰掛ける母が、「大丈夫。妙ちゃんはゆっくりでいいの」と、ベッドのうえで正座を崩した、私の膝のうえを叩く。「ゆっくり進むお蚕さんだって、美しい糸を紡ぐんだから。いつも言ってるでしょ、妙ちゃんは、大事に飼われてるお蚕さんって。はい、しゃきっとしぃ。」
母の手は少し冷たく、でも私の頬に触れると滲むように温度を取り戻してゆく。その冷たい母の手が、私にとっては温もりそのものだった。気直で黙々と熟すことに長けた、にわかに豪快な母の手がすきだ。その無骨な愛情が、普段より優しさを意識するように、触れてくれている。やや以前より歳を取った茶色い指で、私のこめかみを拭う。
おうちを取り巻く私の繭は、どんなに歳を取っても、ゆっくり成長するお蚕さんを悲しんだりなどはしない。それだけれど一抹の、なにか息が抜けるような肩を落とすような感覚を、母の丸い肩甲骨に感じる。肩にまわした両手に、私の成長を信じる想いと、そのゆっくりさを気遣う気持ちが混ざっている体温が、切ない。
-絲緒里の黒い海に足を踏み入れたいと思ったことがある。
「道を誤り過ぎた。」
救いを求めるように自分で頷き、「…ママ。」
…その一言だけで、海の底から現実に碇を伸ばせている気持ちになる。
絲緒里のその海はじっさい恐ろしく冷たかったではないか。一切の光をのみこんで、我が物にしてしまったではないか。息を潜めて守る、あんなよわいやつ。一方で気づいている自分もいる。私は私の『計算』で、絲緒里の海を狂わせた。
でも時は経った。
経ち過ぎてしまった。
“よわいやつ。”
八年の時が、自分の心の声を突き返して、今はまるで微かに心の奥底で侮蔑していた、彼の弱さに私が頭の先から爪先まで、とっぷりと浸かっている。
絲緒里の黒い海が動かないように、私の繭も動かない。黒い海の中の微かな光から汲んだ、繭の中の透明な墨色の雫が、どこかで繋がって届いて、仄かな微動を互いに繰り返している。そんな物語を信じていたい自分もいる。例えそれが物理的な繋がりではないとしても、光と雫が、巡る生命をまわし回り、有るように、なにかあの人生に意味があったと信じたいのだ。
繭はまだ。
ころがるだけだ。
それでも。
母の手の皺に顎ごと包まれた瞬間に、そして、そこから父の帰りを想うほど、「いつかのいつか」が綿毛だらけの翅を伸ばす。繭が自然に綻び解ける日が来るのかもしれない。大人になりたいまんまの命が、たしかに息づいて、あそこからは、もっと『よい』自分たち。温めるための絲になる、そんな繭を吐いて生きて来たんだ。
「大丈夫、将来はママと結婚するの、」私はにんまりと頬を目一杯つりあげて、自慢の猫目で笑ってみせる。「もし、誰かと運命の出会いがあるなら、そのお婿さんと一緒に居候するぅ。」
冗談半分で言った私の言葉に、大袈裟に母が拒んでみせる。「妙ちゃんが二人になるなんて!パパとの老後を愉しませてぇ」と叫ぶ、戦慄の黄色い声が、愛くるしい。
「私は無類のマザコン」と今夜は、ぎゅっと母の腰を引き寄せ、繭にひとつ白いしっぽが生えた。