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【中国山地の歴史⑤】中国山地の森林とたたら製鉄の関係

 こんにちは。中国山地編集舎メンバーの宍戸です。今回は中国山地と森林の関係について書いていきたいと思います。日本全体でみれば、今日では森林とは縁遠い生活を送っている方の方が多く、森林が歴史的に果たしてきた役割を意識する機会は必ずしも多くありませんが、かつて中国山地の広大な森林は、人々の暮らしにとって欠かすことのできない存在でした。そもそも、中国山地に限らず、人間は森林を利用することによって文明を発達させてきたと言っても過言ではありません。土器を焼成するのにも、土器に食物を入れて煮炊きするのにも、レンガやガラスをつくるのにも、建築物や船を建造するのにも、森林から伐り出した木材が使われてきました。また、農耕地の確保など、必ずしも木材の調達が主目的でない場合でも森林は伐採されてきました。文明の歴史とは、人間が森林とどう向き合ってきたかの歴史とも捉えることができます。

たたら製鉄と森林

 中国山地の森林は、歴史的には、たたら製鉄と密接に結びつき、鉄の精錬に必要な木炭を供給する役割を担ってきました。今日の中国山地の森林は、建築用材目的のスギやヒノキが多くの面積割合を占めていますが、たたら製鉄が盛んな時代は、燃料となる木炭の製造に適した樹種が広く分布していました。木炭に適した樹種とは、自らも鉄師であった伯耆国の下原重仲が天明4年(1784)に著した「鉄山必要記事」によれば、「松、栗、槙」が「至極の上々吉」でした。ちなみに「槙」はナラ類を表す方言です。なぜこれらの樹種が「上々吉」とされたのでしょうか。落葉広葉樹のコナラやクヌギなどのナラ類について、太田猛彦先生は、「明るい場所を好む樹種であり、成長が速く、萌芽更新が可能で、実も多く、材は火力が比較的強いわりには悪臭もないため薪炭として適して」いたためであるとしています。また、マツについて、只木良也先生は、森林伐採を繰り返した肥沃でない土地でも育ち、かつ、火力の点などからいっても適しているとしています。つまり、「繰り返しの利用に耐える」ことと「火力が強い」という特徴が両立する樹種が、たたら製鉄の木炭にとって「上々吉」な樹種として認識されていたと理解できます。

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写真:たたら製鉄の燃料となる木炭(筆者撮影)

 この「繰り返しの利用に耐える」ことと「火力が強い」という2つの特徴は、たたら製鉄の操業にとって非常に大きな意味を持ちます。一般的に金属の精錬に必要な木材の量は、精錬する金属の融点が高くなればなるほど増えるのですが、鉄は、古代から存在が知られ利用されてきた金、銀、銅、亜鉛、鉛、錫など3と比べて最も融点が高く、鉄の精錬には高温を得るための火力が求められます。また、持続的にたたら製鉄を操業するためには、大量の木炭の供給源となる広大な森林が必要であることはもちろん、森林の樹木も伐採後に早期に再生する樹種が多い方が有利です。鷲谷いづみ先生は、「コナラやクヌギなどの伐採は、ある程度の成長を経て材を蓄積しており、しかも萌芽力の十分大きい若い時期に行うことで、長期的に見た資源採取量を最大にすることができる。」としています。つまり、樹木が成長すると、材の蓄積は増加しますが、一方で萌芽力は低下するため、バランスの良い時期に伐採する必要があり、たたら製鉄に木炭を供給する森林では、萌芽力の旺盛な30年生ごろに輪伐されてきました。たたら製鉄に関わった人々は、「繰り返しの利用に耐える」ことと「火力が強い」という特徴が、持続的な製鉄に必要だということを経験的に理解していたからこそ、「松、栗、槙」が「至極の上々吉」としてきたのでしょう。そして、中国山地の森林は、たたら製鉄で大量の木炭が必要とされたことと、緩傾斜で人を寄せ付けない地形が少ないこともあって、ほぼ全域にわたって利用されてきました。

 しかし、森林を余すところなく利用してもなお、たたら製鉄を持続的に操業するうえで最大の課題は、鉄の原材料である砂鉄の確保ではなく、木炭の確保でした。なぜなら、日本でもっとも広く砂鉄を含む花崗岩が露出している中国山地においては、砂鉄の確保が問題となることは少なく、森林資源の不足の方が課題となりやすかっためです。そのため、江戸時代では、たたら製鉄を持続的に操業するため、森林を循環利用する施策も実施されてきました。代表的な例として、享保11年(1726)の松江藩で施行されたのが、藩内のたたら製鉄の経営者「鉄師」の数を9家に制限する「鉄方御方式」です。操業が許可された藩内の鉄師9家のうち仁多郡は5家だったのですが、佐竹昭先生によれば、鉄の持続的生産には森林を30年周期で伐採するとして「1代当たりの大炭消費が増大する明治期でも鑪1 ヵ所と鍛冶屋2 ヵ所の経営で3,000町歩もあれば充分」で(「1代」は1回の操業開始から終了までのこと)、「明治14年の仁多郡山林面積は約33,400町歩でうち鉄山は約18,600町歩である。したがって計算上6つ程度の鉄山経営が可能ということになる。享保の鉄方法式では5つの経営に限定したがその後江戸時代を通じてほぼ恒常的に1 ~ 2の増鑪が許されている。山林面積は正確を期しがたく,またその蓄積量も山林利用や管理のあり方に大きく左右されるから安易に論じることはできないが,5つの鉄山経営には一応の森林資源上の合理的根拠があったとすることができよう」としています。いわば、鉄方御方式で規制された炉の数は、森林資源を余すところなく利用することを前提として、持続的に利用できる上限に近い数字と理解することができますし、生産の持続性を優先して、鉄の生産量をあえて制限したと理解することもできます。

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写真:中国山地で今も続けられる炭焼き(筆者撮影)

世界的に見た森林の持続的な利用の意味

 鉄の持続的生産のために森林を循環利用して資源を維持するというのは、今日の知識からみれば当たり前という見方もできるかもしれません。しかし、歴史的みて、森林を持続的に利用するというのは必ずしも簡単なことではありませんでした。なぜなら、ヨアヒム・ラートカウ先生が、「農耕や牧畜にあっては悪しき経営は比較的早くに一目瞭然となります。森にあっては、それが明らかになるまでにかなり時間がかかります。ですから、森については「略奪経営」への誘惑がことのほか大きいのです。そして、略奪後の森の更新には、何世代もの年月を要」するためであるとしているように、森林の適正管理には世代を超えるほどの長期的な視点が必要でした。そして、森林を持続的に利用することの難しさから、古くはメソポタミア文明や、イースター島など、歴史上、多数の文明が森林を伐りつくしたことによって衰退あるいは崩壊してきました。

 もちろん、世界の製鉄地帯でも、森林は盛んに伐採されてきました。例えば、中尾鉱先生は「鉄の精錬に大量の木炭を使ったのは日本だけではない。16世紀の頃、イギリスの製鉄用高炉は、サセックスとケントの森林に集中して建設されていた。中でもウィールドの森が中心であった。産業革命によって石炭製鉄が開発されるまで、どこの国でも鉄の精錬には木炭が絶対に必要であった「もしイギリスを完全に占領することができなかったら、サセックスとミドランドの森を焼き払え」という命令がスペインの無敵艦隊に与えられたというが、これはイギリスの製鉄業の息の根をとめるため、木炭を作る森林に攻撃目標がおかれたのである。森林の中に設けられた製鉄用高炉はエリザベス女王の軍事力をささえ、イギリスの栄光の歴史をきずいたのであるが、大量の木炭消費のために、ウィールドの森林もディーンの森も丸裸になってしまったのである。」としています。そして、製鉄のほか、耕地開発のための森林伐採など、様々な要因で森林が伐採された結果、安田喜憲先生は、「イギリスの森林は16~18世紀にはほとんど消滅」したとし、「現在のイギリスの諸都市に見られる森は19世紀以降、人間の手によって植えられたものなのである。だが、山にまで一面に森を再生することはできなかった。だから、森は町や村の中にしかないのである。」としています。

 一方、中国山地においても、鉄の生産量を制限して森林を維持しようとしたとはいえ、常に完璧に循環してきたわけではありません。広大な林野には樹種の不良なものや疎林の状態の場所があるなど、実際には様々な理由により木炭は不足しがちで、鉄師は木炭の確保に常に心を砕いていたという点には注意が必要です。しかし、結果として木炭は確保され、近世・近代を通じて鉄を生産し続けることができました。前述の中尾鉱先生も、少し持ち上げ気味の表現ではありますが、「日本でも、とくに中国山地は、たたら製鉄の本場であって、何世紀にもわたって、製鉄のために大量の木炭が使われてきたが、森林は荒廃することはなかった。中国山地の山々は、いつも豊かな緑に覆われて生き続けている。」としています。

 もう少し視野を広げて、江戸時代の日本全体で見ても、世界的には森林保全に成功した例と言えます。日本の森林利用の歴史を研究したコンラッド・タットマン先生は、日本は陸地面積当たりの人口密度でいえば、世界でもっとも人口稠密な国であり、それがもたらす莫大な需要を考えれば、地質的に脆弱な日本列島がとうの昔に荒廃していたとしても不思議ではないとしています。しかし、日本が破綻せず、それどころかより安定した森林利用のパターンがあらわれた理由について、大きく5点をあげています。そのうち思想や制度的な要因として、日本に存在した森林保全の倫理が、森林の存続と回復を助けてきたということや、鎖国していたために、自国の領地内で必要な資源を確保するしかなかったことなどを挙げています。また、ヒツジやヤギなどの家畜がいなかったために、放牧による荒廃が起こらなかったことも要因であるとしています。

 さらに、ジャレド・ダイアモンド先生は、徳川幕府の統治による平和が、権力者にも農民にも将来が現在と変わらないことを予測させ、森林の利用権をいずれ自分の跡継ぎに譲る期待を生み出したことで、「将軍、大名、農民それぞれが利益を享受しながら、森林を持続可能な方法で管理することができた」としています。そう考えると、先ほどのイギリスにおける製鉄の事例は、戦争に勝つため資源保護まで考えられず(戦争に負ければ資源を保護している領土も奪われてしまいかねないため)、平和によって将来を予測できると期待できるからこそ資源保護に力が入れられるという解釈もできるのかもしれません。
 
 今日の中国山地では、たたら製鉄の衰退や、その後の燃料革命により、かつてより森林に手が入らなくなっています。しかし、みんなでつくる中国山地2020に記されているように、近年では、木質バイオマス発電や、森のようちえんなど、中国山地の森林を活かした新しい営みが生まれてきています。中国山地の面積の大半を占めるにも関わらず、私たちの日常から遠くなってしまった森林を、暮らしの現場に引き戻し、新しい形で活かしていくことが、中国山地の未来を考えるうえで欠かせないことなのではないかと思います。

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深い森に覆われる現在の中国山地(筆者撮影)

〈参考文献〉
(1)北尾邦伸『森林社会デザイン学序説』日本林業調査会.2005
(2)太田猛彦『森林飽和―国土の変貌を考える―』NHKブックス.2012
(3)只木良也『新版 森と人間の文化史』NHKブックス.2010
(4)武内和彦,鷲谷いづみ,恒川篤史編『里山の環境学』東京大学出版会.2001
(5)杉本寿「資本主義の発展におけるタタラ企業の役割」福井大学学芸学部紀要第3部.1957
(6)学研プラス『鉱物・岩石・化石』学研プラス.2005
(7)佐竹昭「近世奥出雲の鉄師と鉄山集積について」広島大学大学院総合科学研究科紀要.2016
(8)ヨアヒム・ラートカウ『木材と文明』築地書館.2013
(9)島根県木炭協会『島根の木炭産業史』島根県木炭協会.1982
(10)安田喜憲『森と文明の物語―環境考古学は語る―』ちくま新書.1995
(11)有岡利幸『里山Ⅰ』法政大学出版局. 2004
(12)中尾鉱「中国山地における林野利用の展開過程Ⅰ」山陰文化研究紀要.1972
(13)コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』築地書館.1998
(14)ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』草思社.2006
(15)中国山地編集舎『みんなでつくる中国山地2020』中国山地編集舎.2020

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