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甘んじる

ある人が、『ズートピア』という映画が嫌いだ、と言った。

わたしは、『ズートピア』が嫌いな人なんてこの世にいるんだ、と思った。『ズートピア』は人間のいたことのない、肉食動物と草食動物が共存する架空の動物都市でウサギとして初めて警官になった少女・ジュディとキツネの詐欺師のニックがバディを組み、肉食動物が凶暴化する難事件に挑む、ディズニーのアニメーション映画だ。各動物の体長に合わせた都市づくりや種を超えた連帯など、大人でも熱くなり、ワクワクする要素が詰め込まれている。なにより、毛の一本一本まで艶めくように動く動物がかわいい。趣旨を理解できずぼんやりしていると、その人は続けた。

「世界はあのようにできていない。」

その人は怒っていた。そして誰よりも絶望していた。



ある人が、小さい頃の夢は世界平和だった、と言った。その人は、テレビが戦争で亡くなった人の身体にモザイクをかけることに怒っていた。きちんと見るべきなんだ、と彼は言った。その人は、仕事柄、多くの遺体を目の当たりにしてきた。彼は多くの命を救ったが、救えなかった命もあった。彼は救えなかった命についてあまり語らない。ただ、20年以上その仕事をする中、しくじるのは今日かもしれない、という不安が常にあるようだった。わたしは彼にかける言葉がなかった。そっとテレビから目をそらして、布団を被り、多くのニュースを見過ごした。

ある人が、戦地へ取材に行く、と言った。それはすごい仕事だ、とわたしは思った。しかし、わたしはその人から話を聞かなかった。世界の平和を祈りながら、わたしは誰よりも自分のことが大切なのだった。わたしはわたしの輪郭を保つことに精一杯で、誰かが理不尽な暴力によって境界を壊されていく様を、黙って聞くことができなかった。わたしは耳を塞いで、その場から立ち去った。

そのようにして積み残された痛みが世界にどれほどあるのか、考えたくもなかった。



幼い頃、自分の身に降りかかった暴力のことを思い出そうと試みたが、もはやはっきりと思い出すことはできない。当時、その痛みについて誰にも話さなかった。語られなかった痛みは、バラバラになり、形を失い、ちりぢりになって雲散霧消していった。それはもうそこにはなかった。最初からなかったような気もした。それらはわたしのものではなかった。ただ時々嵐のように気まぐれに、襲いかかっては去っていった。

はっきりと口に出され、語られる痛みが、羨ましい、妬ましいとすら思う。そしてそのような浅ましい思いがまた情けなく、憎たらしく、蓋をしては溢れ出そうになってカタカタと音を立てる。不幸自慢ほど不毛なものはないが、それぞれの不幸がそれぞれの不幸として絶対的に存在する、というのは、本当に難しいことだ。わたしは愛する人の地獄すら、丸ごと受け止めることのできない未熟だ。

どんなに長い時間、話を聞いても、セックスをしても、愛しても、その人の孤独にわたしは触れることすらできない。



仕事を休んだ。平日のど真ん中の水曜日、ぽっかりと浮かぶ「無」の時間。空いた時間にようやく他者の話が入ってくる。取るに足らない秘密、大きな傷、小さな傷、でも確実にそこにある傷。様々なエピソードが時間を超えて、場所を超えて、心に忍び込んでくる。わたしは心に隙間のようにできた小さなスペースに収まるだけの声を少しずつ招き入れる。わたしはホッとする。わたしはまだ誰かといることができる。少しずつ、少しずつ。明日からまた働いて、ごはんを食べて、糞をして、休んで少しだけスペースを作る。繰り返し。スペースを作る時間を作ること、忘れないようにしようと思う。

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