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人に好かれるために、あえて過度に謝らない

こんにちは。今日は仕事でやらかしてしまったことがあり、「謝罪」という行為を通して思い出したことがあるので、noteを書いてみています。

嫌われたくない私

まず、前提として、私は、ひじょ―――に他人の目を気にするタイプである。誰も不快にしたくないし、嫌われたくない。かかわる人全員に「一緒にいて楽しい」と思われたい、というエゴの塊だ。周りからの評価は「よく笑って元気な人」なのだが、その実、他人に嫌われたくなくて、真顔になるのが怖くて、ずっと笑っているだけだ。


自分は何に謝っているのか

そんな私なので、何か失敗をしたときや、相手を不快にしてしまったときは、すぐに「すみません」「ごめんなさい」を伝えたくなってしまう。そして、謝罪の意を伝えることは正しいことだと信じて疑わず、二十数年生きてきた。

このやり方で大学生までは、なんとなくうまく人間関係を築いてきた。しかし、会社員として働きだしてからというもの、これまでとは違いうまくいかないことが増えてきた。なぜかそりが合わなかったり、「苦手だ」と直接言われることも何回かあった。

人から好かれたいと願う人にとって、人に嫌われることは死刑宣告そのものだ。自分の存在が全否定される。
メンタルに不調がきた私は、当時担当のカウンセラーにこんな相談をした。

「自分がファシリテートして進める会議で、参加者の顔が毎回暗い。自分が提供する時間でほかの人が暗い顔をしているということは、自分の仕事によって人を不快にしていることであり、その状態がとても辛く、落ち込んだ心を引きずってしまう」

この悩みは、私が抱えていた多くの悩みのほんの一つに過ぎない。
これに対して、カウンセラーは私にこう問うた。

「あなたはほかの人が開く会議で、楽しく参加している会議がいくつある?」

本当に単純な問いかけだが、この問いかけが私にとって衝撃的だった。
確かに、私が参加する会議で、和気あいあいとした雰囲気の会議は多くない。なぜなら、会議というものは普通、楽しいものではないからだ。

つまり私は、その当たり前の事象に対して勝手に「自分のせいだ」と感じ、罪悪感を感じ、謝罪を相手に押し付けていたのである。

このような状況は、上の例以外にもたくさん心当たりがあった。「(今日挨拶した上司の返事がそっけなかったのは、自分が悪いタイミングであいさつしてしまったからだろう。)すみません、お忙しかったですよね」とか、「(自分のミスで相手の時間を5分奪ってしまった!私は相手の時間を奪う邪魔な同僚だ。)本当にすみません!次回以降気を付けます!」と何度も言うとか。

でも実際には、ちょうど眠い時に声をかけられただけで、挨拶してくれたこと自体はうれしいなと思ったかもしれない。相手のミスで自分の時間を5分奪われることは仕事の常だから、お互い支えあっていこうと温かい気持ちでミスの対応をしてくれているかもしれない。実際、自分が相手側だったら、そう思っているだろう。

そんななか、私が過度に謝るとする。そうすると相手はどう思うだろうか。挨拶をちゃんと返さなかった自分が悪者にされたみたいで、居心地が悪いだろう。たった5分の対応で過度に謝られても、「そんなことないよ、大丈夫だよ」とフォローする方が面倒かもしれない。

人に不快な思いをしてほしくなくて過度に謝っていたけれど、結局その謝罪が相手に不快な思いをさせてしまっていたのだ。

「人に好かれたい」という欲求をどう使うか

私の「人に好かれたい」という欲求は、努力してもなくすことができない、根強い欲求だ。頭では無駄な欲求だとわかっていても、心は言うことを聞いてくれない。この欲求は、得てして認知をゆがませてしまい、あることないこと全部「自分のせい」にして、罪悪感を背負わせてくる危険なものだ。

でも私は、自分のこの性格を否定するのではなく、大切にしたい。頭で自分の認知のゆがみを理解し、できるだけ客観的になるように努めれば、きっと私が追いかけている「一緒にいて楽しい」人になれると思っている。

だから私は、人に好かれるために、あえて過度に謝らない。


(今日の仕事でのやらかしに対しての謝罪は、最初と最後の2回におさえました。進歩。)


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