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スサノオは、なぜ母を思って泣いたのか

●スサノオ神話には矛盾がある!?

アマテラス(天照大御神)の弟として、また八岐大蛇(やまたのおろち)退治などで知られるスサノオですが、『古事記』におけるスサノオのエピソードには矛盾があると指摘されてきました。

スサノオは父のイザナキから生まれます。イザナキが黄泉(よみ)の国で再会したイザナミと別れ、黄泉の国の汚れを落とすために禊ぎをしたあとで顔を洗い、鼻を洗ったところで誕生したのがスサノオです(左目を洗ったときにアマテラスが、右目を洗ったときにツクヨミが生まれています)。だから、スサノオに母はいません。
それなのにスサノオは、母のいる根の堅州(ねのかたす)国に行きたいといってだだをこね、父を激怒させます。

これまで、このエピソードは、『古事記』の瑕疵を示すものだとされてきました。母がいないのに母の国に行きたいと泣くのは矛盾ではないか、黄泉の国にいたはずのイザナミがいつのまにか根の堅州国にいることになっているというのがその理由です。

この「矛盾」に対してはおおむね二つの解釈があるようです。

まず、ひとつめの解釈ですが、『日本書紀』では、スサノオはイザナキとイザナミとの間の子であることに着目し、そもそも『古事記』は『日本書紀』を参照して読むようにできているのだというもの。

ただ、『日本書紀』は『古事記』より後年に完成していますので、この説には無理があります。そこで、この説の支持者は、『日本書紀』に取り入れられた神話は『古事記』編纂時代にも伝わっていたはずなので、それを参照し、『日本書紀』を先取りするかたちで『古事記』は書かれているのだと主張します。もしそうだとすると、『古事記』序文に書いてある『古事記』の編纂理由、すなわち数ある異説を正すことを目的としたことと矛盾します。

もうひとつの解釈は、もともとは別ものだった神話を一つのエピソードにした際に無理やりだったのでその痕跡が残ってしまったというものです。

これも、無理があるように思います。「もともとは別ものだった神話を一つのエピソードにした」まではそうかもしれませんが、「無理やりだったのでその痕跡が残ってしまった」には首肯できません。

天皇に上梓されるほどの書物である『古事記』の編纂が、そこまで杜撰(ずさん)になされたことの説明がつかないからです。『古事記』はおおらかだから細かいことは気にしてなかったはずだ、という人もいますが、ありえません。『古事記』は決して素朴な神話集なのではなく、緻密に編纂された書物であることは、多くの研究からあきらかだからです。

ということは、このエピソードは矛盾しないものとして解釈すべきものなのです。


●視座の移動

実際、イザナキからスサノオに視座(話し手の立場)が移ったと解釈すれば、話は矛盾なくつながります。禊ぎのシーンまでイザナギ視点で書かれていた『古事記』は、スサノオの誕生からスサノオ視点に変わるのです。

スサノオの立場に立ってみれば、父の込み入った事情なんて知ったこっちゃないのです。

スサノオは母の無い子です。ものごころが付くようになれば、自分に母がいない理由を知りたくなるはずです。

スサノオ(以下ス)父ちゃん、僕にはどうして母ちゃんがいないの?
イザナキ(以下イ)「お前はな、父さんだけの子なんだよ。お前だけじゃない、姉さんたちもみんなそうだ。」
「どういうこと?」
「ある日、父さんが禊ぎを終えて顔を洗ったとき、左目を洗ったときにアマテラスが、右目を洗ったときにツクヨミが、鼻を洗ったときにお前が生まれてきたんだよ。」
「何言ってんの?わけわかんないよ。(不信感が芽生える)」
「いや、事実だから。」
「そんなふうに生まれてきた神さまなんて聞いたことないよ。みんなには父さんも母さんもいるよ。」
「みんなって誰だ。俺が十拳の剣(とつかのつるぎ)で迦具土神(かぐつちの神)を斬ったら、その血から石祈神(いわさくの神)や根祈神(ねさくの神)や石筒之男神(いわつつのおの神)とかがたくさん生まれてきた。母さんから生まれてこない神さまなんて普通なんだよ。
「そう…なの?」
「そうだ。だから心配するな。」
「うん、わかったよ。でも、父ちゃんはなぜ、迦具土神を斬ったの?」
「それは…。」
「どうして? 父ちゃんは神さまを殺す神さまなの?」
「いや、違う。迦具土が生まれてきたせいで母さんが死ぬことになったからな。許せなかったんだよ。」
「お母さんいたの!死んだの!!」
お前の母さんじゃないけどな。結婚してた人はいたよ。イザナミと言ってな、生きてるうちは仲は良かったよ。それで、死んだあと追っかけてってな。死んだ神がいる黄泉の国に会いに行ったけど、遅すぎてもう昔の姿じゃなかったんだ。だから帰ってきた。
 イザナミはなぜか怒ってな、追っ手なんてよこして、国の人間1000人殺すなんて言って追いかけてきたんだ。どうかしてるだろう?そんなのがこの国に来たら大変だから、黄泉の国との道は塞(ふさ)いできた。
 黄泉の国に行って私は穢れてしまったから小戸の阿波岐原(おどのあわぎはら)で禊ぎをして、すっかり綺麗になったから、顔を洗って、そしたらお前たちが生まれてきたんだ。だから死んだイザナミはお前の母さんじゃないんだよ。」
「なんだよ父ちゃんそれ。母ちゃんいたんじゃないかよ。なんで連れて帰ってこなかったんだよ?どうかしてるのは父ちゃんの方だろう。
 それに黄泉の国、黄泉の国って、ちゃんと根の堅州国って言えばいいじゃないか。追っかけてくるくらいなんだから母ちゃん完全に死んだってわけじゃないかもしれないじゃないか。
どんなに姿が変わったって母ちゃんは母ちゃんだろ。僕がその国に行って母ちゃんに会ってくるよ。」
「ばかやろう。お前に何がわかる。俺はイザナミが完全に死んでるのを見たんだよ。それに、母ちゃんじゃないって言っただろう。お前はイザナミが死んだあとの息子だから、イザナミはお前に関係ない。お前の母ちゃんじゃないんだよ。イザナミの国に行きたいなんて二度と言うな!
そんなの父ちゃんの理屈だろ。その国で会った母さんはどんなだったのか教えてよ。」
「うるさい。お前が知る必要は無い。」
「なんでだよ!父ちゃんは母ちゃんに会ったんだろ、僕も行って会いたいよ。

みたいな会話があったんだろうなと思うわけです(共感しやすいように言葉づかいをくだけた調子にしています。違和感のある方は、どうか上品な言葉づかいに脳内変換ください)。


●父のリアルと子のリアル

考えてみれば、イザナキが体験した黄泉の国での恐ろしい話は、父にとっては生々しいリアルな思い出でも、息子にとっては共感出来ないただの伝聞にすぎません。

姿が変わったってイザナミはイザナミであることくらい、息子に言われなくてもイザナキは分かっていたはずです。連れて帰りたい気持ちが無いはずはない。でも、変わりはてた姿のイザナミを連れて帰ったら、辛いのはイザナミです。イザナキは、イザナミの姿を見て、肉体的な死は不可逆反応であることを理解し、二度と共には暮らせないことを思い知ったのです。
イザナミだって、無理とは百も承知でイザナキにひどいことを言い、追っ手を遣わしていたはずです。

だから、イザナキは、追っ手には、当たると痛い石のつぶてではなく、桃の実を投げつけ、投げつけられた方もそれで退却した(させた)のです。ここに私は、愛する二人の夫婦喧嘩のリアルを見ます。桃はすべてわかっている。だから神になったのです(このシーンで桃はイザナキに神格を与えられます)。

(註)上の記述は桃の聖性を否定したものではありません。東洋では桃が聖性を持った果実であることは広く知られています(例えば、「桃呪術の比較民俗学」(桃崎祐輔福岡大学教授)に網羅的なまとめがある)。しかしながら、『古事記』に書かれているエピソードは、神である桃が撃退したというものではなく、桃がイザナミによって投げられ、その結果撃退に成功したことにより神格を与えられたというものです。『古事記』は、桃に最初から備わっている聖性よりも、働きによって神に成ったということの方を重要視しているのです。

イザナキがもし息子に自分が体験したことをリアルに語ろうとすれば、イザナミの腐乱死体の様子やイザナミがよこした追っ手の様子も話さなければなりません。しかしそれは父親が愛する息子に話せる話ではありません。かくして、親のリアルは、親の子への愛情のゆえに子には伝わらず、親のリアルに留まります

スサノオに限らず、自分という生命の誕生の瞬間、親の接合の瞬間に立ち会うことのできる神や人は皆無です。自分が誰と誰の子だかは、原理的に自分では知ることはできない。信じるしかないんです。DNA鑑定だって21世紀の現在ですら、普通の子どもが簡単にできるものではありません(しかも、その精度は100%ではありません)。

母ちゃんと別れた後に顔を洗ったときに俺一人から生まれたのがお前だよ、なんて言われて、はいそうですかと納得できる子どもはいないでしょう。ましてやスサノオは男の子で末っ子です。親父の大人の事情なんて受け入れられない方が普通です。

イザナキは、息子を黄泉の国になんか絶対に行かせたくない。だからあえてイザナミを悪く描写し、強い口調でスサノオにあたるのです。しかしながら、子どもが親の気持ちを理解するのは、たいていの場合、子どもが親になった時や、自分を生んだときの親の歳をこえてしまった時なんですね。『古事記』はそのことを、親と子のふたつの視座でエピソードをつなぐことで効果的に表現しようとしたのではないでしょうか。


●母のない子の心理

この神話が神話として語られた時代には、戸籍もなければ避妊法も無い。母の無い子は現在とは比べものにならないほど多かったでしょう。

また、『古事記』が読者として想定しているだろう天皇家や豪族たちには、家督相続という理由で母の無い子がいたと思われます。当時は権勢を誇る男は一夫多妻であり、我が子に家督を嗣がせようとする妻が、別の妻の子殺しを謀ることはめずらしいことではなかったからです。

そして、母の無い子は、特に男の子は、実母の代わりを求めます。乳母や姉やおばさんや親切にしてくれる年上の女性を母として慕います。慕うことを許す女性に出会うまで、母代わりを求める心理は変わらず、その女性に裏切られるまではその女性が心理的な母なのです。母がいないのに母の国に行きたいと泣くスサノオを矛盾と捉えるのは、両親の愛に恵まれて育った現代の大人の理屈だと思うのです。


ver.1.1 minor updated at 12/5/2020(桃についての註釈を追加)
ver.1.2 minor updated at 3/6/2021(「子どもが親になった時」を「子どもが親になった時や親の歳をこえてしまった時」に修正)

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