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カレー粉は全てを美味しくしてくれる魔法の粉



「カレー味のウンコ」

かつて小学生の俺は、そう即答した。
しばらくの沈黙の後、それを聞いた人達が笑い声を上げた。

「マジかよwwwウンコやぞwwwwwwありえんてwwwwww」

そうやって笑った人の中には、クラス担任 *1の先生もいた。
その笑いが嘲笑の類のものであったと気付くのに、そう時間はかからなかった。


「おとうさんは、カレー味のウンチと、ウンチ味のカレーのどっちかを選ばないといけないとしたら、どっち選ぶ?」 *2

カレーを食べている娘に、今朝、突然その話題を振られてしまった。
かつて私が「カレー味のウンコ」と回答した *3あの忌々しい問いかけが、時の隔たりを超えて今、娘の口から飛び出してきたのだ。

また昔の自分と対峙しなければならない。担任の先生に笑われたかつての自分と対峙しなければならない。育児とは過去の自分との対峙の連続なのだ。 *4

俺は娘に答えた。

「その質問はやめなさい。おとうさんは小さい時その質問に『カレー味のウンコ』と答えて周りに馬鹿にされたことがある」

…しまった、結構な剣幕で答えてしまった。娘も驚いたことだろう。神妙な面持ちになり、娘の動きが止まってしまった。



妻「いやウンコ味のカレーやろ。おかしいって」

待て待て待て。馬鹿にされるのが嫌だからやめてって今言ったばかりじゃないですか。なんでわざわざトラウマを抉りにくるんですか。



天の声「あなたの子供も妻もそう言っています。今こそ、内なるあなた自身と向き合う時なのです」

待て待て待て。天の声って誰だよ。勝手に出てくんなよ。こっちは娘を怖がらせたのをどうフォローするか今必死で考え



いや、確かにこれは好機である。かつての忌まわしい体験を育児というフィルターに通すことで昇華させ、自己肯定感はウナギ登り *5、通りすがりの1000人に聞きました幸福度ランキング *6暫定一位、その辺のおっさんに理不尽に殴られても毎日ニコニコ営業 *7、きっと思わぬところで小銭をゲット *8、挙げれば枚挙にいとまがない謂わば無敵の人生を手に入れるチャンスなのだ。



ここで、先の「ウンコ味のカレーか、カレー味のウンコかを強制的に選ばせる問題」(以下、「ウンコカレー問題」と呼称する)を投げかけられても馬鹿にされないための論点を、思いつくところから順番に整理しておきたい。

そもそもの話として、ウンコなどという単語が含まれる質問文を公の場 *9で投げかけるのは不適切ではないか。そのような質問に回答を強要すること自体が、人を辱める行為そのものなのではないか。
例えば、「いちご味のカレー」 *10と「カレー味のいちご」で、ウンコカレー問題と同等の面白さを生み出すことができるだろうか。答えは「否」である。小学生にとってウンコが面白くないわけないだろ。何を当たり前のことを言ってるんだ。私は小学生の楽しみまで奪い去ってしまうことまでは望んでいない。ただ過去の自分を救済したいだけなのだ。

そしてこのウンコカレー問題、この質問をする目的は一体どこにあるのだろうか。
カレー味のウンコと答えてもウンコ味のカレーと答えてもバカにされてしまう、ダブルバインド *11を意図しているのだろうか。だとしても「カレー味のウンコ」と答えた俺のことを寄って集ってバカにしすぎではないか。
つまり私が思うに、やはりこのウンコカレー問題は、同調圧力 *12を確認する儀式だ。「ウンコ味のカレー」と回答する人達で集まり安心を覚え、「カレー味のウンコ」を排斥する一連のプロセスとしてウンコカレー問題は存在している。いじめの構図と同じだ。こんな問いかけを許すわけにはいかない。この質問をしたヤツは簀巻き *13にして運動場に埋めるべきだ。

さらに最も重要なこととして思い浮かぶのが、「ウンコカレー問題に対する、質問者の認識と、回答者の認識が異なるのではないか?」というところである。
問題の定義は重要である。「1+1は?」と聞かれた時に、事前に「これは算数の問題である」という定義がなければ、その解答は容易に「田んぼの田」 *14に論理的に帰結してしまうのだ。
一つ、認識の差異について大きな可能性として考えられるのが、「もしかして、カレー味のウンコを口にするのは衛生面で問題があるのか?」ということだ。
確かにウンコは一般的に口に入れることが憚られる程度に不衛生な物体であるが、所謂思考実験 *15に分類されるであろうウンコカレー問題の背後に、「カレー味のウンコは不衛生である」という条件が秘密裡に存在しているかどうかは、それが述べられてない以上、「不明」としか言いようがない。風の噂で聞くところによると、積極的にウンコを口に入れることを至上の悦びとする方々 *16は、事前の食事や排便を徹底的に管理することで、無菌状態のウンコを生み出すことができるという。小学生の自分はそんなことなど知る由もないが、そもそも思考実験によって生み出された「ウンコ味のカレー」と「カレー味のウンコ」のみが存在する空間に、身体に悪影響を及ぼす菌が存在しているとは考えにくい。定義外の菌が存在していれば、それは実験環境の汚染 *17であり、正しい実験結果が得られないというのが、巷での研究環境の一般的な見解であることは読者の皆様もご承知のことであろう。
かつて神童と言われた小学生の聡い私 *18もまた、その思考実験空間内は無菌である想定をしていた。故に「ウンコ味のカレー」または「カレー味のウンコ」を口にすることで身体に有害事象が発生するなど思いも寄らなかったのだ。
この点について妻に問いただしたところ、やはり「カレー味のウンコは人体にとって有害であるということは自明 *19」という回答であった。理不尽としか言いようがない。
しかしここで新たな疑念が湧いてくる。「カレー味のウンコが有害である」のが自明であるとして、「ウンコ味のカレーは無害である」は自明なのか?
通常の(つまり、ウンコ味ではない、カレー味の)カレーであっても、常温で放置していれば当然雑菌が繁殖し、有害物質と化す *20。冷蔵庫で保存していたとしても2日もすれば胃腸に何らかの悪影響を及ぼす可能性は十二分にある。それが、なぜ、無害である前提なのか?
ウンコ味のカレーが無害であるためには、つまり、「できたてである」という定義が、また言外で秘密裡に共有されている必要がある。なんでもかんでも言外で解決しようとするなよ。
そして、ウンコカレー問題において、二者択一を迫るのであれば、当然、「ウンコ味のカレー」と「カレー味のウンコ」は可能な限り同条件であることが求められる。すなわち「カレー味のウンコ」も「できたてである」のだ。
そうなるとちょっと想像の範疇を超えてくる。ウンコカレー問題の真髄は、「今まさに鍋で調理を終えたばかりのウンコ味のカレー」と「今まさにケツから出てきたばかりのカレー味のウンコ」のどちらを選ぶか?という問いである必要が出てくるのだ。ウンコカレー問題の質問者は果たしてここまで想定しているだろうか?ウンコカレー問題の質問文だけではこの事実が想定されないのであれば、やはり質問時には「できたてである」ことを本文に盛り込む必要があろう。ウンコ味のカレーもカレー味のウンコも双方できたてであるということをひた隠しにし、質問回答後にその事実を後から明らかにするようでは、題意解釈の錯誤 *21により意図的に回答者に「カレー味のウンコ」を選択させることで回答者の尊厳を損なわせることを当初から意図していると疑われても仕方ないだろう。質問者は卑怯であるという誹りは免れ得ない。ずっちぃぞお前。ちゃんと「ケツから出てきたばかりのカレー味のウンコ」と言え。ついでにケツから出てきたばかりのウンコをどうやってカレー味にするのかも教えろ。カレー風味ではない。カレー味だ。
ん?もしかして、「ウンコ味」と「カレー味」の認識も違っている可能性があるのか?こちらはウンコ味を「目を閉じて口に入れたらそれがカレーだと全く気付かずウンコとしか思わない、つまりウンコ味純度100% *22」だと認識している。同様にカレー味も「口に入れたらそれがウンコだと気付かずカレーとしか思わない、カレー味純度100% *23」だと考えている。もしかしてウンコカレー問題出題者は「ウンコ味のカレー」を「ちょっとウンコ風味がするカレー」程度に考えてないか。そんな甘っちょろい考えで世の中生きていけると思うなよ。ウンコ味っつったらウンコ味だ、お前の口の中はウンコの味しかしないんだ、カレー要素など1ミリもないと思え。まぁこれはこれで「あ、ウンコってこんな味なんだ、意外とイケるかもしれない」という新たな世界への扉が開く可能性はあるが、それはそれとして味はウンコそのままであるべきだ。だから俺は食べるとカレーだとしか思えないカレー味のウンコ、すなわち事実上のカレーを選択することでwin-win *24のままウンコカレー問題を終えようとしているのだ。ここでいうwin-winとは質問者と回答者がそれぞれ納得しているという意味であるが、それはそれとしてウィンウィンって言葉はなんていうかこう響きがエッ

と、細かいことを書き連ねていくとキリがない。

ウンコカレー問題に対する恨みが強すぎてあまり冷静な思考ができていない気がするので、ここらで少し落ち着いて、生産的なことを考えよう。つまり、

模範解答は何なのか?

同調圧力に屈せず、周囲の輪を乱さず、友好的な自分像を提示しながら周囲のクラスメイトや担任の先生にもご納得いただけるような、そのような解答を捻り出さなければ、ここまでの思考も徒労に終わってしまう。ウィンウィンってなんかエッチだよね、で話が終わってしまうんだ。
令和6年6月30日23時59分までになんとかしてこの文章を投稿したい、既に5月分はスッ飛ばしてしまってるので何とか6月中にこの文章を投稿したいんだという焦りから、「…そんな質問させてごめんな」と言いながらギュッと抱きしめる *25、みたいなカスみたいな解答も考えました。いやもっと何かあるだろ。今日もウンコカレー問題に苦しめられている日本全国、いや世界中のキッズを救う、理想的な解答があるのではないか。





…世界は、愛に満ちている。





いや、急に何の話?宗教の勧誘?って思われたかもしれませんが、違うんです。もしかしたらあなたはご存知でないかもしれませんが、世界は愛 *26に満ちているんですよ。ここを間違えてはいけません。理想的な解答とは、最も愛に溢れた解答であるハズです。
愛は時間を超え、空間を超えて伝わります。自身が締切と定めた令和6年6月30日23時59分まであと30分しかなかったとしても、その30分間に生み出せる愛は無限大なのです。愛を伝えなければ。ウンコカレー問題の出題者に、回答者として、愛を伝えるには、何と言えばいいのか。愛とは何か。相手と共に過ごすことではないか。つまりウンコカレー問題に回答することよりも、質問者と共に過ごすことが回答者にとって最上の喜びであることを伝えられたら…………閃いた!!理想の解答はこれだ!!




「恥ずかしくてここでは言えないよ、今度二人きりの時にちゃんと話したいな」



って、しきりにバカにしてくる妻に言ったら

「キモっ。なんで二人きりにならなアカンねん」

って言われました。まるで汚物を食べた人を見るかのような目で妻が俺を見てくる。おかしいな、愛が伝わらないな。担任の先生には伝わるといいな。



ところで、ウンコカレー問題に直面したうちの息子はやはり「カレー味のウンコ」と答えて、周囲の嘲笑を浴びていたようだ(娘談)。やはりウンコカレー問題は撲滅すべきだ。愛に全てを託しましょう。ウンコ味のカレーも、カレー味のウンコも、それを作った人の愛が込められていることを忘れてはならない。愛を持って煮込まれたウンコ味のカレーと、愛を持ってひり出されたカレー味のウンコを、愛を持って食べることが、この世を愛で満たすために必要なのです。愛キッツいな *27。もういいよ愛なんて。僕は一人でカレー味のカレーを食べに行きますので、あの時俺をバカにした君達はウンコ味のウンコを食べてこの世を恨んでください。終わり。


脚注(本文を読み終えた後にご覧ください)


以下、おまけの脚注です。おまけと言いつつ、脚注は1万字以上ある(ここから手前までの本文で約4500字)ので、本文のサプリメントとして、読みたい人だけが覚悟して読んでください。

 *1クラス担任:自分が小学生だったのは30年ほど前の話。私が小学生だった当時はスポーツタイプの先生が人気だった印象だが、親目線だと毒にも薬にもならない感じの愛想笑いが上手な先生あたりが割と安心感があります。生徒と一緒に私を揶揄ってきたのはスポーツタイプの先生でした。いろいろよくしてくれた先生でもあったけど、相性は良くなかったのかなぁ。

 *2カレー味のウンチと、ウンチ味のカレーのどっちかを選ばないといけないとしたら、どっち選ぶ?:所謂「究極の選択」と呼ばれる、「最悪の中の最善を選ぶとしたらどうするか」という問いかけの類。類似の問いは世の中に多数存在する。奇しくも最近世間を賑わせている東京都知事選が、およそウンチを選ぶしかない究極の選択であると言われていたりしますが、当記事は東京都知事選を礼賛あるいは揶揄する意図は一切ありません。

 *3かつて私が「カレー味のウンコ」と回答した:だってカレー美味しいじゃんね。世の中にはカレーと呼ばれる様々な料理があり、私はおよそカレーと名前のつくものが好きですが、ウンコカレー問題で提示されているカレー味とは日本式のカレーの味であると推定されます。日本式のカレーとは、歴史的には大英帝国統治時代のインドからイギリスにスパイスが伝わりイギリスで開発されたカレー粉が日本に伝わり、日本の会社が日本独自のカレー粉を開発、それが国内で普及し、固形カレールーとして発展し、今に至る。この記事のタイトルの通り、カレー粉をかけるとだいたいのものはカレー味になって美味しくなります。こんな高尚な歴史を持つ食べ物をウンコに例えるなんてどうかしてるぜ。俺はタイカレーが好きです。タイカレーみたいなウンコがあったら教えてください。

 *4育児とは過去の自分との対峙の連続:親との折り合いがあまりよくない私は、とにかく自分の人生がうまくいかないのを親のせいにしており、私が子供と向き合う時には「どうすれば自分の子供に恨まれずにすむか」を至上命題にしている。私が「好きにしなさい」と言う時は「どうすればいいか何も教えてくれなかった」と言われることを恐れ、「こうすればいいよ」と言う時は「おとうさんの言う通りにしたから最悪だった」と言われることを恐れている。自分が親に言われて嫌だったことを、自分が子供に言わなければならない時、どうすれば恨まれることなく伝えられるか。つまり私が子供に教えるべきことは「人前ではウンコ味のウンコは食べるな」である。

 *5ウナギ登り:何かが激しい勢いで上昇していく様を表す慣用句。物体が上昇することを表す際には使用せず、価格などの書面的情報が上昇することを表す際に使用する。
 一応知らない人がいる場合のために解説しておくと、ウナギ(ニホンウナギ)とはウナギ科ウナギ属に分類される体表がヌルヌルしている体長1mほどの細長い魚で、食用としては味にクセがなく旨みがある白身。身を開いて大きめに切った切り身を甘めの醤油タレを重ね塗りしながら炭火でじっくり焼く蒲焼き、またはタレを塗らずにウナギそのものの味を楽しむ白焼きとして食されることが一般的。基本的に河川などの淡水に生息しているが、産卵時のみ海に出て、成長してから淡水域に戻ってくる。その淡水域に戻ってきて河川を遡上していく様が「ウナギ登り」であるが、ウナギは実際には激しく水流を遡上することはあまりないそうで、ウナギ自体がヌルヌルしていることを「掴みどころがないものの喩え」として、それが上昇していくことを「意外性の表れ」とする、つまり本来あまり上昇しないものが上昇していくことを表している、という説もある。とwikipediaに書いてあった。
 なお、評判などが上昇する場合も「ウナギ登り」と表現することが可能であると考えますが、東京都知事選では様々な候補者が鎬を削り合い、評判のウナギ登りを狙っていることでしょう。当記事は東京都知事選を礼賛あるいは揶揄する意図は一切ありません。

 *6通りすがりの1000人に聞きました幸福度ランキング:統計学において、その統計に意味がある、つまり「ちゃんといろんな意見(サンプル)をランダムにいっぱい集めて集計したので、日本国民1億人全員に聞いたのとだいたい同じ結果になってますよ」と言えるためには、どれくらいのサンプル数を集めないのか、という問題がある。1億人全員から回答が得られればもちろん極限まで正確な統計が出せる(例えば国勢調査がそれ)が、一市民が1億人全員から回答を得るのは現実的に不可能であり、集めるサンプル数に目星をつけてからサンプルを集めるのが一般的。
 ザックリとした説明になりますが、「その統計がどのくらい信頼できるか」を「信頼水準」と呼び、信頼水準99%だととても信頼でき、信頼水準95%でまぁその統計が正しい前提で話を進めていいだろう、みたいな感じになる。サンプル数が多いほど信頼水準は高くなるが、統計を反映させたい母数1億人に対して、信頼度99%を目指すのであれば17000弱のサンプルが必要で、同様に信頼度95%であれば400弱のサンプルが必要、とされている。私がこの度創作した「通りすがりの1000人に聞きました幸福度ランキング」はサンプル数1000であるので、だいたい信頼できるランキング、ということになりますが、サンプルを採取する対象や地域や条件によって得られる統計に偏りが生じる可能性があることには注意しなければなりません(例えば北海道で採ったサンプルと沖縄で採ったサンプルでは、結果に違いが出る可能性がままある、等)。なお、選挙における「当選確定」などは上記のような統計の信頼に基づいており、開票途中時点の統計で99.9%当選するだろうということがわかります。極稀に最終盤の開票結果に偏りが発生し結果が覆る、といったこともありますが、逆にそこまで極端な偏りが発生すると票数の操作の可能性も疑われることになります。東京都知事選でも意外なあの人の巻き返しがあるかも!?当記事は東京都知事選を礼賛あるいは揶揄する意図は一切ありません。

 *7理不尽に殴られても毎日ニコニコ営業:どんな野次を飛ばされても「ありがとうございます!」しか言わない政治家みたいですね。当記事は東京都知事選を礼賛あるいは揶揄する意図は一切ありません。

 *8きっと思わぬところで小銭をゲット:そろそろ普通に話をしますと、落ちてる小銭を拾う行為は、刑法254条「占有離脱物横領(遺失物横領)」に触れる恐れがあり、罪に問われた場合、1年以下の懲役または10万円以下の罰金もしくは科料が課されることになります。無課金で本文だけ読んだ人は「小銭ゲットでラッキー!」と思っているかもしれませんが、100円課金してこの注釈を読んでいるあなたは、たった100円失うだけで、10万円もの罰金を事前に回避できるってわけです。お得!って書こうと思ってたけど、結局課金設定をせず全文公開してしまったので、よくわからない文章になってしまった。

 *9公の場:おおやけのば。私的空間ではなく、複数の人間で共用されている場のこと。
 この「複数な人間」というのが具体的に何人で誰のことを指すのかが非常に曖昧というか恣意的。1対1での対面、すなわち2人しかいない空間を「公の場」と呼ぶのは無理があるが、自分1人に対して別の人間が2人、すなわち3人いる空間では、他の人間と自分が普段から仲がいい間柄であれば私的空間として扱われる可能性が非常に高く、また全く見ず知らずの他人同士の場合はある程度の礼節が必要とされる公の場として扱われる可能性は十分にある。「おおやけ(おほやけ)」の語源は、一般市民が住んでいる家が「小家(こやけ)」であったのに対して、天皇が住んでいる家が「大家(おほやけ)」であったことに由来するとか。本来は天皇がいる場のことを指して「おおやけ」と呼んでいたわけですね。

 *10いちご味のカレー:この文章を書いた時点では知らなかったが、いちご味のカレーは実在する。主に栃木県の方で盛んなようで、普通のカレーに隠し味程度にいちごピューレを入れたものから、ドチャクソ甘そうな真っピンクのカレーまで、さまざまないちごカレーが開発されている。実在しそうなものを題材にしていては、やはり思考実験としてはインパクトが弱い。ちなみにカレー味のいちごは…めっちゃカレー粉をまぶせばいいのではないでしょうか。カレー粉は全てを美味しくしてくれる魔法の粉なので。

 *11ダブルバインド:double bind。日本語に訳すと「二重拘束」。ある人が、与えられたメッセージと、その裏にある対のメッセージ(メタメッセージ)が矛盾する状況に置かれること。ウンコカレー問題において私が想定しているダブルバインドは、ウンコ味のカレーかカレー味のウンコかしか選択できない状況で、どちらを選んでも「違う方を選べばよかったのに」と否定的に言われてしまう状況を指す。
 ダブルバインドの状況に置かれた人は積極的に行動を選択することが非常に困難になり、大きなストレスや心身の不調の原因となる。家庭や職場でこういう状況を生む選択肢を投げかけてくる人間は控えめに言ってクソであり可能な限り早めに距離を取るようにした方がいいし、これを読んでいるあなた自身が原因で周りの人がダブルバインドに陥らないように気をつけて欲しい。
 ちなみに、逆にメッセージとメタメッセージのどちらを選んでもプラスの評価を与えられると期待させるポジティブなダブルバインドを敢えて生み出し積極的行動を促す、ということも、今日では提唱されているようである。何にしてもストレスなく楽しく日々を過ごせるといいですね。

 *12同調圧力:特定の集団が取った選択と異なる選択をする個人に対し、不利益が生じるのを示唆することで、個人の選択が集団の選択と同調するように心理的圧力を与えること、またその心理的圧力。脅迫や強要であれば、実害を与えることを告知して相手の行動を操作するが、それとはまた違う形で他人の行動を操作する。小学生にとっては「みんなに嫌われるかもしれないという怖れ」が同調圧力の最たる要因になるだろう。
 日本においてはムラ社会が根強く残っており同調圧力が殊更に強い、などという言説がまことしやかに囁かれているが、それについては個人的には甚だ疑わしく思っている。「世界中どこに行っても同調圧力はあるよ」って言われた方が納得がいく。同調圧力がないと言ってる人の周りで同調圧力が本当に存在しないか、同調圧力に屈する必要がないやんごとなき身分の方か、あるいは同調圧力の存在に気付かない頭の中がお花でいっぱいの人かなんですが、まぁでも同調圧力なんて存在せずみんな自分の意思で好きなものを選択できる方がいいですからね、同調圧力なんて存在ないってことにした方がいいかもしれませんね。同調圧力は存在しない。いいね?

 *13簀巻き:体が動かないように筵(むしろ:藁で編まれた敷物)で巻かれラッピングされている状態。本来は巻かれるものは人でなくても簀巻きと呼ばれていたが、簀巻きされた人間を水中に沈めて死刑にするという刑罰が一般的になるにつれ、人の死を連想する表現となっていった。もちろん現代の日本で簀巻きを刑罰としている法律は存在しないが、非公式な場では大阪湾や東京湾に沈められる人が簀巻きにされているとかされてないとか。

 *14田んぼの田:「田」という文字をパーツごとに分解していくと、「 | 王 | 」に分解でき、さらに真ん中の「王」は「 += 」に分解できる。「1+1=」をそのまま字面通り配置していくと「田」という字を書くことができる。それをして、「1たす1は?」と問いかけ、「2」と答えると「ブブーッ!田んぼの田でしたーwww」と相手に間違いを強要する。当然、問いかけに対して「田んぼの田」と答えると、「何言ってんの?1+1は2に決まってんじゃん」と、さらに冷ややかに間違いを押し付けられることになる。上で述べたダブルバインドの一例とも言える。
 「た」という音が「田」という漢字であることを口頭で示すためには、だいたい「田んぼの田」と言われるわけですが、なんかこう、もっと円滑なコミュニケーションを目指せませんかね?「た」と言えばアレ、みたいな。いやぁでもまず漢字なのかどうかを相手に伝えないといけないしなぁ、「漢字のた」だと「田んぼの田」とそう変わらないしなぁ。そもそも「んぼ」って何だよ。と思って調べてみたら、「田面(たおも)」の音が変化して「田圃(たんぼ)」になった説が有力とのこと。なんか似たような音の変化をした他の言葉もないかな。もしかしたら「ちn

 *15思考実験:頭の中で想像する実験。現実でできる実験は現実でやればいいので、思考実験はだいたい現実ではありえない前提下でのシミュレーションを行う。我々が人間である以上、複数人で思考実験を行うためには言語を用いて実験環境を複数人で共有・理解する必要があるため、基本的には、言語で共有されていない前提は存在しない、と考える方が自然である。例えば「自分が何もしなければ5人がトロッコに轢かれて死ぬが、自分があることを実行することで死者がその5人とは別の1人のみになる時、自分はそれを実行すべきであるか」という所謂トロッコ問題は思考実験であるが、トロッコ以外に死因が存在しない前提でないと成立しない。心筋梗塞で突然死したり、いきなり隕石が落ちてきたりする前提があると困る。困るのだ。

 *16積極的にウンコを口に入れることを至上の悦びとする方々:一言で表すと、スカトロジスト。スカトロジストは糞尿愛好家とも訳され、尿を口に入れることを悦びとする方々も含まれるが、ここでは専ら人糞を口に入れる方々を想定している。健康な人の尿は無菌とされている(尿道や膀胱に感染症を持っている等はその限りではない)が、基本的に人糞は大腸菌の宝庫であり、大腸菌は腸内菌環境が健全な限りにおいて体内でしっかり仕事をしてくれているが、気管や血管が露出した傷等から血液内に入ると重篤な感染症を引き起こす可能性が高い。健康を第一に考えるなら人糞を口に入れようなどと考えない方が身のためである。
 余談ではあるが、一方で、腸内環境は個々人によって様々である。腸が常に健康な人もいればいつも調子が悪い人もいるが、もしかして腸の健康がその人の持つ大腸菌の良し悪しによって左右されるのであれば、非健康な人は健康な人の大腸菌をもらえば健康になれるんじゃね?という仮説の下、人のウンコを別の人の腸内に尻から注入する「糞便移植」というものが、先進医療として大真面目に研究されている。日本ではまだ治療方法や効果が確立されておらず、医療保険も原則として適用されない(=治療費を国が肩代わりしてくれないので高額になる)。賢明な読者諸君においては、安全かどうかもわからないまま目先の情報に踊らされないようにしていただきたい。

 *17実験環境の汚染:これをコンタミネーションと言う。通称コンタミ。コンタミネーションの本来の意味は「混入」。実験分野においては、仮説を裏付けるための実験において、操作ミスやアクシデントにより、想定していない要素が混入し、仮説の立証が困難になる、つまり実験が失敗することを指す。わかりやすい例で言うと、検査のために患者の唾液を摂取している看護師が、その最中にマスクをせずくしゃみをしてしまった場合、看護師の唾液が患者のものに混ざってしまう可能性が生まれてしまい、検査結果が本当に患者の唾液から出たものなのか、あるいは看護師の唾液から出たものなのかがわからなくなってしまう。
 研究者はコンタミを親の仇かそれ以上に憎んでいる。何が混ざり込んでそれがどの結果に影響しているのか、を特定するのが困難を極めるためである。研究者は日々、不純物が混ざることを恐れ、細心の注意を払って実験を行い、そして混ざり込んだ何かに絶望しているという。

 *18かつて神童と言われた小学生の聡い私:神童とは、優れた才覚を示す子供のこと。神の如き子供なんて大袈裟だなぁ。それを自称してしまうあたり、昔も今も俺がいかに人から疎まれているかを端的に表していると言える。謙虚に生きましょう。

 *19自明:「説明しなくても明らかであること」の意だが、だいたいの場合において「わざわざ説明するのはめんどくさいからいちいち聞くな」と同義である。

 *20常温で放置していれば当然雑菌が繁殖し、有害物質と化す:「カレーは熟成させた方が旨味が増す」とよく言われ、実際美味しいらしいのだが、食中毒の原因として挙げられるウェルシュ菌は自然界そして人体にも広く分布し、なんかの拍子でカレー鍋に入り、常温でほどよく増殖する。ウェルシュ菌は加熱しても全滅させることが難しく、カレーの温度が加熱後に徐々に下がっていく時にまた増殖するので、増やさないことも難しい。冷蔵庫に入れていても菌の増殖を完全に止められるわけではないので、作った分は熟成やら何やらと無理を言わず早めに食べ切ってしまおう。カレーに旨味を求めるなら玉子でもバターでもチーズでもかければいいのだ。あぁ、カレーが食べたくなってきた。こんな記事でなければ。

 *21錯誤:文意の取り違えにより、発言した人とそれを聞いた人との間で認識にズレが生じること。要は勘違い。仲のいい友人との間で錯誤が生じたのであれば「そういう意味だと自分は受け止めきれなかった、ごめんね」「いやいや、自分も言葉足らずで悪かったね」とお互いに謝れば済むが、これが裁判で「錯誤により発生した損失の責任を取るのは誰か白黒はっきりつける」となると、これ一つでクソ長い論文が書けてしまう重大な問題となる。
皆様がスマートな人生を送るために、錯誤にまつわる注意点を簡単に書いておくと、
・勘違いで発生した約束は取り消しできるよ
・でもあんまり常識はずれな勘違いはダメだよ
・相手が勘違いしてると知ってて話を進めるのはダメだよ
・その約束を信じてた第三者に「勘違いに基づく約束だったのでその約束は取り消しました」って言ったら当然怒られるよ
くらいでしょうか。ちなみに私は民法の試験でまともな成績をとれたことがないので、詳しいことはちゃんと法律を勉強した人に聞いていただけるとありがたいです。

 *22ウンコ味純度100%:散々ウンコ味ウンコ味と書いてますが、ではウンコ味とはどんな味なのか?残念ながら私はウンコを口に入れたことがないのでわかりませんが、だいたい大便は消化物の残渣と大腸菌の死骸と胆汁だと聞いたことがあります。この中の胆汁がね、めちゃくちゃ苦いんですよ。
胆汁とは主に脂肪を分解する酵素を含む消化液で、消化器官の一つである胆嚢から分泌されますが、この胆汁を含む胆嚢は、獣や魚を捌くときでも絶対に潰してはならないとされています。潰れた胆嚢から飛び出た胆汁が肉につくと、苦くて不味くて食べられなくなるからです。それくらい苦くて不味い。ちなみに熊の胆嚢を胆汁が入ったまま乾燥させた漢方として「熊胆(ゆうたん、くまのい)」というものがあります。胆汁の味がどんなものか確かめてみたい人は頑張って入手してみてください。味は「極めて苦い」とのこと。
ウンコに含まれる他の成分がどのように味に影響するのか、調べるのが大変そうだと思ったので、参考までに、この世の文献をおよそ広く読み込んでいるAIさんに聞いてみました。(今回はAnthropic社の最新モデル、Claude3.5Sonnetを使用)。
問.
五大味覚(甘味、塩味、酸味、苦味、旨味)のそれぞれの最大値を100点とした時、ウンコがそれぞれの味覚をどの程度刺激するか、点数を推定しつつ刺激の強い味覚から順に並べてください。
答.
1.苦味 85点(胆汁、ビリルビン)
2.酸味 70点(腸内細菌による発酵で産生される短鎖脂肪酸)
3.塩味 60点(電解質)
4.旨味 40点(タンパク質が分解された後のアミノ酸)
5.甘味 15点(消化されなかった糖質)
(ただし、臭気が味覚に与える影響は無視できない)
とのことなので、酸味と塩味もそこそこありそうです。イメージする味の参考にしてください。
そういえばウンコ味のカレーの匂いってどうなってるんでしょうね。臭かったらさすがにみんな選ばないと思うんですけど。味だけウンコで匂いはカレーなのかな?本文書いてる時に思い付きませんでした。

 *23カレー味純度100%:では、カレーの味とは何か。基本的にスパイスの味というか香りがカレー独特の味を生み出していると思いますが、そのスパイスはカレーの種類によって多種多様。インドでは各家庭でスパイスの配合率が異なると言います。
日本で食される日本食としてのカレーに含まれるスパイスは、まずターメリックとコリアンダー、次いでクミンを中心に配合されており、上記3種のスパイスで50〜60%の量を占めています。コリアンダーが刺激的な香りの中心となり、ターメリックが香ばしい渋み、クミンが強く抜ける苦味と甘味を含みます。後は辛味だったり花や葉の香りだったりを好みで足していく感じ。私が市販のルーを使わずにインドカレーを作る時はコリアンダーだけでスパイスの6割くらいを占めます。そのスパイスの香りに、煮込んだ野菜の旨みや肉の脂が混ざり、最終的なカレーの味になっているのですね。
料理したがる男はなぜかまずカレーをルーを使わずに作りがちですが、「俺が考えた最強のスパイス」を最後にちょちょっと入れることで、(それが美味しいかどうかは別として)割と簡単にオリジナリティ溢れるカレーが作れるのも、男心をくすぐる要素ではあります。自衛隊が作るカレーには隠し味として市販のコーヒー牛乳が入っているとか。

 *24win-win:ある行為または関係性により、お互いに利益の増大を目指すことができる状態を指す経済学用語。
例えば「AがBから物を買う」という行為は、買い手Aがお金を渡して物を得る、売り手Bが物を渡してお金を得る、という結果を生む。お金だけを見ればAのお金が減ってBは得しているので、win-winではない。物の部分だけを見れば、Bは物を失い、Aは物を得ているので、win-winではない。だが、AもBもその金額で物を売買することを希望しているとなると、AとB双方が「コストと引き換えに希望通りの結果を得る」という利益を得ているので、win-winと言える。お互いに納得して取引をしているのだから、どちらか一方が被害者ヅラするような事態が発生すればそれはおかしいのである。
対の概念として、ゼロサム(zero sum)というものがある。直訳すると合計ゼロ、つまり片方がプラスで片方がマイナス、誰かが得した分だけ誰かが損する状態。「AはBから安く買いたいがBはAに高く売りたい」となった時、Aが安く買えば買うほどBは損をする、つまり全体の場としてプラスマイナスはゼロ、という考え方になる。ゼロサムゲームの考え方をすると人と敵対しやすくなってしまうので、win-winの関係性を目指しましょう、というのが、一応の最近のトレンドではあるらしい。

 *25「…そんな質問させてごめんな」と言いながらギュッと抱きしめる:「仕事と私、どっちが大事なのよ!」と彼女に言い詰められた時の模範解答とされている発言と行動。たいていの場合において、そもそも仕事して収入を得ないと生活ができないんだから仕事の方が大事なのは当然なのだが、別に彼女のことが大事でないわけでもないし、しかし「仕事」と答えて変な受け取られ方をされても困るし、かといって「お前」なんて答えてじゃあ仕事辞めてよねなんて言われたら社会生活を継続するのが困難になってしまうため、うまいことはぐらかすための方便が「そんな質問させてごめんな」である。男女逆の立場の時もこれが模範解答になるかどうかは疑念の余地がある。

 *26愛:ここで想定している愛とは、キリスト教における隣人愛が最も近い。神学における隣人愛の定義や解釈は自分もさっぱりわからず、調べだすとそれこそキリがないので割愛しますが、要はエロチックな性愛ではなく、周りの人と仲良くなれたらいいよねということを見返りなく考えられるような愛、ということです。ただ、常に見返りのない愛を周囲に振り撒くことが健全なのかどうかについては個人的にも疑問が残る。自分が隣人を愛するのと同じように、周りの人も自分を愛してくれるのが当然である。そう思えるような環境を見つける、あるいは作り出すことが、人の身として愛にできることの限界なのではなかろうか。

 *27愛キッツいな:愛にできることはまだあるかい、とか言われましても、神が人を愛すのと同じようには人は人を愛せませんよ。愛にできることはもうないのではないでしょうか。
こんな性格をしているので俺は人から愛らしき物を与えられたとしてもその愛はザルのように隙間から漏れていき、俺に伝わることはありません。この世界に対する漠然とした恨みでもないとこんな文章書けませんよ。これを読み終わったらみんな正気に戻って日常の世界に戻ってください。あなたの隣人を愛しましょう。

脚注以上。どうしても都知事選が終わるまでに書き上げたくて雑になってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございます。


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