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祖母の介護で、抑圧してた自分の心と対峙しなきゃいけなくなった。


ガン、ガン、ドガン
壁を殴りつける音で、とび起きた。

いま何時だろう。
またロクに眠れなかった。

階段の上から息をひそめて様子をうかがう。
とりあえず、怒鳴り声は聞こえてこない。



真っ暗な、夜明け。

これは家族の介護によって、長く押し殺していた2つの感情が噴出してしまった私の、争闘記だ。





おばあちゃんが暴れる日々



はじまりは突然やってきた。
祖母が、あばれる。

早朝から深夜まで、激高しながら泣き叫ぶ。
しかもなぜか一日おき。

記憶がなくなっているので認知症ともいえるけど「せん妄」といった方が分かりやすいかもしれない。

リミッターを外したような、八十五歳とは思えない強いちからで、ものを投げつけ壁やドアを叩きなぐる。

孫がドロボーだと、地団駄ふんで怒る。

それでも私たちは慌てなかった。書籍などで学んできた知識が役に立つ。
これは物盗られ妄想といわれる症状だ。

犯人にされやすいのは、一番そばにいる人や心を許している相手だともいわれている。
たしかに、いつも彼女のそばにいたのは私だった。


激高する祖母は、病院へ行くこともつよく拒んだ。

記憶がなくなって不安な気持ちもあるだろう。
他人に弱い自分を見せたくない気持ちもよく分かる。

発言を否定せず、寄り添って見守ろう。
それしかしてあげられない日々が続く。




「お前は恥さらし」とか「こんなはずじゃなかった」とか、文字に起こすのもためらういろんな罵倒をされたけど、別にショックは受けなかった。
表現が直接的になっただけで、昔から似たようなことをいわれてきたから。



祖母は、もともと強い人だ。

明るくて感情表現豊か、バイタリティーにあふれ足腰も丈夫だ。
みんなで集まってワイワイもてなすのが好きで、友達はたくさんいた。


ただ、親しい人だけが知るすがたもある。

口調が乱暴でプライドが高く、なにより世間体が大事。
感情はクルクル変わり、突然不機嫌になっては暴言がとんでくる。
どこに地雷があるか予測もできない。

私の父は長男。母は長男の嫁。
母にとっては姑との同居生活だ。

決して両親が弱いわけじゃない。
父はいつも中立な立場で判断し、理不尽な攻撃から私たちをかばってくれる。

しかし祖母には祖母だけの理論があって、曲解したり思い込みも激しい。どんな正論を返そうが延々と平行線。

面倒なので、みんな次第に「彼女はそういう人だから」と諦めていった。



身内に馬の合わない人間がいるなんて、どこの家庭でもよくあるはなしだろう。

私は孫という立場もあって、彼女と一番平和に過ごせる。だから大学卒業後実家に戻ってからは、自分から「おばあちゃん係」を引き受けていた。

おしゃべりが好きな者同士、毎日となりに座ってお茶をのみ再放送のテレビで笑いあう。
一緒に買い物に行って、ごはんをつくって。初孫で同性の私は話しやすいと、息子にもいえなかった昔話を打ち明けてくれたりもした。

やっといい関係性の、祖母と孫になれたと思ってたのに。




最初に飛び出てきた感情は「こわい」


五日、十日、二週間。
さきがみえない状況が長引くにつれて、疲労や睡眠不足は重なり、こちら側の精神も不安定になっていく。

すると私のなかに、ひとつの感情が沸き上がってきた。


怖い。
おばあちゃんが、怖い。

子どもの頃の私が抱えていたきもち。



祖母のことばは、いつも刃のように鋭くて私たちの心をかんたんに切り裂く。
孫がヘマをすれば、その攻撃は両親へも飛び火した。

家族が家族を傷つける光景は、最悪だ。
子どもがすがれるのは、家族だけだから。


この人に逆らってはいけない。
逆らえばみんなが、つらい思いをする。

いつもビクビクしていた。
地雷をふまないようごまをすり、おどけて笑ってみせた。


だけど何年も何十年もつづけば、それがもう「あたりまえ」で「通常」になってしまう。

ひとは、慣れるのだ。
最初は熱湯に感じる湯舟も、つかり続ければ慣れていく。

怖いという感情も、慣れてマヒしていつのまにか忘れていたけど。
心の底で、消えずに残っていたらしい。



ドアを乱暴に叩く音、怒りをあらわすドカドカという足音。
ぶるぶると震えが止まらなくなる。

私の名前を呼んでいる。ドロボーを出せと言っている。

部屋のすみで身を縮めて、耳をふさぐ。
涙がとまらない。

暴れるとはいえ、全力をだせば負けはしないはず。
頭では分かっていても、心が納得しない。
抗ってはいけない、抗えるはずないと萎縮する。

飛び出してきた感情に、すっかり支配されてしまった。


逃げていい。私はもう子どもじゃない



父と母は、かわるがわる仕事を休んで対応してくれていた。
ただ状況が長引くにつれ、どうしても在宅の私だけでみないといけない日がでてくる。

彼女は父や母になんどか手もあげていた。
二人きりになるのは、怖い。

そんな時、地域包括センターの職員さんから電話があった。

業務連絡だったけど、わらにもすがる思いでこういう場合どうしたらいいか、と質問してみた。
解決法なんてない、とにかく頑張るしかないんだと思いながら。


「 逃げてください 」


耳を疑った。

そんなことしていいの?
高齢者で病人で、家族のあの人を、放って逃げるなんて。

でも電話のむこう、その女性はたしかな声でくり返した。

「危ない時は逃げてください」
「ご家族の安全は、大事です」


まさに青天の霹靂だった。
その言葉で我に返る。

逃げても、いいんだ。

そうだ。
共倒れになっちゃいけない。




それから私は、逃げ方を考えるようになった。

二人きりの日はいつでも外に出られるよう、バッグを用意しておこう。
そしてなにかあればすぐ、近所のマンガ喫茶へ逃げよう。

快適な空間で大好きなマンガが読み放題。どんなマンガが置いてあるかな。ソフトクリームも食べられるらしい。

そんな風に思っていたら、最悪の状況が楽しみにすらなってくる。




恐怖は、少しずつ薄れていった。
逃げるという選択肢ができたおかげで、心に余裕がうまれた。

思い出せた。

自分はもうあの頃の、逃げ場のない子どもじゃない。
自分で道を選択できる、大人になっているんだと。



電話越しにいただいたことばのおかげで、恐怖の支配から逃れ、冷静さを取り戻していった。



恐怖を克服して見つけてしまった「嫌悪」




冷静になったことで、現実的な問題を考えられるようになる。

これだけ暴れつづけるのは、自覚はなくとも本人の身体への負担が大きいはずだ。一刻も早く病院に行かなきゃ。

まずかかりつけ医に紹介状を書いてもらい専門医を受診しよう。
そのあとは介護認定を受けサポートを受けられる体制も整えなければいけない。
家族介護なので、なにかあった時のために周囲の人にも状況を説明しておこう。

細かい苦労や工夫が数えきれないほど必要で、課題は山積みだったけど、家族がひとつになって獅子奮迅した。

運が良かったのか介護認定の調査員さんはとても理解のある方で、当人のいない所でも話を聞いてもらえた。
最後には労いの言葉までいただけて、流れる涙がおさえられなかった。

認定区分は要介護2。

主治医や専門医には、取りつくろい反応や祖母持ちまえの社交性で誤解され、症状を信じてもらえなかったので、この認定には報われたようなきもちになった。




癇癪や攻撃性を抑える薬が処方され、やっと激高は収まってきた。

デイサービスの利用もはじまって、逃げる必要もなくなり、すこし休む余裕ができた頃のこと。




祖母が仏壇のおりんを激しく鳴らしながら、なにやらブツブツ言っていた。
耳をすませて驚く。


私はこんなに立派な人間なのに!産まれて一度もだれも傷つけず、みんなに良くしてやってきたのに。恵んでやってるのに。あんなバカなやつらのせいで…」


こんな状態でもなお、祖母の考えはなにも変わっていなかった。


自分は一度も間違えていない。
誰かを傷つけたことなんてない。


心の底から、そう思い込んでいるんだ。


--私は父と母が大好きで、尊敬している。
だからこそ、祖母のことも嫌いになりたくなかった。

家族だから。
一緒に暮らす、血のつながった家族だから。


きっと祖母にもたくさんの苦労や歴史があっただろうし、懸命にいのちを繋いできてくれたから、いまの自分がある。

そう考え、どれだけ傷つけられても耐えて、諦めて笑ってきた。

私だけじゃない。

身内のみんなが、あなたに合わせて耐えて耐えて、頑張ってきたのに。





乾いた笑いがこみあげる。

「嫌いだ」

ポロっと口から、もれてしまった。



固く封印してきた想い。

家族だから。
絶対そんな風におもっちゃいけないと、押し殺してきたのに。

「この人が、嫌いだ」







自覚したら、止まらなくなった。

からだが勝手に拒絶する。


同じ箸を使うのも、身体にふれるのも、つらい。
抜けた毛を見るだけで気持ち悪くなり、吐きそうになる。

恐怖を克服したさきには、嫌悪という感情が待っていた。




いじめ、虐待、復讐






そして、悪魔はささやいた。


そうか。
今ならなにをしても、無かったことにできる。



身体は弱り、記憶は五分も保てない。
いまの強者は彼女じゃない。私だ。



三十年の人生のあいだ、この人から投げつけられたたくさんの刃。
同じ言葉を返すぐらい、許されるかもしれない。


「 どうせ、忘れちゃうんだから 」




追いつめられた人間は、汚い部分が浮き彫りになる。
平和を願ったり、みんなで笑い合おうとか散々キレイごと言ってきたのに。



いじめ、虐待、復讐。

私たちはそういうものをどこか他人事として、日常から離れた場所にあるかのように錯覚しているのかもしれない。



でも踏みだすのは案外、カンタンだ。

最初の一歩はほんの少しでいい。


ムシするだけ。
ちょっと、からかってみるだけ。
みんなと一緒に、冗談のようなことばを交わすだけ。

少しずつ、少しずつ。



そうやって悪意はひろがっていく。


「そんなつもり」じゃなくても。
闇はどんどん深みを増して、すべてをのみ込んでいく。









既のところで踏みとどまったのは、あの人のためなんかじゃない。

未来で自分が、苦しむと思ったからだ。

忘れるからって、無くなるわけじゃない。
事実は残る。
自分のなかに、ハッキリと。

こんなところでこんな人のために、自分を嫌いになりたくなかった。





後戻りできなくなるまえに、私はそれ以降、介護や世話をすべて放棄させてもらった。

幸いにもほかの家族やヘルパーさんの助けを存分に借りられるから、できたこと。
もし一人だったらと考えると、ゾッとする。


病気などの勉強はしてきていて知識はあったし、祖母が認知症になってもきっと、私たちはうまく対処できると思ってた。

まさかこんな形で苦しむとは、想像もしてなかった。


家族介護という、閉鎖的で出口もみえないトンネルのような環境。

そこでは自分のなかの暗闇も浮き彫りになるなんて、専門書では知れなかった。


「一人で頑張ろうとしちゃいけない」
介護の先輩たちがおっしゃっている意味が、身をもってやっとわかった気がする。





抱えたまんま、生きていく



そうして季節が一周した頃、突然彼女はいなくなった。

医者から末期のガンを宣告され、あっという間の出来事だった。
結局最後まで、本当のきもちはなにも伝えないまま。





それから三年の月日が経つ。
今も、頻繁に夢をみる。

葬儀を終えて灰になったはずなのに、何度も何度も、当たり前みたいな顔してあの人が家に帰ってくる夢。


私は激怒する。
あんたなんて大嫌い、二度とかえってこないで!

生前は一度も口にできなかった反抗的なことばを、夢のなかで叫びつづける。
現実はこんなにも、平穏になったのに。

生きているうちに、元気なうちに戦っていたら、後悔は残らなかったんだろうか。
なにが一番悔しいかって、いまだにあの人を百パーセント嫌いだとは思い切れないことが、悔しくて憎らしい。



それでも私はあのとき、憎しみに身を任せない選択をした自分に、誇りをもちたい。




だから、決めた。

今はまだ、おばあちゃんを許してあげない。



無理に忘れようとしたり、気持ちをごまかしたりしない。

私の人生はこれから先も、つづいてくから。
怒りも悲しみも苦しみも、ぜんぶ認めて受けいれよう。

きっとそれが、自分らしく生きていくための第一歩なんだ。

醜くて汚いような感情も、もう否定しない。
だってそれも、私の一部だから。


時間が経ってうつり変わっていって、自然となにも感じなくなる、その日を待って。



抱えたまんま、生きていこう。

そんなこともあったなって、いつか心から笑うために。






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