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日記 好きなもの

日ごろから更新の種になりそうなものは頭の片隅に置いておくようにしていますが、それらを実際に使用するのはとても労力が必要なことに気づいたので、たまにはいつも以上に雑な更新もアリだと言い聞かせています。

個人的な好み且唐突な切り出しなのですが、私は外国語を翻訳した時の違和感がとても好きです。まるでそれがあるかのように記述していますが、他人にそれの存在に対しての同意を求めたことがないので分かりません。

これを自分の中で煮詰めたり増幅させたりして更新する際に実装できるように心がけていたのですが、時間がかかる上に分かり辛い(日常会話で人が極力削りたがる回りくどさ的要素が全力稼働している架空の会話なのでしょうがないです、そんな所が好きです)という少なくともこの媒体においては最悪の性質を揃えていることが判明しました。

特に最初の更新ではそれが顕著に出ていると思います。言いたいことを雑に頭で英訳し、それを雑に再翻訳することを徹底までとは行かずと試行錯誤していた気もします。時間と共に読みにくさが向上するので新鮮でした。

しかし近年の目覚ましい翻訳技術の進化により、この要素が遠くない未来に消滅してしまうのではないかと一人で心配しています。思えば何にしても技術が未熟である段階に見られる特有の要素、それも多くは将来的に消滅することが望ましいと判断されている要素に魅力を感じる層は一定層いるような気もしています。

例としては、昔のサイレント映画を好む人を筆頭にレトロを嗜好とする層が思い当たりました。このような層は理解され、あえて時代を逆行したような商品が支持を得る商売が誕生したりします。私の嗜好もこのような層に取り込まれて欲しいと切に願いま。

しかしある程度の歴史を抱える多くの文明の利器は純粋に進化していく過程で余計な要素を切り捨ててきたことを思えば「レトロ」という価値観に保護されているものが非常に僅かであるとともに異常なことだとも感じます。(この言い方は違和感が拭い切れませんが)(また、そこまでの支持を得るような要素は寧ろ実用性が許せば考慮されるべき魅力であり、一般に出回る品の分岐進化的なイメージもあります)

娯楽以外の文に趣味性を感じるとは、対象の進化で切り捨てられそうな要素(それは実用性以外の要素と言い換えることができるかもしれません)に魅力を感じることと同じな気もしていますがよく分かりません。

進化する文明の利器が要素を切り捨て、現代に気づかれないとも言える、そんな要素を愛する人が少数である場合は諦めるべきなのでしょうか。

そんな嗜好を大切にすべきなんて主張し出したら何処まで遡ればいいのか分からない事もあり無意味な気もしますが、一方で自分の好みの概念それ自体が時代と共に消滅していき、その過程を体験することができるのは貴重な事な気もしています。

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