見出し画像

"セヴン#ス"感想/「願い」に寄せる願い

なみと天井は、自由意志とアイドルでいることで叶えたかった願いとを両立させることが出来なかった。

天井を無遠慮に露悪的に言う向きに対して私は怒りとともに批判してきたが、私は私で「バトンを渡す」というか「彼ら(天井・なみ)は舞台からもう降りた人たちで、今を築いているのはあくまでアイドルやプロデューサーだ」という風に意識的に上の向きに食いかかる方向で主張してきた。今でも間違っていないと思っている。でも、見落としていたものがあった。

なみが自身の願うようなアイドル活動をすることが出来なかったように、願いの実現性はいくらでも否定できる。たとえば空を自由に飛びたいと言う人がいたとする。空を自由に飛びたいと願ったところで人に羽根は生えていない。でも、そう願うこころは誰にも否定できない。

では願いは解体不能だろうか。空を飛びたいのは何故だろう。飛ぶという行為は手段であって、高いところに行きたい、遠くへ行きたいという願いがあるのかもしれない。ただ飛びたいという願いそのものなのかもしれない。

天井は何を願ってプロデューサーになったのだろう。なみは何を願ってアイドルになったのだろう。彼らは解体不能な根源的な願いを否定されたのだろうか。それはもう成就されないのだろうか。

円香WING 『心臓を握る』

彼がこう願うだけではアイドルは羽ばたかない。羽ばたくには彼女ら自身の力が必要だから。でも、それだけでもない。彼がその願いに身を捧げられる場所を作り守っている人がいる。

「悲しさの象徴」だけではないのだ

彗星のように現れて消えていった八雲なみは、再び一時の脚光を浴びることになった。伝説の真実を知るひとたちは、彼女のことを覚えている。彼女の震えるこぶしを覚えている。耐え難い重圧に追いつめられるにちかの最後のよすがであり続け、何を何のために表現するのかと美琴に問いかけ導き、真にすべてを喪ったと赤子のように泣くルカをなだめたように、次の1ページを描く人々を今もなお支えている。

もしまだ何も終わっていないのなら、その願いが叶ってほしいと思う。

咲耶GRAD『ラブレター・ディア』

人は手の届くものすべてを手に入れることは出来ない。この世のすべてに手が届くこともない。彼が手を差し伸べられる人だけではなく手を差し伸べたいと思う人を含めてすら、取りこぼしてしまう人々がいる。でも、そう願うこころは誰にも否定できない。譲らないというならなおさらだ。

人は手を差し伸べられただけで立ち上がれるのだろうか。にちかは喪う恐怖のために幸せになることから長らく逃げ続けてきた。彼女はようやく差し伸べられた手を見つめようとしている。美琴は話を聞いて回っただけで震えるこぶしを握ったのではない。アドリブが許される場所で、無数の選択肢からそれを選び取ったのだ。ルカはどうだっただろうか。自分のために身を投げうってくれる誰かが居ることを本当は分かってはいなかったか。

「283の論理」はすべての人を救えない。
そう祈ることは出来る。
「283の論理」が人を救うのではない。
その人の意思で「私」を愛してはじめて誰かの手を取ることが出来る。

彼らが描こうとしている次のページは、そういう願いではないだろうか。

もちろんできるとも
できないなら、人はペンを持つかい?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?