ある批判に便乗した曖昧な語彙についての一考察

ストレスにまみれながらRE4ハードコアS+を狙って走っていた4/8の土曜日、

という記事が公開されました(以降、「元記事」と呼称します)。正直ツッコミどころは多い記事だと思いましたが、chapter13の攻略に忙しかったので適当に流しました。

で、昨日何となくnoteを開いたら元記事に対するカウンターとして、炭酸水さんによる次の記事が公開されていました(以降、「カウンター記事」と呼称します)。

こちらは連作と言うことで、現時点では執筆または公開されていない後編もあるそうなのですが、正直に言うとこちらも大概ツッコミどころが多いなと思いました。でも、昔の自分とか他人の文章を読んでてそう思うことってそう珍しくはないと思うんです。前述のとおり後編もあるそうなので企画の邪魔みたいになりかねないしなと思ったり、そもそもコメントでいいじゃんとか結構それなりに悩んだんですけど、何というか、あんまりフェアじゃないなと思ったんで多少広く見える形で議論に横槍を入れてみることにしました。不快に思われたらごめんなさい。

なお念のため断っておきますが、私は元記事の記者ともリアルサウンドともカウンター記事ともSHINY CORDとも一切の関係がないし、もちろんシャニマスの関係者でもありません。ただのいちプレイヤーです。また、元記事の記者や炭酸水さんの人格に対する悪意や攻撃の意図は一切ありません。あくまで両記事に対するいち見解としてご理解ください。

本題に入ります。カウンター記事の最初の段落「アイマスはゲームに過ぎないのか」で、元記事の

『アイドルマスター シャイニーカラーズ』は育成ブラウザシミュレーションゲームである。

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1299183.html
アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

という表現に対して「アイマスはゲームだと言い切るのはどうなのか」と、かなりの熱量で苦言を呈されています。

落ち着いてchromeタブを見てください。

「アイドルマスターシャイニーカラーズは育成ブラウザシミュレーションゲームだ」という説明には何の誤りもありません。

「アイマスは(シャニマスは)生態系だ」というのは、仰りたいことは分かりますが、そんなことを言いだしたら世の中のほとんどのIPの説明に噛みつかなきゃいけないですよ。そもそもライブの話から始まってるアニメ化の記事で、その方向性に懸念は表明しつつも一応の期待は寄せている記事なのに「ゲームじゃないならシャニマスじゃないのか」は流石に言いがかりも良い所だと思います。

と言いつつ、私もこうやって特定の記事に噛みついているので人のことを言えた義理ではないので、あれだったら「どの面下げて言ってんだクソ野郎」とでも罵ってください。全くもってその通りだと思うので…

カウンター記事ではつづく「実在性は手段に過ぎない」という段落で、

i)まず、「記号的なところがない」というのもあまりに不正確です。
むしろ、「記号から始まっている」とも言うべき表現が、シャニマスにおいては多用されています。
ii)また、シャニマスは、記事に書かれているような「実在性を追求するという愚直な一貫性」が保たれているわけではありません

https://note.com/shuwashuwascider/n/nb1f971ad11cf
シャニマスアニメ化が難しい理由は全て八宮めぐるが教えてくれた

とご指摘されています。これは全くもってその通りだと思いますし、おそらく元記事を読んだ多くの方が首を傾げた部分だろうと想像します。
また、以降の文章で展開されている「記号を起点とした相互理解が目指されている」というのは、なにかとシャニマスのアンチ記号論的な性格に注目されがちな中で鋭い考察だと思います。

ところで実は元記事では、

実在性を追及した果てにアイドルたちを物語化することへの自己言及を行っている。

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1299183.html
アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

という一節があります。ここだけを見ると「実在性」は「自己言及」のための前段階と読むことができ、記者も「自己言及」を重要視しているだろうことは分かりますが、記事全体で「実在性」を繰り返し用いているためこの比重が読者にとって明らかではありません。ここに限った話ではありませんが、記者が何を言いたいのかが定まらないということが元記事の本質的な問題だと思います。

その最大の原因はこうしたオタクワードの意味の曖昧さ(あるいはそれを許してきた界隈)にあると考えます。そして、このカウンター記事の問題点も同じところにあると思います。

まず、この元記事において「実在性」

なぜ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』が多重的で自己批判的でキャラクターに記号的なところがないのかというと、『シャニマス』はアイドルの実在性を追及するという愚直な一貫性を持っているからだ。

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1299183.html
アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

で唐突に登場したあと、特に説明がなされないまま用いられ続けます。文章を読む限り、記者は「キャラクターが本当に生きているように感じられる表現や要素」という定義で用いていると思われます。

※この一貫性の証拠として比較的最近の企画である「見守りカメラ」を第一に挙げるのはズレている気がしますが、ゲーム外の企画を挙げているという点でもやはり最初にある「ゲームじゃないならシャニマスじゃないのか」は記者の意図にないことは明らかでしょう。

ではこの定義が正しいと仮定して、

ではもし『シャニマス』のアイドルが実在するとして、『アイドルマスター シャイニーカラーズ』のアニメというものは、実在性に則ったものなのだろうか。

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1299183.html
アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

でいう「実在性に則る」とはどういう行為を指すのでしょうか?

私が考えた限りでは、少なくとも2通りの可能性はすぐに思いつきました。

1.「実在性に則る」=「キャラクターがまるで生きている人間であるように感じられるための表現の質を追求する」
詳しくは後述しますが、カウンター記事の方ではこの解釈をされているのではないかと思います。読んで字のごとくで説明は不要かと思いますが、それこそ衣擦れや吐息というようにどれほど写実的に現実を描写できているかという解釈です。

2.「実在性に則る」=「キャラクターがまるで生きている人間であるように感じられるための表現の量を追求する」

それを5年間も積み重ねてきたことによる「実在性」に対する迫真さ

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1299183.html
アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

や、

映像化の宿命として、あるコンテンツを別のコンテンツで表現する場合、そこに必ず翻案の必要性が出てくる。その過程で解像度を低くしたり、情報が入れ替えたりするのは避けられないことだ。

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1299183.html
アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

といった、複数の「『実在性』の表現箇所」を示唆する文意に基づく解釈です(後者は誤字もあって微妙ですが、入れ替えるだけの量がある「情報」をと表現箇所と解釈しました)。

実際には1と2両方が包含されているのではないかと思いますが、いずれにせよ記者はこうした要素が希薄になる、欠落することによってアニメ版シャニマスが「物語化」されてしまうのではないかと懸念を表明しています。私も大好きなセリフですが、記者は間違いなく「生きていることは物語じゃないから」と言いたいのでしょう。要は「生きているゲーム版シャニマス/物語化されているアニメ版シャニマス」のような対比構造が成立してしまわないか、という懸念なのだと思います。めちゃくちゃ行間を読まされているので外に向けた記事としては明らかに片手落ちだと思いますが。

そして、そういう「物語化」が起きる原因として、先にも引用した

その過程で解像度を低くしたり、情報が入れ替えたりするのは避けられないことだ。

https://realsound.jp/movie/2023/04/post-1299183.html
アニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』への期待と懸念 “実在性”にどう挑む?

が挙げられているわけです。
出た、「解像度」
文脈上、ここでいう「解像度を低くする」は先ほど推察した「実在性に則らない」と同義だと思われますが、カウンター記事ではこの「解像度を低くする」に対して「enzaはもともと解像度低いだろ」と反論しています。

ここに両記事の最大の問題点が象徴されています。 

「解像度」とはふつう、ディスプレイを占める画素数のことです。たとえば「フルHDよりも4Kの方が画素数が多いのでより輪郭をくっきりさせて物が描画できる」というような尺度です。転じて、「どれだけリアルに対象を表現できているかという尺度」として解釈することは可能ですが、ここには大きな問題があります。
それは、この定義は拡張性が高すぎるということです。

シャニマス界隈でいう「解像度」は、眺めている限りだと
・人づきあいにおける自他の心模様
・レジのお釣り調整に代表される生活の知恵
など、一言で言えば「日常あるある」として用いられています。確かに先の定義を拡張すればこう転用することは可能です。可能ですが、ではこの定義に基づいた場合の「解像度の高低」はどうやって測るのですか?どれぐらいの人の共感を呼べるか?描写の数?ニッチ度?それらを表現するSEやテキストそのものの品質?たぶん全部含められますよね。何にでも使えるということは、人に理解させる文章で留保なしに使うべきではないと思います。

カウンター記事に話を戻すと、「表現のクオリティ」という意味で「enzaは解像度が低い」と書かれたのだと思います。
 しかし、元記事の常識的なシャニマスの紹介文に対して「ゲームじゃないならアイマスじゃないのか」とより大きく厳密な定義論を持ち出すのであれば、「enza」などと雑な表現ではなく「spineアニメーションという2次元表現」と正確を期すとか、あるいはenzaというHTML5プラットフォームそのものがこうしたspineアニメーションの使用を強制する、などと言うべきでしょうし、「解像度を低くする」ということがどういった意味で用いられているのかを分析したうえで批判すべきです。端的に言えば、フェアではありません。

実際、「解像度を低くする」ということが「実在性を感じられる描写の数を減らす」という構成の操作を指す場合、メディアの表現特性をもって反論することは的外れですが、カウンター記事ではそうした可能性は考慮されていないように見受けられます。

繰り返しますが、元記事の表現は極めて曖昧であり、主張の是非はおいておくとしてもその論旨が一意に定まっていないことは明らかです。しかし、これは多少の自戒をこめて言うのですが、シャニマス界隈ではしばしば定義が曖昧ながら手触りの良い表現が使われることは珍しくありません。これは行間を読ませるゲームの性格を引き継ぐものであったり、表現の省略であったり、悪いときには思考放棄の誤魔化しであったりする訳ですが、こうした表現について考えてみることは多くの示唆をもたらしてくれると考えています。私は基本的に「考察」という表現を多用するのは好みませんが、そうした行動は立派に考察と呼んでよいのではないかと思います。

今回、両記事に対して批判を行いましたが、「実在性は手段にすぎない」の段落で述べられたようなことが一定の共通理解として広まっていることを確認できたことは嬉しかったですし、この批判を書くに便乗して長らく燻っていた「曖昧な表現」に対する所感を整理できたことは収穫でした。なんだか勝手に満足している格好となってやっぱり申し訳ないのですが、まぁ、ちょうどそんな感じのワールプールフールガールズもやってるし、なんだかそれもシャニマスっぽいじゃんということでここはひとつどうかご容赦ください。

引用


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