"YOUR/MY Love letter"感想/ある隣人から、親愛なるシャイニーカラーズへ
私は某DX企業に勤める26歳独身男性で、一浪一留しているので今年で入社3年目になる。昔から今と変わらずいい加減な性格だったのだが、だからこそ「クール」であることにはそれなりに憧れがあったと思う。もっとも、こういうのも何だが勉強はそこそこ出来たし、同時に小中高の仲の良い友達はだいたい自分より頭や容量が良かったので変に驕ることもなく素直に彼らを尊敬することも出来ていたと思う。特に自律的で良心的な両親(なんつってw)(そういうの、オジサンっぽくてヤバいですよ)の存在は大きく、こういうキモさは彼らの遺伝とそこへの憧れによるところが大きいのだろう。父と母はともに同じ会社のSEで社員旅行をきっかけに出会い結婚したらしいのだが、二児がある程度成長した後は母は銀行のパートとして働いていた。とても真面目で、その職場では初めてパートから正社員への登用の話が持ち上がるほどだったらしい。しかし転移した肝臓の機能不全によって膵臓がんが見つかり、彼女は長男が中学生になる姿を見る前にこの世を去ってしまった。それは有限の命のなかで善く在ることの価値を問うものとしてどんな経験より強烈だったし、これからもそうありつづけるだろう。
「#シャニマス」または「#アイドルマスターシャイニーカラーズ」で検索しこの記事を開いたあなたは奇妙に思ったかもしれない。その通り、上の文章はどう見てもシャニマスに無関係な私のエッセイだ。しかし"YOUR/MY Love letter"を読んだあなたなら、この衝動を理解してくれるかもしれない。彼女らは、シャイニーカラーズは「あなたのことを教えて欲しい」と言った。だからこの記事は、「私」からの彼らへのラブレターなのだ。
...とちょっと格好つけて書いてみたのだが、込めた気持ちは本物だ。加えてこの回顧はけして無意味なものでもない。とは言えずっと自分語りを続けるのも申し訳ないし本当にシャニマスと無関係になってしまうので、まずは私にとってのシャニマスとの4年間について(「まずは」で4年間を語ろうとするの怖すぎん?そういうとこだぞ)簡単にお話ししよう。
私とシャニマス
私がシャニマスに出会ったのは、今ネットでつるんでいるコミュニティのひとりがやっていたyoutube配信だ。サービスの開始した2018/4/24の夜、そこには"XboxやPSPで出ていたアイドルマスター"が現代に蘇った姿があった。アイマスについては高校の時にたまたま見たアニメでドハマりし、少ない小遣いでCDを買い漁り、ゲームではOFAとSPをプレイしていた。SPのシビアさと戦略性は非常に好みだったが、どちらにしてもストーリーへの退屈さを感じていたことは否めない。劇場版も終わり10周年も近くなってきたころ(つまりコンシューマでの展開がほぼ無いだろうと思われていたころ)、「自分が好きだったのはアニマスとその世界だったのかもしれない」という疑念を強めていたところに10thライブでプラチナスターズが発表された。その時は心躍ったが、結果は疑念が確信になったのだった。以来アイマスへの興味を失ったが、その配信に映されたプレイ動画にはかつてあった容赦ない敗北と、その積み重ねの先の栄光を志向して作られていることは容易に見て取れ、強い感動と共にゲームを始めた。
一年目のシャニマスについては、あまりに簡素かつコンシューマライクで、当時はアイマスとしては(そしてシャニマスとしてもだけどな)信じられないほど商売っ気がなかった。またシナリオ面についても、古典的アイマスの忠実な再解釈でありながら、そう表現する以上のものは一部を除いてあまりなかった。初めてソシャゲを触った自分にすらも「長くは続かないだろうな」と思わせるほどのものだったが、イベントシナリオ『Catch the shiny tail』の完成度、用いられたギミック、そしてこの台詞は、「何かが変わった」と強く感じさせるものだった。
以降のシャニマスについては多くの知る通り非常に上質なシナリオを連発しており、そこについては敢えて語ることもないだろう。いや、あるのだが、一旦脇に置いておきたい。
そして4年の歴史のしめくくりとして、"Your/My Love letter"が綴られた。
人々が世界を織りなす
本イベントシナリオは、モブ(mob)をモブ(大衆)として描くのではなく、シャイニーカラーズの世界に生を受け、それぞれの時間を生きてきて、そしてこれからを生きていくひとりひとりとして描いた。確かに彼らに羽根はないのかもしれない。しかし空に瞬くあの星(アイドル)が名前を持つように、彼らにも名前があるのだということを、鮮やかに描いて見せた。まずはそのことに、最大限の賛辞を贈りたい何様だよ。
尤もこうした取り組み自体はシャニマスにおいて長らく試みられてきたものだ。最古はおそらく”Star n dew by me”なのではないかと思うが、"階段の先の君へ"が今回の方向性に最も近かかろう。
当時既にシャニマスは「街」への愛を隠さずにいたように思うが、"階段"はそんな街に住まう人々と放クラ、そしてプロデューサーの交流を通して、各々がこれまでを振り返り、そして離れ行くお互いの道にエールを贈る物語だった。直後の"薄桃色にこんがらがって"がとてつもない良作だったがために若干影が薄くなっている気がしているが、こちらもシャイニーカラーズを象徴するような素晴らしいイベントシナリオだ。
街と、そこに住まう人々と、その過去と、その営み。
それらへの眼差しの中に、櫻木真乃がいて、天井努がいて、七草はづきがいて、商店街の会長がいて、遠野美百合がいて、プロデューサーがいる。
シャイニーカラーズは、ずっと彼らを見つめてきた。
シャニマスに対して、よく「○○はアイドルを描くための舞台装置だ」という言説、そして時には批判を見かけることがある。実際に制作プロデューサーである高山Pも「主役はアイドル」のような発言を度々している。それはそうなのだろうと思う。でもそれは、「アイドル」だって同じことだ。彼女らは「アイドル」であることを、「主役」であることを求められている。そうあり続けることを求められている。
彼らは等しくあの世界に生きていて、世界の歯車としての役割に準じ、時に歯車から逸脱して生きている。それはつまり、世界を通して彼らは繋がっているし、そんな彼らが世界を織りなしているということだ。ほとんど物を知らない私だが、私の思想に深く影響を与えた「鋼の錬金術師」からいくつか言葉を引用したい。
「プロデューサー」について
今回のイベントシナリオが多くの人々を誇張なく対等に大切に取り扱おうとした(立ち絵の有無や、バックボーンの量の差はあれど)手前ある個人を限定的に取り上げるのも心苦しいのだが、メッセージを受け取ったひとりとしてそこに返答しない訳にもいくまいということで、今回における「プロデューサー」の描写について話したい。
アイドルマスターシリーズにおいて、シリーズのプレイヤー又はファンは「プロデューサー」と呼ばれる。たとえば「P」「ミリP」「デレP」「エムP」などは基本的にそれらシリーズのファンのことを指す。実際この私も、noteやtwitterのアカウント名にはchrisPと「P」をつけている(もっともこれは、twitterアカウントを作った当時の風潮に合わせる目的や、一意性の向上の目的によるところが大きいのだが)。シリーズ他作品においては、プレイヤーが設定した任意の名前が作中に登場するし、実際に「プレイヤー=作中のプロデューサー」の図式だと強調されることが多い。
翻って、シャニマス作中における「プロデューサー」は強い自我を持ち、彼なりの思想に基づいて行動していること、またそんな彼が「シャニP」として広く知れ渡っていることは最早事実としてよいだろう。
そうした風潮がどのように出来ていったのかを調べるのは難しそうだが、私の中ではいくつもの印象的なコミュを経て着実かつ濃密に形成されていった。特に象徴的なものは、"Catch the shiny tail"と【チエルアルコは流星の】、そして【空と青とアイツ】だ。その後のコミュについては完全に、アイドルに全く等しい重さで並び立つ登場人物としてその姿を追いかけてきた(余談...でもないのだが、彼をどう呼ぶかについては私の中で色々と変遷と葛藤があり、今は主に「彼」と呼ぶことにしている)。
そうした立場のひとりである私にとって、今回私は2つの立場で作中に取り込まれ、メッセージを受け取ったと思っている。
1つは無数の隣人の一人として。
もう1つは「プロデューサー」を求める者として。
・無数の隣人の一人として
「シャニP」の話をするときによく持ち上がるのが、「同一視」の話題だ。ある方は「イケメンで高身長で完璧人間」や、「青臭く不器用だがどこまでも誠実で優しい」など、複数の評価点をミックスしたりしなかったりの違いはあれど彼を持ち上げ、自分と彼は全く違う存在であるとする立場だ。
それに対して、そうした俯瞰的な立場は欺瞞であり、その実「シャニP」に対して理想の自分を投影しているのだという立場がある。
私としては、これらの意見は実際にはどちらも正しいのだと思っている。私は私だし、どんなゲームを遊んでいてその主人公を意のままに操作していても、その感覚は常に失ったことがない。主人公に自我の無いようなゲームについては、コミュニケーションをしているというより一人芝居を見ているような気持ちに近い。(なので俯瞰的な立場を持つことによる優越を感じているのだろうという批判については、優越も何も無いだろうと無感動に言う他ないという立場である)。
一方で登場人物たち(主人公に限定しない)の思想に共感するところがあったとき、それが共感されたり批判されたりすることに「私」が一切介在していないと言い切るのも難しいだろう。仲間意識というのはそういうものだ。
歴史と慣習を持つアイドルマスターにおいて「シャニP」のような主観視点を立てることは、作品世界におけるプレイヤーの介在性を奪っているのではないかという議論があることをここに長々と説明した。
今回のイベントシナリオには、それは違うのだというメッセージがあったと思う。今回登場した人々のなかで「アイドル」とコミュニケーションしたのは「遠野陽呂美」と「鈴藤萌夢」だった(なお「甲田彼方」は"流れ星が消えるまでのジャーニー"において会話している)。彼らはハガキを通した間接的なやり方ではあったが、確かに大崎甜花やアルストロメリアに想いを届けた。彼女らはそれを受け取り、考え、返した。
はこばれた彼らの気持ちは、それを知らない誰かにも届けられる。その気持ちをはこんだ誰かがいる。その無数の連なりの中に私たちもいる。私たちが何者かに関わらず、確かに影響し合っている。そういうメッセージを、人々の名前を明かすということで鮮やかに伝えられたように感じた。
・「プロデューサー」を求める者として
多くのアイドルと同じように彼に魅せられ、樋口円香と同じようにその深奥を覗き見んとし、白瀬咲耶や大崎甘奈のように「輝かせるもの」が広く評価されてほしいと思うような私にとって、テレビ局部長のこの言葉はまさしく「激しく同意」するものだった。そういう私たちの気持ちをシャイニーカラーズが受け取ってくれたこと、そして何より彼の青臭い努力を確かに理解し、それを評価し、さらに今回、それを伝えようとしてくれる人が出てきたことが、まさに我がことのように嬉しかった。
遠野親子や甲田、鈴藤、徳丸がそうであるように、彼にも誰かの祈りが込められた名前があることはもう、疑わなくてよいだろう。彼らがそうしたように、彼の名前を明かすことも出来ただろう。それを知るこれ以上ない機会は果たされなかったが、何よりも彼らしい言葉で自分の選択でその道を決めたと彼自身が言うのなら、それ以上の回答はない。
彼の名前もその過去も、知るべき人が知っている。
私たちはその努力を忘れなければ、それでいいのだ。
まとめ
アルストロメリアと、プロデューサーと、すべての名もなき人たちと、シャニマスを産み、これまでシャニマスを紡いできたすべての人たちと時間へ、惜しみない感謝を贈りたい気持ちでいっぱいになり、抑えられなくなったシナリオだった。
4年をかけてじっくりと培った土壌で育ち、アルストロメリアの花は種を飛ばした。おそらくその風の先には、シーズの二人が待っている。今を越える時が待っている。4年目最後のイベントシナリオとして、本当に、これ以上のものはなかっただろう。シャイニーカラーズを愛してきて、良かった。
この記事を読んで、きっと私が挙げなかったアイドルや印象深い人物たち、いくつものエピソードがあなたの脳裏をよぎったことだろう。是非そのことを振り返って見やってほしい。そうした空間的、時間的なパノラマに、私たちの想いが響き合い、変わっていくだろうから。
引用
アイドルマスターシャイニーカラーズ
鋼の錬金術師
鋼の錬金術師 シャンバラを征く者
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